呪剣《ラガルト》
「⋯⋯⋯⋯ 」
フィルデは彼女を見送り、前髪から溢れてきた水滴に気づいて、一度瞼を閉じた。
扉を閉めて内鍵を掛ける。
掻き上げていたはずの髪がほつれ、額を濡らしていた。
溜息をつき、また掻き上げる。
考えることが増えた。
「⋯⋯ 」
だが、今はまず、この水浸しの状態をなんとかせねばなるまい。
「《ラガルト》」
呪術師は名を持って対象を縛る。
故にこの呼びかけは開錠の合図であり、命令だ。
フィルデの体内を呪力が駆け抜け、《保管庫》に刻まれた幾重もの呪印がフィルデの呪力に反応して、巡り出す。
ーーはい。
《保管庫》の中から静かな応えがあるのと同時。フィルデの中で、呪力が弾け《保管庫》の内部へ繋がる扉が開く感覚があった。
刹那の閃光の後、フィルデの手は、一振りの剣を掴む。
ーー呪剣『ラガルト』
刺した相手の記憶を吸い取る力を持った『呪具』だ。
『呪具』とは、数ある呪物の中でも特殊な過程を持って古い時代につくられ、現代では製造も解呪も不可能とされている『意思を持つ』呪物の総称である。
「悪いな、手伝ってくれ」
フィルデは、剣を両手で捧げ持つようにしてから、鞘をつけたまま剣先を上に向けた。手首を軸に一気に回転させて宙に放つ。
何の装飾もない古びた剣はフィルデの呪力を纏って力強く円の軌跡を描いた。
「ーー⋯⋯ 」
フィルデは剣が落下するより早く口内で顕現の印を結び、円環に向かって放つ。
剣の輪郭が陽炎のように解けて揺らぎ、煉瓦色の髪を短く整えた美男子に変わる。
人の形を取った呪剣は、簡略化された黒の軍服を纏い、フィルデの前に直立した。心臓に手を当てて腰を折る。
その顔の輪郭は直線が混じり、少年から青年へ向かう途中の年代であることが窺えたが、見た目にそぐわず影のように静かな礼だった。
フィルデは、最も信頼する呪具の変わらない生真面目さに、目を細める。
「本当は陛下の声がかかってからお前を呼ぶ予定だったんだが。なんせ、このザマでな」
ラガルトが顔を上げるのを待って、フィルデは自身の頭を指す。
ラガルトが橙色の瞳を丸くした。
職務に忠実な彼が、あからさまに狼狽えるのは珍しい。
「どうなさったのですか?」
フィルデは、肩を竦めた。
ラガルトでも突然びしょ濡れの主人に対面したら動揺するのかと感心していることは心のうちに留めておく。
「第三王女にバケツの水をぶっかけられた」
「バケツ」
ラガルトが呆気に取られていたのは一瞬だった。すぐにチェストへ向かいタオルを数枚と着替えやを右手に持ってくる。
仕事で泊まり込んだときに置きっぱなしにしてあったものだ。フィルデでさえ、すっかりその存在忘れていたのに、ラガルトは覚えていたらしい。
左手には、呪物の作成で使った桶を持っていた。
「ああ、ありがとう」
フィルデは、ありがたくタオルを受け取ってガシガシ髪を拭いた。ローブを脱ぐとすかさずラガルトが受け取ってくれようする。
「持ったら濡れるぞ」
「構いません。私はあなたと違って風邪をひきませんから」
フィルデは肩を竦めて、ローブを片手で渡した。ラガルトは丁寧に両手で受け取り桶に入れる。
「お身体に障りはありませんか?」
尋ねるラガルトの目は、怪我の有無を確認するようにフィルデの身体を見ていた。
「ないよ。水だけだ」
軽く答えながらローブの下に着込んでいた服も脱ぐ。
着痩せする質のフィルデは、脱ぐとそれなりに筋肉がついている。全て実戦でついたものだ。状況によっては、呪術で応戦するよりぶん殴るか叩き切った方が早い。
『男は筋肉だ! 強い男はモテるぞ!』とは師匠の言葉だが、信じた結果はご覧の通り、相手を殺せる手段が増えただけだった。
フィルデが服を渡せば、ラガルトはやはり丁寧に預かって桶に入れた。
「しかし、どうしてまたそんなことに」
困惑しつつ、着替えを渡してくれるので、温順しく厚手のシャツを着た。
「知らんよ。結婚がどうとか言ってたが⋯⋯ 。まあ、あのお姫様のことだ。大方どっかでなんか耳に挟んで誤解してるんだろう」
第三王女アルノリア・フォン・ブライデン・セテナは、非常に耳の早い少女なのだが、根がせっかちなため話を誤解しやすく、間違ったままあらぬ方向へ猪突猛進するときがある。
そういうときの彼女は頭に血が昇っているので、嵐のように全てを薙ぎ倒していく。
ただ、本人も自分の性質を自覚しているので、落ち着くと反省はきちんとするし、変に引きずることもない。
ゆえに、フィルデは彼女の行為を大人として叱りはしたが、怒ってはいなかった。
少なくとも、彼女は誰かに自分の感情を任せない。
侍女や護衛に命令して言いに行かせることもせず、自分のテリトリーに呼び出して面罵することもしなかった。
むしろ味方である彼らを置いて真っ直ぐに呪術師であるフィルデのところに一人文句を言い来る度胸はわりと気に入っている。
微かにラガルトが目元に皺を寄せた。
「主人は、もう少しお怒りになられてもいいのではないでしょうか」
フィルデは微笑う。
「何をだ。水をかけられたことか。それとも、理不尽に怒りをぶつけられたことか」
「どちらにもです。あなたは優しすぎます」
今度こそ、フィルデは声をあげて笑った。
わしゃわしゃとラガルトの頭を撫で掻き回す。撫でてから、バケツの水を被った後で手を洗ってなかったな、と思い出して詫びたが、ラガルトが気にしてないようなので、おまけにぽんぽん叩いてから手を離した。
「お前がそれを言うのか」
あまりに愉快だったから、そのまま聞けば、ラガルトは少しばかり沈んだ様子を見せた。
今日は、ラガルトのいろんな顔を見れるなぁとフィルデは頬を緩める。
「⋯⋯ 誰でも言いますよ」
「誰が何を言おうとどうでもいいが、俺より余程優しいお前が言うと面白い」
ラガルトは虚を突かれたようだった。
クッと見開いた目を歪めて伏せる。
「弱い、だけです⋯⋯ 」
フィルデは、その頑なな旋毛を愛しさを持って見下ろした。
「いんや、優しいよ。忘れたか? 俺は、お前の身に起きたことを、全て知っている。お前の主人だからな」
フィルデは、《保管庫》を管理するにあたって、中にあったすべての呪具と主従の契約を結んだ。
だから、知っている。
歴史は、起きた事実しか刻まない。
人はその事実からしか人物像を描けない。
世界には、心を置き去りにして言動だけが残るのだ。
「お前は、誰も恨まなかった」
「⋯⋯ 恨めません。とても」
ラガルトは、『加害者』です。
「うん。それも知ってる。その上で、あえて言おう。お前は優しい。多分、俺が知る誰よりも。辛抱強く真っ直ぐだ。だから、そう本気で言い切れるんだ」
《保管庫》の呪具たちと契約を交わした呪術師であるフィルデだからわかることがある。
「誰がなんと言おうと」
たとえ、世界の全てがラガルトを『悪』と嫌悪しても、フィルデはそれを笑い飛ばそう。
「お前は俺の自慢の呪具だよ、ラガルト」