嵐を呼ぶ王女殿下
頑張る若者の姿に励まされ、フィルデもちょっとだけ寂しさを忘れて仕事に打ち込んだ。
そうしてしばらく、平穏な時間が続いた後のことである。
なにやらダンダンダンダンッと不穏な足音が外から響いてきた。
フィルデは頸の産毛が立つような嫌な予感がした。
机から顔を上げたフィルデの視界の端で、清掃係も驚いたように手を止めている。
足音は恐ろしいことにフィルデの部屋の前で急停止し、ノックすらなく扉を開け放った。
現れたのは、目が覚めるような美少女だ。
アルノリア・フォン・ブライデン・セテナ。
セテナ国の第三王女、御歳十七歳である。
花もはじらう乙女であるはずの彼女は、陽光を紡いだような豪奢な金の髪を背中に波うたせ、華奢なドレス姿に似つかわしくない勇ましさで部屋に踏み込んだ。そして、掃除係にガンを飛ばし、彼女を隅に追いやると、床にあったバケツをむんずと掴み取り、ドスドスとヒールを床に突き刺す勢いでフィルデに向かってくる。
彼女は一人だった。
いつも連れている共の一人もいない。
唖然としていれば、廊下から遠く「姫さまーーーー!! お待ちをーーーーー!!」「早まらないでええええ!!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
いったい何が起きているのか。
フィルデが絶句する中、姫君は憤怒に青い瞳を燃え上がらせ、バケツの水を両手で構えて「ふん!!!!」と中の水を放った。
水は勢いよくバケツを飛び出して、執務机に座っていたフィルデを頭から濡らす。
ザバァと音を立てて滴り落ちた水は、フィルデと机にあった書類と床をビシャビシャに濡らした。
掃除係が驚愕に飛び跳ね悲鳴を上げた口を両手で押さえている。
「は?」
随分と間抜けな反応を返してしまったが、フィルデは悪くないはずだ。
毛を逆立てた猫のような姫君は、たった今空っぽにしたバケツを投げ捨てた。
「このロリコン変態呪術師! あなたとなんかずぇーーーーったい結婚しないんだから!」
正面からバケツの水をぶっかけられたフィルデは、思考が追いつかなかったため、口を閉じたままゆらりと席を立った。
パタパタと前髪から落ちてくる水滴が鬱陶しく、片手で掻き上げて適当に後ろへ撫で付け、机の向こうにいる彼女の前まで移動する。
姫君は、フィルデの胸程度の身長しかなかった。その顔を見おろす。
姫君はほんの少したじろいだが、それだけだった。
「このっ無礼者ッ! 呪術師如きが、私を見下ろすんじゃないわ! 跪きなさい!」
雷撃の如く怒りを放つ。
しかし、フィルデは《賢者》である。《賢者》は国王の相談役であり、その地位は唯一無二のものである。国王にすら膝を折る義務はないのだ。
そもそも、出会い頭にバケツの水をぶっかけて来るような女性に対して、どう敬意を持てばいいのか。
可哀想に、さっきまでせっせと拭き掃除をしていた善良な掃除係が突然の修羅場を目撃してしまい真っ青になっている。
よって、彼は王女からの要求を無視し、変わらず見下ろした。
身に覚えのない結婚話など、いろいろ尋ねたいことはあるが、まずは。
「⋯⋯ 恐れながら、殿下。謝罪していただけますか」
「いやよ。なぜ、私があなたに謝らなければならないの。謝るのはあなたの方よ! さっさと額を床につけて、これは間違いでしたと赦しを乞うのが」
「殿下」
「ッ私の話を遮るなんて!」
「そんなことはどうでもよろしい」
「どうでもいいですって!? あなた何さ」
ま、と続けようとした第三王女を見下ろす目に力を込めて、フィルデは口を開いた。
「《賢者》です。それよりも、彼女へ謝罪いただきたい」
「は?」
何言ってんだこいつ、という顔をする第三王女に、フィルデは揃えた指で謝罪すべき相手を示した。
部屋の隅で小さくなっていた掃除係が「へっ?」と声を上げる。
「彼女は、仕事をしていました。王女殿下がたった今空っぽにしたバケツの水を使って掃除していたんです」
「だから何よ! 水なんかまた汲みに行けばいいじゃない」
「では、王女殿下が汲んで来てください」
「ふざけないでッ、どうして私が!」
「汲みに行けばいいと仰ったのは王女殿下です。仕事をするものへの敬意もなく、邪魔をして謝罪もない。自らしたことがどのようなことであるかわからないなら結構。経験なさい。バケツいっぱいに水を汲み、ここまで運んで来てください」
元から怒りに赤かった姫君の顔がくしゃりと歪んだ。振り抜かれた右手をフィルデは掴んで、止める。
「不敬者!」
「それは、貴方自身だ。職務を全うするものへの敬意をお持ちなさい」
ジタバタ暴れる彼女を抑えているうちに、第三王女付きの侍女や護衛たちがやっと駆け込んできた。
それぞれ必死に「申し訳ございません!」「悪い子じゃないんです」「ちょっと結構かなり思い込みが激しいだけで」「何卒何卒どうか呪殺だけはご勘弁を」「誠にまこっとに申し訳ございませんでしたああぁぁ」と謝罪の言葉を口にして、汗を飛ばし、嵐のように姫君を連れ帰っていく。
護衛に担がれた姫君の捨て台詞は「アンタなんか大っ嫌い!! ハゲちゃえ!!」だった。
「⋯⋯ いや、いいからバケツの水」
伸ばした手の先をひゅるりと虚しく風が切った。
はあ、とため息をついて、フィルデは転がっていたバケツを拾う。
「あ、あの閣下」
控えめな声に振り返ると掃除係がバケツを見ていた。目は合わない。怖がられてるもんな、と思ってフィルデは目を逸らした。
「私にもよくわからんが、巻き込んだようだ。悪かった。水を汲んでくる」
頭から水を被ったせいか敬語が引っ剥がされ素が出てしまったが、もう言い直す気力もない。
歩き出したが、部屋を出る前に止められた。追いかけてきた細い手がバケツを掴んでいる。
「み、水は私が汲んでまいりますから! 閣下は早くお召し物を着替えてください!」
そう言われて、フィルデは自分を見ろした。頭から被ったので、肩も胸から下もぐっしょりと濡れて、床にはポタポタと水滴が落ち、机にも水溜りができてきた。書類は作り直しだ。
「⋯⋯ すまない。床の水を片付けるのが先だったな」
掃除係である彼女がこの水溜りを片付けるには、雑巾に床の水を吸わせて、バケツに絞らなければなるまい。なのに、フィルデがバケツを持って行ったら、仕事ができなくなってしまう。
これだから、呪術師は世間知らずだと批判されるのだ。今までそう言われるたびに、内心小さく反発してきただけに、実際そうとられるような行動をとってしまったことにフィルデは凹んだ。
「雑巾を貸してくれ」と手を出したフィルデに、掃除係の彼女は「そうじゃなくて!」ともどかしげに叫んだ。
「もう! このままじゃ、風邪ひいちゃうでしょ!!」
必死な顔で、フィルデを見上げる。
目があって、びっくりした。
彼女はとても綺麗な翠の瞳をしていた。
「春とはいえ水は冷たいんです。ここは正直言って日当たりも良くないですし、濡れたら冷えるでしょう。しかもバケツの水なんて。もう掃除に使ったあとだし汚れてます。とにかく脱いで、できればお風呂にもはいってそれから温かい飲みものとか。あ、生姜! 生姜がいいんですよ! そのままだと辛いけど蜂蜜とレモンを使えば風邪の予防にもなりますから、あの私、すぐに厨房に頼んで⋯⋯ 」
言いながら、ハッとしたように口をつぐんで、そろそろと俯いた。じわじわ、と彼女の顔が赤く染まっていく。
「も、申し訳ございません。あの、私、出しゃばって閣下に生意気な口を」
きゅっとバケツを掴む細い手が震えているのに気がついて、フィルデは慌てた。
「あ、いやこちらこそ、余計な心配をかけてしまい」
「いえ、そんな、私の方こそ、差し出がましく」
「とんでもない、仕事を増やしてしまって」
「まさか、そんな違います」
あわあわと互いに言い合って、黙り込む。
やがて、そろり、と彼女がバケツを引いた。
「そ、そのバケツを」
「あ、ああ。すみません」
熱いもの触れたときのようにフィルデはバケツから手を離し、彼女がバケツを抱き込むのをなんとなく目で追う。
「部屋、を、片付けますので、閣下はどうかお召し物を」
バケツを見ながら言い募る彼女にフィルデは頷きかけ、あ、いやそれはダメだわと寸前で思いとどまった。
研究室に清掃係を一人置いていくのはさすがに拙い。
「すまないが、それはダメだ」
「お、奥には行きません」
「うん、だとしてもだ。これは、あなたに非があるわけではなく、この研究室と保管庫の主人としての責任で、部外者を残したまま部屋を出るわけにはいかないんだ。何かあった時に責任が取れない」
そう言うと彼女は、しおしおと頭を下げた。
「そう、ですよね。考えなしでした。申し訳ございません」
(あっ、あーーっ凹んでる凹んじゃった! ごごごめんねーーーーーーー!!!!!)
若い子のせっかくの気遣いを跳ね除けてしまった罪悪感で、フィルデは死にそうになりながら、何かないかと、苦し紛れに口を開いた。
何か。何か。あああなんかないかな。えーと!
「⋯⋯ じ、つを言うと、喉が渇いています」
さっきから感情の乱高下で口調が乱れまくっていて、大人としても《賢者》としても恥ずかくて舌噛んで引き篭もりたいのだが、この際自分の羞恥は無視する。
持ち上がった彼女の顔に安堵しつつ、視線を向けたらまた怖がらせそうで、こちらから逸らした。
「差し支えなければ、先ほどおっしゃってた飲み物を厨房に頼んできていただけますか? 部屋の片付けなら私の方でもできますので」
ちょっとズルいし、人前ではあまり使わないようにしているが、フィルデにしかできない方法があるのだ。
「⋯⋯ 蜂蜜とレモンと生姜の、でしょうか?」
そろり、と彼女聞かれて頷く。
「ああ、はい。それを一つ。風呂に入ってからがいいので、一時間後にフィルデ・テルマが厨房まで取りに行くとお伝えください」
清掃が仕事のあなたにお願いするのは申し訳ないですが、と付け足す。
途端、彼女はこくこくこくと何度も頷いた。
「承知しました!」
今にも飛び出していきそうな様子に、フィルデはハラハラする。こ、転ばないでね。
「今回は、巻き込んでしまい申し訳ありません。後日、改めてお詫びします」
フィルデが詫びると、彼女の顔がこちらを向いた。真っ赤な顔の中、翠の瞳がフィルデを見る。
フィルデはちょっと息が止まった。
「なんで、閣下が謝るんですか」
遠慮がちではあるものの可笑しそうに笑う。
「⋯⋯ 閣下の言葉がとても嬉しかったです。ありがとうございました」
丁寧に謝意を述べた彼女は「どうかご自愛ください」と退出していった。