80.目覚め
目が覚めたら、どこかのベッドの中だった。
もちろん、日本にいた時のような清潔感があって完璧に整えられたホテルではない。田舎風、ではなく田舎。
壁はクリーム色に塗られていているが剥げている、絨毯は千切れ木の床の半分まで。そこから半分の床は向きだした。
四角い窓には木枠越しに夕日がのぞいている。
――あのあと、リュクスは吐いた。
嘔吐して、泣いて、また吐いた。
産科は出血が多い。五百ミリリットルぐらいまでは多めだが珍しくない、一リットルになるとさすがにショックリスクを考えるけれど、臭気も血が飛び散った光景も見慣れている。それより患者の状態だけにしか意識は向いてない。
胎盤という臓器も毎回観察計測して触れるから、臓器を見るのも抵抗はない。
でも、人が死ぬ。惨劇にショックでしばらく動けなかった。壁に向かって吐く自分をウィルは急かさなかった。ほとんど食べてなかったのが幸いした。胃液だけで、そのあとは疲れて大人しく馬に乗り、途中で意識を失うように眠ってしまった。
何かで眠らされたわけじゃなくて、これまでの疲れと睡眠不足でもう持たなかった。
リュクスを二人がどこかに運んだのだろう。警戒バリバリだったはずなのに、最後は運ばれた。情けなくて、呆れてしまう。
それもあって気力も体力も尽きてベッドに座り込みたくなる。
――あの街のことは、どうしたのだろう。
この部屋には誰もいない。でも、ウィルの魔力を階下に感じる。消すことができる彼がそうしないのは、リュクスに自分がいることを気が付かせるため。緩くて柔らかい心地いい魔力。
そして軽度の防御膜が建物全体に張られている。
あの街のことを話さなきゃいけない、それを引き起こしたのは自分だ。――でも何も話したくない。
リュクスはゆっくりと裸足で床に降りる。ベッド下は、布製のスリッパ式の靴があったからそれを履く。後ろを紐で結ぶタイプで、だれかのお古だが比較的綺麗。
この世界はあちらのように細かいサイズで売ってないし、市でしか買えない。けれどどこかで調達してくれたのをありがたく思う。
机の上には、紙片があった。
「シャワー使えるから、宿の人に言って。奥の部屋」とウィルの手でアレスティア語で書いてあった。
リュクスは目を見張った。いつの間に、と思う。すぐにその環境に馴染みなんでも使いこなせてしまう。
けれどシャワーはありがたい、好意に甘えることにした。
片隅に置いてもらったカバンを手にする。そこから洗顔料、歯磨きセット、櫛にタオル、替えの下着を取り出す。
夜勤中のお泊りセットだ。夜勤後に身なりを整えるもので、たまたま持っていてよかったと心底思う。
アレスティアは恵まれていてほぼ上下水道の設備も整っていたけれど、トレスの場合は王都だけ。お風呂も都市なら入れるけど、まだ着くには時間がかかる。
シャワーが使える宿を探してくれたウィル達に感謝しなければいけないだろう。
お湯はタンクに溜めおき式で、一定量をつかえば水しか出てこなくなる。しかも温度が低い。床のタイルもがたがたで、日本でも言えば電話ボックスほどの広さのなか、ちかちかするランプの下で震えながら身体を洗ったけれど、何もないより助かる。
歯磨き粉や洗顔料でこの世界を汚染したくない。またウンディーネに言って水の浄化を頼んで、用意されたリネンで身体を拭き、長い髪を丁寧に水分をふき取る。
ついでに下着も洗って、迷うけど椅子に干しておいた。
スマホカバーについている鏡で身なりを整えると、机に置いてあった用意してくれたらしい大きな服を羽織る。
暖かい地方に近づいたのか前の街より生地が薄い。前に南部出身の女性が着ていたのを思い出す。
パンツに薄手のワンピースのようなものを被り、帯でウエストより上部分で手前に結ぶもの。その上に鮮やかな薄布を羽織る。長い裾はくるぶしまで隠れる。裾に簡素な緑の葉の刺繍が揺れている。
枕元に畳まれたリボンを見て、広げる。エイミにもらったそれは、男たちに踏まれて泥染みが残っている、けれど洗ってある。
洗ってくれたのは、ウィルだろうか。
エレインに恨まれていないといい。禍根を残したのだろうか。
目を伏せ街での記憶を追いやる。まだ髪が乾いていないから垂らしたままで、リボンは手帳に挟み込んだ。
(結局、彼らがいないと何もできない……)
洋服さえも自分で手に入れられない。命を助けられたことも何度もある。
ここの出身で、最も強大な魔法を使う魔法士の司だし、日本ではそれなりに仕事ができる世渡り上手だった。
なのに、ことごとく自分の弱さを突き付けられる。
(違う、もともと弱い――)
――わけじゃない!
リュクスは拳を握って気合を入れる。私は弱かったんだ、なんて受け入れたくない、憐憫に浸っている暇はない。
魔法士になった時だって、助産師になった時だって、強くなることが必要だったから、そうなった。はったりが本当になる。
強くなるのはそういうこと。
(彼らと向き合わないと、いけない)
階下に降りていくと、ウィルが卓の椅子に座り軽く手を振ってきた。リュクスの魔力を感じて、半身をこちらに向けて気軽な態度だ。
既に薄闇が半開きにされた窓の外に見えていた。ピッチャーから注いでいるのは赤い液体。
同じものを店主に注文しようとすると、すぐにリュクスの前にグラスが置かれた。
怪訝な顔で彼の顔を見ながら飲んだら、やっぱりお酒ではない。
冷えたザクロジュースだった。
これはこれで美味しいけど、お酒が飲みたい。
「もっと寝てればいいのに、結局あれから三時間ぐらいだけど」
「夜勤明けってあまり眠れないの、調子を戻すのは次の日ぐらいから」
徹夜したのに、その晩はあまり眠れなくて、次の日の夜から眠りのペースを戻す。友人たちは夜勤明けには睡眠剤で調整するともいう。
医療職は不眠が多い。一晩中、煌々とした明かりの中を走り回り、アドレナリン出しまくりの生活をしていると眠り方がわからなくなる。
自分は睡眠剤を必要としていないけど、今も眠れたのは三時間くらい。眠りすぎると、夜に眠れなくなるから、それぐらいが丁度いい。
「事後承諾になるけど、ごめん。一応服の上から軽く傷を確かめた。頭は軽度のこぶ、あとは擦過傷。他に痛いところは?」
一瞬、どきりとした。アレを見られたかもしれない。でもそんなことを全く感じさせない様子でウィルは、これまでの傷や調子を尋ねてきているだけだとわかる。すぐにリュクスは何事もないように首を振る。
打ち身のような痛みはあるけど平気だ。
「ないし、ありがとう」
あとは、何を聞かれたんだっけ? リュクスは思い出しながら、ふわっと手で口を押さえながら軽いあくびを漏らした。
「やっぱり休んでたら?」
「ううん。平気。痛いとこも傷もない」
「――トラウマとかない? 怖くなったら――言えよ」
男たちに襲われたこと、それから街の惨劇。
リュクスが顔を強張らせて頷くと、ウィルはこいこいと手招きする。迷ったけど、横に座る。
「俺はそういうケアはできないけど。――なんつーかさ。夜とか一人でいると嫌な事しか考えないだろ。そういうときに、呼んでくれたらいいから」
「……ありがとう」
いろいろなショックがある。立ち直ろうとしても、まだ時間が必要なのかもしれない。
それに、彼らに助けられなかったら、集団で強姦されていたかもしれない。
「平気?」
案じるウィルに、リュクスも頷く。
「今は、平気。ああなったことを反省しているけれど」
「最初に言っとくけど。ここは南下した街道沿いの小さな町のアルス。カーシュは、あの場を最小限の被害で片付けた」
「……街の人たちは」
「カーシュが殺したのはどうしようもなかった。あとは忘れるように念押し。アイツらは絶対口を割らない。アンタを捕えるようとしたなんて、自分らのほうに分が悪すぎ。で、騒ぎが起きる前に出てきた。気づかれない、それがいつもの俺らのやり方」
「……なぜ、ここまでしたの――」
言いかけて黙る。カーシュの正気を失わせたのは、自分が彼の記憶を操ったせいだ。
「そうだな。いつもはもう少し冷静。私情は挟まず、必要な事を秘密裏に。それが俺らの組織で最も長けていたのはアイツ。あとは本人に聞いてってとこだけど」
「私が、彼の理性を失わせたのね」
そう言ってウィルの顔を見上げた。ワインを飲んでいた彼はそれを押しやってリュクスをじっと見ている。今は戦闘じゃないからか穏やかな雰囲気だ。
「後悔してるって顔」
「……心を操ろうとしたこと、ごめんなさい」
「んー」
彼は頬を掻く。
「効いたのなら謝るつもりはなかっただろ。けど、ばれたから謝る?」
「……ええ」
彼らがリュクスを忘れて、離れていったのならもうバイバイしていた。もちろん指摘通り謝る必要はなかった。
ウィルは優しい瞳で、けれど顔をしかめて見せた。
「効かなかったのは初めて?」
リュクスは頷いて、ウィルを見つめ返す。魔法士の長だった面目はない。まるで兄の様に彼は間違いを導いてくれている気がする。
「正直、初めて。日本人もトレス人も魔力がないからやらなかったけど。アレスティアではそうしてた。じゃないと……生きていけなかった」
魔力がない日本人でもトレス人相手でも、人を惹きつけてしまうことは多かった。
今は、ぎりぎりの綱渡りだったことに気が付く。人はいつでも襲ってくる。
罠をしかけたならば、なおさらその先を読まなきゃいけなかった。
ウィルは一つわざとらしく大きく息をつく。
「二十代後半って嘘でよくやってけたよな。危なっかしくて、一人にはしておけねーし」
言葉とは裏腹に「めっ」と悪いお兄さんの顔をしながら、ティアナの頭を撫でた。
「何で撫でるの!」
その手を払いのけると、なぜかあっちも驚いて手を見つめている。
「すっげーサラサラ。顔も髪も綺麗で、人生得してるって思われるだろうけど、好かれちまうって悩みはあるんだな」
「でもあなたもモテるでしょ?」
ウィルは笑うだけだった。
「いやいや。ところで、彼氏いなかっただろ」
「言いません」
「じゃあお兄さんが、すこしずつ世間ってものを教えてあげよう」
「いいです」
「うーん。いまのままじゃこの世界でもそうだけど、俺らの世界でもヤバいんで。俺が護衛をしてあげないとな」
「いりません」
リュクスは冷たく言い放ちながら、一つの可能性に思い当たり顔をこわばらせた。
そう、彼らの世界に行けば自分はこの能力を使わないといけない。
アレスティアでも、彼らの世界でも、嫌われることを命じる。
それはとても――キツイ。
日本で、特別な相手をつくったわけじゃない。普通の同僚、普通の友人。
でも、わざと嫌われるように命じなくて済んでいたのに、またそうやって壁をつくらないといけない。
ウィルは、気が付いたのかどうか、おもむろに口を開く。
「あの干渉、結構キツかったよ。ただアンタがその能力を使うってわかってたから準備してたし」
「……」
「で、俺たちの流儀、っていうの? 精神干渉は、やっちゃいけないことで。アンタの父親は厳罰にしてる」
「……」
「でもアンタは追い詰められてたんだろうし。ここだけの話にしとく」
(別に、あなたたちの組織に所属してるわけじゃない)
「ごめんなさい」
ばれなかったらいい、というわけでもない。本当はしてはいけないことだとわかってる。でも……。
(そうでもしなきゃ、どうすればいいの?)




