60.過去の出会い
「思い出に浸るな、死ぬぞ」
――身体が動かない。
誰かがいる。先ほどから見下ろしていた男だ。
岩肌の冷たさと鋭く頬を刺す石片の感覚が戻ってきた。
男は冷酷な響きを持つ声を放っていたが、観衆のような愚かな狂気はなかった。
そこには男の気配だけで、頬を下にしたうつろな視界に入るのは人の手。
傷だらけのその手は自分のもの、らしい。化け物の巨大な手ではなかった。
自分が気絶している間に、どこかに打ち捨てられたのかと思った。
(あの、少女は……)
飛び起きようとして、やはり全く身体が動かないことに驚愕した。
「おれ、は……」
かすれた声に驚いたが、獣の声ではなかった。あの獣になったのは夢だったのか。
「じきに死ぬ。今この瞬間に死にたければ言え、楽にしてやる」
冷淡というよりも、面倒だ、という声音。普通は助けようとするのに、全くその意志が感じられない。黒いブーツだけがわずかに視界にはいる。
普通はあり得ない。
だが、ここの人間はみなそうだ。むしろ、まともに奴隷の自分と会話をしているだけまだましだ。
「まだ……しね、ない」
あの少女はどうなった。
白金というものを、初めて見た。
何よりも美しい碧蒼の瞳。
それから彼女の懐から飛んでいった翠の石。
(あれはどうなった)
掴んだ途端に、手に平に灼熱が落とされて離した。どこにも感触がない。
「……ないか?」
「何?」
「ネックレス、しら、ないか?」
知らない、と男は言い、面倒だな、と続けた。これ以上、関わる気はないと。
だが、ブーツの先はまだ自分を向いたままだった。
「お前は、何かの呪いを受けている。助かる可能性は少ない、俺はそんな面倒事を抱えるつもりはない」
「……たす、けて……くれ」
この世界が残酷なのはもう充分思い知っている。日本とは違う。プライドなんてどうでもいい。すがりつくしかない、気を引くしかない。行かれないようにする。
あの少女はどうなった。瞳に涙をためた目、真珠のように雫が落ちていた。観客席の彼女ではない、あそこでは泣いていない。なのになぜ泣いている姿を思い浮かべるのか。
――あれを見たのは、いつだったのか。
「たすけなきゃ……いけない、んだ」
「皆、そう言う。誰もがそうだ。自分が特別とは思うな」
「ころして……やりたいやつも」
「果たせそうもないな」
背が向けられる。見捨てられる。ならばなぜ、話につきあった。少しは興味があったからじゃないのか。
「したがう」
「なに?」
「あんたの、ちからになる……俺は、多少は」
即座にもどってくる男が、手のひらで頭を鷲掴みにした。髪を掴み、凄みのある目でのぞき込んでくる。満身創痍の身が乱雑に扱われ、激痛が走る。
冷めた目、むしろ怒りをかったようだ。ふざけるな、と。
だが、戻ってきた、それだけが最後の機会だ。
「多少だと? ゴミ以下は死ね。俺は強いやつしか認めない。今ここですでに死にかけている奴などいらない」
胸が熱くなった。こんな熱をまだ持っていたのかと。
ずっとこの世界では翻弄されてきた、人間扱いをされたことなどない。それでも生き延びてきた。
目の前の少女の瞳がいつまでも消えない。
必ず助け出すと誓った。声に力が宿る。
「お前の役に立つ、必ず。だから……」
奴の黒いジャケットに左手で掴む、切り取られても離さないと誓う。
「――だから、助けろ」
奴は迷惑そうに手をかけて、そしてわずかに眉をしかめた。それは厭うものではなく、困惑が混じっていた。
「何だ、これは」
そして不意に首を掴んでいた手にさらに力を込める。
自分を凝視して、頭から体まで睨みつけてくる。困惑、そしてまるで怯えのような恐れが目に見えた気がした。
「俺の術式、か? いや……だが、こんなものを俺は作ってない」
奴が、息をのんで自分の手掌を見つめている。
「まだ、俺は、こんなものを作れない、これから作るのか」
謎の言葉を発して、奴が視線を向けてくる。
「どこでこの魔法に触れた?」
「ばけものの……」
「そっちじゃない。お前にかけられている呪いは別だ。何に触れた!? 先ほど言っていたものか!」
激高する奴に、頷く。同時に睨みつける。
「ないか、と俺は訊いた。そうだ、ネックレス、だ」
先ほど死ねといった奴が、いきなり自分に問いかけてくる、ならばこちらも取引だと。
「聞きたいなら、俺を助けろ。そちらのことを言え」
小さな舌打ちが返ってくる。
「これは守護、それから反射、それから……転移。お前が手を焼かれたのは、それに触れたせいだ。持ち主しか持てない、相当強い守護をかけている。お前をここに運んだ魔法だ。誰が何を持っていたか言え!!」
よくわからない、魔法のことなどしらない。
ただ問われることを素直に答えていたら、取引にならない。
「――お前はどこから来た? なんの力がある?」
どうやら興味を持たれた。少しは助かる見込みがあるかもしれないと。
「アレスティア……」
奴の闇のように黒い瞳が驚きで見開かれる。
うつぶせの自分を靴で上向きにさせて、顔をしかめる。その視線の先は、自分の胸に穿たれた刻印だ。
「GAS1995S11189 グロリアスアレスティア暦1995年、シルヴィアの奴隷か」
呟く顔には忌まわしさが浮かんでいる。
「――アレスティアから来たのか」
アレスティア”から”、わずかな違和感、けどそれはなんだ。
見下ろす目の感情は冷淡そのもの。黒曜石のような瞳は、日本人と違う。黒目黒髪でも彼はアジア人じゃない。
そこでようやく意識が戻る。力なく閉じるだけの目を見開いた。
――あの世界では、国ごとに色が違う。
黒目黒髪の国はなく、その色彩を持つ人間は地球のアジア系の人間のみ。なのに、アジア系じゃない人間がここにいるということは。
そしてやつの、アレスティア“から”という言葉。
「ここはアレスティア……じゃないのか」
「アレスティアはとうの昔に消えた。今はAA暦1088年。ここはグレイスランド」
淡々と説明をしながら、彼は自分の腕を掴んだ。
「お前に俺の魔法の残滓がある。――これから俺が作るものだ」
迷ったように一度口を閉ざしたあと、男は告げて固く口を引き結んだ。




