妹の翼
「生きてる鳥の頭を食べるとね、背中から翼が生えてくるの。知らなかった?」
引きこもりの妹は真剣な表情でそう答えた。部屋の中はカーテンが閉め切られて暗く、湿気とすえた臭いが充満していた。何日もお風呂に入っていない妹の髪はボサボサで、毛先が脂でくっつき、いくつもの小さな毛束を作っている。そして床には色鮮やかな緑色の羽が散らばっていて、トンビ座りをしている妹の脚の間には、家で飼っていたインコの死骸が置かれている。インコの死骸は頭がもがれていて、その死骸を囲むように、カーペットには大きな赤黒い染みができていた。
妹が不意に微笑む。口から覗いた歯は血で赤く染まってた。しかし、妹の異常な行動に対する恐怖も、ペットが死んだことに対する悲しみも湧いてこない。私の心にあったのは、目の前で意味もなく微笑む妹に対する、ただただ生理的な嫌悪感だけ。何年も前から引きこもっている妹の肌は、陽にあたってないせいか爬虫類のように不気味な白色をしていて、その姿はまるで絵の中に出てくる妖怪みたいだった。
「さっきからマジで何言ってるわけ? 翼が生えるとか頭おかしいんじゃないの?」
遅れてやってきた悪寒が背中をなぞる。舞い上がった埃を吸って思わず咳き込むと、床に落ちていた一枚の羽がふわりと舞い上がった。その間も妹はずっと私を見つめていた。引きこもる前からずっと変わらない、何かしらの批判と不満を帯びた眼差しで。妹は顔を伏せ、自分の脚の間に置かれたインコの死骸へ視線を落とす。そのまま何も言わず、妹は着ていた上着を脱ぎ始める。動きは一つ一つぎこちなく、耳を澄ませば骨張った身体から関節が擦れ合う音が聞こえてくる気がした。妹は長い長い時間をかけて、汚れたパーカー、だぼだぼのTシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になった。そしてそれから、妹はゆっくりと背中を向ける。
不気味なほどに白い妹の背中には、鳥と同じ翼が生えていた。
その翼は御伽噺に出てくるような、白く、清潔な翼ではなかった。一枚一枚の羽が土や煤で汚れた野生の羽で、それぞれの色や大きさが異なっている。灰色の羽もあれば、黒い羽もある。長く、鋭利な形をした羽もあれば、幅の広い楕円をした短い羽もある。そうしたあべこべの羽が継ぎ接ぎされて、二つの小ぶりな翼を作っていた。
それを目にした瞬間、妄執に取り憑かれた妹の作り物だと思った。しかし、恐る恐る妹に近づいてみると、翼が確かに妹の背中を突き破るように生えていることがわかった。さらに、一枚一枚の羽をじっと観察してみると、その中に緑色をした羽が数枚入り混じっていることに気がつく。その羽は、床に散らばっているインコの羽と全く同じ緑色をしていた。
「鳥を食べるときはね、息を止めて、目を瞑って、何も考えないようにしてるの。そうじゃないと、耐えきれなくなって吐いちゃうから。でも、まだダメ。こんな小さい翼ではまだ飛べない。だから、私は食べ続けないといけないの」
私に背中を向けたまま、妹は閉め切ったカーテンに向かってそう語り出す。妹の呼吸に合わせて、背中からから生えた翼が小さく揺れる。その翼の動きは決して可愛らしいものではなくて、野生的で、どこか生々しい。足元がぐらつく。その拍子に左足がインコの死骸を踏みつけ、生暖かい温度が足の裏から伝わった。
「飛べるくらいに大きな翼になったら、私はひどい目に合わせた『あいつ』を殺して、それから空に飛び立つ。精一杯翼を動かして、できるだけ高いところまで飛ぶつもり。そしてね、今まで私を見下してきた奴らと今まで私を閉じ込めてきた街を、誰よりも高いところから見下ろすの。私が世界の全てだと考えていたものがどれだけ小さくてくだらないものかを確認するために」
「……確認した後はどうするの?」
「確認した後? そんなものはないよ。私は翼を閉じて、そのまま真っ逆さまに落っこちていく。頭を地上に、足を空に向けて、風を感じながら私は死ぬつもり。その方が嬉しいでしょ? お姉ちゃんだって」
妹が振り返る。狂気を帯びたその瞳に見つめられても、私の頭はやけに冷静だった。目の前の非現実的な光景に頭が麻痺しているのか、それとも逆にこの現実を受け止めてしまっているからなのかはわからない。妹が言っている『あいつ』にも心当たりはあったし、それが虚勢ではないかもしれないということも理解していた。それでも、目の前の全てが自分と無関係なものだという感覚しか抱けない。私は深く息を吐く。それからインコの死骸を踏みつけないようにそっと足を動かし、脱ぎ捨てられた下着をつまみあげ、妹に向かって放り投げる。
「お母さんには黙っとくから。また面倒になるのも嫌だし」
私はそう吐き捨てて、妹に背を向けた。背中越しに妹の視線を感じる。だけど、私はそれを無視して部屋を出ていく。背中越しに、妹が静かに泣き始めるのがわかった。
*****
ねえ、あの都市伝説知ってる? 何ってほら、頭だけ食べられた鳥の死骸の話。
今日も教室の隅で、誰かがその話題を口にする。テレビのニュースになるほどではないが、学生たちが話題にするには絶好のネタ。誰々がどこで鳥の頭を食べる老婆を見たとか、これは異常性癖の変質者がやってることなんだとか、宇宙人が地球の生命体について調査を行なっているからなんだとか、そんな馬鹿馬鹿しい話が狭い校舎の中の至る所で囁かれる。
非日常的な出来事に胸を躍らせている級友たちの温度に私は全くついていけなかった。だけど、その話を振られた時はきちんと、必要以上に大袈裟なリアクションを取るようにはしていた。妹の仕業かもしれないだなんて言えるはずもなかったし、そもそも私に引きこもりの妹がいることすら誰も知らない。理由は簡単。変に目立って、気持ち悪がられるのが嫌だから。この狭い世界の中で築き上げてきたイメージを、頑張ってしがみついているこのポジションを、そんなことで台無しにされるわけにはいかなかった。妹に対して、可哀想だなと思う気持ちはある。だけど、私には私の毎日があったし、妹の苦しみを背負えるほど私に余裕なんてない。安全な立場にいる人間に限って、簡単に人を救うだなんて言葉を抜かすし、そういう人たちはきっと私のことを責めるだろう。でも、仮に私と全く同じ立場に置かれたとき、どれだけの人が同じ言葉を繰り返すことができるのだろうか。リスクを取って、しんどい思いをして、妹を助けるべきだということを
だからだろうか。彼氏と一緒に歩いていた帰り道に、頭を食いちぎられたカラスの死骸を見たときだって、罪悪感とかそんな感情は一切湧いてこなかった。一応怖がって、隣にいた彼氏に抱きついてはみたけど、そのときの私は、食い殺されたカラスよりも、部屋に引きこもった妹よりも、隣にいる彼氏の反応を気にしていた。彼氏はグロテスクなカラスの死骸にビビってたけど、すぐに隣にいる私のことを思い出して、何も見なかったかのようにダンマリを決め込んだ。70点。私は心の中で彼氏の行動を採点しながら、腕を組み、いつもの帰り道を歩いて行く。これが私の毎日。楽しくて仕方ないってわけではないけど、みんなと同じで、きっと何十年も続いていくんだろうなって思える、そんな毎日。私の毎日には頭を食いちぎられた鳥の死骸なんて存在しないし、背中から翼が生えるなんてことはないし、妹は家に引きこもってない。それが私の毎日。永遠に変わらない私の毎日。
妹の背中に生えた翼を見てから、私は家の中で妹と会わないように避けるようになった。でも、それは今に限ったことではない。妹を腫れ物として扱っている家族全員が、妹をいない存在だと見なして毎日を過ごしていた。妹に食べられたインコは窓から逃げたということにした。妹がこっそりと夜に部屋を出ていく音も聞こえない振りをした。そして、妹が殺すと言っていた『あいつ』のこともできるだけ考えないようにした。あまり顔を合わせることはなかったけれど、『あいつ』は自分が妹に対して行なった身の毛もよだつ行為のことなんてすっかり忘れていた。でも、それは私に関係ないことだった。『あいつ』が妹にしたことも、『あいつ』が妹に殺意を抱かれていることも、全部。
背中から生えた翼のことも日常の中ですり潰されていって、そのことを思い出す頻度も少しずつ少しずつ長くなっていく。それは当たり前のことだし、そうなるように人間が作られているんだと誰かが言っていた。だから、深夜に不気味な物音で目が覚めたあの日だって、私はまだ自分が永遠に続く日常の中にいるんだと信じきっていた。いつもは無視している物音とは違う音。そして、身体を突き刺すような静寂。私は身体を起こし、ベッドの縁に腰掛け、足を床につける。素足で感じるフローリングの床はいつもよりも冷たくて、家の中の空気はどこか重たく感じられた。私は少しだけ迷った後で、スマホの光を頼りに部屋を出る。
足元を照らすと、廊下に無数の羽が落ちているのがわかった。妹の背中から生えていたものと同じ、形も色もバラバラな野鳥の羽。羽は規則的な間隔で落ちていて、それはどこかへと続いているように見える。私は息をのみ、その羽をたどって廊下を歩いていく。家の中は静かで自分の足音だけが聞こえてくる。自分の家なのに、まるで知らない建物の中にいるかのような錯覚を覚えながら、私は歩き続けた。
廊下に点々と落ちていた羽は、『あいつ』の寝室へと続いていた。寝室の扉は開いている。そして、寝息も、身体を揺り動かす音も、何も聞こえない。私は足音を立てないように部屋の中へ入る。そして、記憶を頼りにスマホの光をベッドの方へ向ける。スマホの光で照らされたそのベッドの上には、首に包丁を突き立てられた父親の死体が横たわっていた。シーツの上には無数の羽が散らばっていて、鮮やかな赤い血がベッドの縁から滴っている。包丁は太い首を縦に突き刺していて、瞳孔が開かれた目はうっすらと濁っている。
私は父親の姿をそのままじっと眺め続ける。自分の父親の死体を目の前にしてもなお、私の心は不思議と落ち着いていた。私はそのまま踵を返し、父親の部屋を出ていく。廊下に散らばった羽をたどり、今度は妹の部屋へと歩いていく。妹の部屋の扉は閉まっていて、私は深呼吸をしてからゆっくりと扉を開けた。部屋の窓は全開になっていて、そこから差し込む月明かりが、無数の羽が散らばった床を幻想的に照らしている。黒い羽、灰色の羽、茶色の羽、緑色の羽。窓に面した床には脱ぎ捨てられた上着。そして、部屋の中に妹の姿はない。私は床に散らばった灰色の羽を一枚手に取り、開けた窓から外を眺めた。夜空には雲ひとつなく、濃い藍色をした背景の中にポツンと半月が浮かんでいる。私は手に持っていた羽をクルクルと意味もなく回転させて、半月を眺めた。開けた窓から夜風が吹き込み、ひとりぼっちの私の頬を、風がそっと撫でてくれた。
*****
そして、次の日の朝。上半身裸の妹の死体が、近所の空き地で発見された。死因は墜落死で、身体の原型は留めていなかったらしい。
周りに高い建物のない開けた空き地でなぜ墜落死の死体が見つかったのか。そして、死体発見現場で見つかった無数の鳥の羽は一体どこからやってきたのか。警察は結局その謎を解明できず、原因不明のまま事故死として処理されることになった。そして、引きこもりの娘が父親を殺し、翌朝死体となって発見されるというショッキングな事件は一瞬で広まり、街はその話題でもちきりになった。たくさんの嘘で塗り固められた噂や、一部だけ本当で、残りは全部嘘っぱちの噂。色んな噂話があちらこちらで囁かれて、腫れ物扱いされている私の耳にも、自分の意志とは無関係に話が入ってくる。だけど、そんな無数の噂話の中でも、妹の背中に羽が生えていたという話だけは一度も聞こえてこなかった。事件について話している人を一人残らず捕まえて、妹の背中に生えた翼のことを話してやろうかとも思った。みんな面白がってくれるかもしれないし、もっと詳しく聞かせてくれって言ってくれる人がひょっとしたら出てくるかもしれないから。
だけど、それは止めた。そう決めた理由は自分でもわからない。でもその理由は、妹の背中に生えた翼について、今まで誰にも話そうとしなかった理由と同じ気がする。
事件の後、結局私と母親は逃げるように街を去った。母方の実家近くに引っ越して、誰も私たちのことなんて知らない街で新しい生活を始めた。自分からペラペラ話さなければ、あの事件のことを誰も知らないままでいてくれる。だから、私はすんなりと新しい街に溶け込むことができた。友達もできたし、時間はかかったけど彼氏もできた。それは前と同じ、楽しいわけじゃないけど、ずっと続いていくんだろうなって思える私の日常。一度は失い、もう二度と戻らないだろうなって思っていた私の日常。
あれほど失うことを恐れていたものが、こんな簡単に取り戻せたことに私は拍子抜けした。それでも、次はないぞという危機感が私を強く不安にさせる。前と同じように、いや、前よりももっと、私はこの日常を失いたくはなかった。そんな私にとっては過去も未来も存在しないし、存在するとしてもそんなことを気にかける余裕はない。道端に落ちたカラスの羽を見ても、車に轢かれた鳩の死骸を見ても、何の意味も持たない風景の一部だと自分に言い聞かせた。
妹が望んだような翼は私には要らない。全てを失っていた妹と、私は違う次元の人間だから。だから今日も私は、できるだけ昨日と変わらない一日を過ごすように心がける。私にとって、生きるとはこういうことだった。