二つの久しぶり
目を覚ますと目の前には美少女がいて、彼女が自分に尽くしてくれる日々。
おそらく、男でこのシチュエーションに憧れを抱かない者はいないだろう。
たとえそれが全く知らない女の子でも、不法侵入だとしても、二次元なら非現実として許される。
異論があるやつは俺の敵だ。
だが現実に起こったらどうだろうか。
目が覚めると知らない美少女がいて、自分は彼女のことを何一つ知らないのに、彼女は自分のことを知っている。
こんな知り合いなんていない。というかまず友達というものがいない俺にはありえない光景。こわい、怖すぎる。
こんなことが起きてしまったら俺はまず夢だと疑うだろう。
なぜって?己らが一番わかっているはずだろう。
こんなことは俺にとってありえない、現実で起こるはずのない"非現実的"なことなのだから。
引きこもりを始めて早二週間、いつも通りの朝を迎えた日向は目を覚ます。
引きこもりと言えど、倒れてしまっては誰も助けてくれないので生活リズムには気を使っている。
しかし昨日は夜遅くまで作業をしていたため、まだ少し眠気が残っていた。
窓から差し込む日差しから逃げるように背を向け、二度寝と洒落混もうとする。
『あー、あー……うーん……これちゃんと聞こえるのかな……』
いや、聞こえているぞ。可愛らしい少女の声が。
覚えのあるシチュエーションにおもわずふふ、と笑ってしまう。
『あれ……?聞こえてる……?』
よくある設定だ。
普段聞こえるはずのない動物や物の声が聞こえたり、擬人化して話しかけてきたりする二次元限定の現象。
尚且つ、彼は一人暮らしをしているため、この家には彼以外に話せる者はいない。
『おーい、もしもーし……』
イヤホンやヘッドホンもせずにそんなものが聞こえるのは、ここが夢の中だからに違いない。
聞こえる声を聞き流し、二度寝に励む。
『……』
足元に転がる障害物を押しのける、この家ならではの物音が聞こえてくる。
それは段々とこちらへ近づいてきて__
トントン。肩を叩かれる。
うん?叩かれる?
まだ眠気が残るぼやけた視界で彼が見たのは、ぼんやりと人の形をしている影。
見覚えのないそれは彼の近くまで迫っていた。
『うお!?』
一人で暮らしているこの家で、彼以外の存在がいることはありえない。
見知らぬ影に驚き、恐怖のあまりベッドから落下した日向は、壁とベッドに挟まれ身動きが取れない状況に陥っていた。
その影はベッドに乗り上げ、固まる彼のことを見下ろす。
『どうして……私のこと……ってくれなかったんですか……』
『……!?』
彼へ向けた言葉が静かに言い放たれる。
所々かすれて聞き取れなかった部分があったが、ありえないことが続いてパニックを起こした彼はそれどころではなかった。
顔には冷や汗が浮かび、背中は汗で湿っていくのを感じる。
『あなたが……憎い……』
顔から血の気が引いていく。鏡を見たらきっとひどい顔色になっているだろう。
こんなことが起きた時点で大抵の人間は身に覚えのある出来事を思い浮かべ、それについての弁明を図るだろう。
しかし彼には全く身に覚えがなかった。
『し、知らない……!俺はあんたのことなんて知らない……!!』
人を憎む側だった自分が人に憎まれる側になっていたということに驚きを隠せない彼は、目に涙を浮かべながら必死に言葉を紡いだ。
何かの間違いであってくれという神への願いも虚しく、目の前に写る体がふるふると震えていることに気が付く。
彼はそれが怒りによるものだと思い、何をしてくるかわからない恐怖でどうかしてしまいそうだった。
『私のこと……覚えてすらいないんですか……』
『ひ……!?ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……』
もはや直視するのも怖くなった彼は、手で顔を隠しながら身に覚えのない罪へ謝罪の言葉を連呼する。
体の震えが止まらない。
それは目の前の彼女にも言えたことで、指の隙間から先程よりも一層震えているのが見えた。
『……う……うぅ……』
低く唸る彼女は、まるで感情を剥き出しで威嚇をする肉食動物のようだった。
もうだめだ。
俺はこのまま自分の犯した罪もわからないまま人生に幕を閉じる。
これも運命なのかもしれない。
諦めた彼は体を強張らせて瞳を強く瞑る――が、一向に手を出してくる気配がない。
代わりに聞こえてくるのは、すすり泣くか弱い少女の声。
『うぅ……ぇぐ……なんでぇ……おぼえてない、のぉ……』
『……?』
手で涙を拭って鮮明になった視界で前方をを見ると、エプロンの部分に×の形をした特殊な縫い目のあるメイド服のようなものを身に付けた少女が、大粒の涙で顔を濡らしながら泣いていた。
目の前で泣く彼女の顔は、まるで画面から出てきたかのように整った顔立ちをしており、美少女と呼ぶのに相応しいものだった。
鼻を赤く染めながら、止めどなく溢れてくる涙を必死に拭う彼女は小刻みに震えていた。
先程からの震えは怒りによるものではなく、悲しみによるものだったのだ。
ホッと胸を撫で下ろす。しかし疑問は晴れない。
彼女の顔を認識した上で過去の記憶を遡るが、どこかで会った記憶も何かをしてしまった記憶も何も見つからなかった。
俺は彼女に対して何をしてしまったというのだろうか。
『俺……何かした、か……?』
言葉を詰まらせながら恐る恐る聞くと、彼女は呼吸を整えながら答え始めた。
『……あなた、がっ……小学生の頃から……一緒にいたのに……ぜんぜん……って……くれなくて……ぅ…わああああん……』
今まで画面越しの女の子としか絡みがなかった日向は、また泣き出してしまった彼女に対してどうしたらいいのかがわからず、彼女が泣き止むのをただ待つしかなかった。
悲しみで顔をぐしゃぐしゃにして泣く少女と、その前で未だ隙間に挟まったままの少年のシュールな絵面が続いた。
やっとの思いで狭い隙間から解放された日向は、ぐーん、と体を伸ばした。
起きてからなにもしていない凝り固まった体をほぐすと、筋肉が暖まってとても心地がいい。
『先程は見苦しいところをお見せしました……』
ベッドに、ちょこん、と正座する彼女の顔は暗く、肩身の狭さからか負のオーラが滲み出ていた。
こちらの視線に気付いた彼女はエプロンの裾をキュっと握り、上目遣いで恐る恐る日向の方を見る。
『その……久々に日向さんのことを見てたら色々なものが汲み上げてきてしまって……』
『いやいや俺の方こそ失礼な態度を……ところで――』
『はい……?』
話を切りだそうとする彼の方を見る。
『……誰ですか?』
ずっと気になっていたことを彼女へ投げ掛ける。
知り合いに彼女のような可愛い女の子がいた覚えはない。
ましてや男の知り合いがいるのかも怪しく思える。
勝手に自分の人脈の無さを再度痛感した日向は、胸が痛くなる。
そんな彼に返ってきたのは、思っていた返答と少し違うものだった。
『私、あなたの雑巾です』
『……なんて?』
『雑巾です!』
『ぞう、きん……さん……?』
『はい!』
日本と、どこか漢字の風習のある国とのハーフなのだろうか。
もちろん日向の知り合いにそういった名前の人物もおらず困惑していると、彼女が嬉しそうに話始めた。
『先日、実家の方からこちらへ送られてきたんです!』
『実家から……?』
最近実家から届いたものといえば……。
部屋の隅に無造作に置かれた段ボールの方を見る。
中には食器用の洗剤やスポンジなど、掃除嫌いな自分には無縁の日用品がぎっしりと詰まっていた。
そのため日向は開封後、何も見ていないと言わんばかりに放置していた。
そういえば、使った形跡のない新品同様の雑巾も一緒に入っていたような。
『うん……?雑巾……?』
『はい!』
自分のことを雑巾と名乗った少女は、嬉しそうに返事をする。
そんな彼女と裏腹に、送られてきた段ボールをただ見つめながら困惑する日向。
(雑巾ってあの、雑な布切れのことか……?いやいやいや、ありえないだろ!だって――)
恐る恐る彼女の方へ向き直る。
どこからどうみても手足の生えたている、生きた"人間"である。
にこやかな彼女のことを凝視していると、彼女の着ている服にあるものが目に入り、おもわず目の高さまで掴み寄せる。
『きゃあっ!?』
突然スカートを捲られた彼女の悲鳴が静かな部屋に響き渡る。
丸見えとなった下着には目もくれずに、日向は掴み寄せた一点だけを何度も何度も繰り返し心の中で読み上げる。
"1ねん2くみ ひろみひなた"
たどたどしくひらがなで書かれたそれは、自分が小学生のときに書いたものだった。
非現実的な事実に衝撃を受けた彼は、その場に立ち尽くす。
『もう、いきなり何するんですか……って、あれれ、どうしたんですか?』
どこか遠くを見つめ、呆然としている日向。
ぶつぶつと何かを言っている口元に耳を傾ける。
『……りえねえ……』
『へ……?』
『ありえねええええええええぇ!!!?』
『ひゃうっ!?』
いきなり発狂し始めた日向に、ビクッ、と体が大きく跳ねる。
そしてがっしりと肩を掴まれ、ぐわんぐわん、と視界が眩むほど前後に激しく揺さぶられる。
『二次元でしか起こりえないことがなんで俺ん家で!?ありえねえ……ありえねえええええ!?』
『いやうっ!?あっ、やめっ、くだっ、ひゃうっ!?』
『これは夢だ……きっと悪い夢なんだ!?早く覚めてくれえええええええ!?!?』
『どうっ、してっ、わたっ、しをっ、ゆらっ、すんっ、ですっ、かあっ!?』
思考回路がショートし、ブレーキの効かない暴走列車と化した日向は、目の前にいる少女を巻き込んで暴走を続ける。
激しく揺さぶられていた彼女の視界はぐるぐると回転し、三半規管への乱暴な刺激による気持ち悪さから目尻に涙を浮かべていた。
(誰か助け……う"えぇ……)
既に限界に達していた雑巾の口内は膨らみ、今にも許容量を越えて虹色の架け橋を作り出しそうになっていた。
もはやキラキラ不可避とも思われたが、突如としてピタリと激しい揺さぶりが止まった。
静止した二人によって部屋には静寂が生まれた。
そんな中耳に入ってきた、足元からの、カサカサ、という物音ひとつ。
音の鳴る方へ視点を動かした日向の目は、一点を見つめて大きく見開き、顔が青く染まり額には冷や汗が浮かぶ。
足元に転がるゴミの間から止めどなく動く触覚が二本、見えていた。
ごくり、と息を飲み、そこをただ見つめる。
突如として姿を現した奴は、邪悪な黒光りする体を見せつけるかのようにこちらへ攻めてきた。
その動きは俊敏そのものであった。
『ぎゃああああああ!?』
『ひゃあ!?』
日向を含む、虫嫌いにはひとたまりもない状況。
慌ててベッドに飛び上がった日向は、ありえないと今さっきまで嘆いていた目の前の少女を盾にするような位置取りをした。
驚く彼女を差し置いて日向は小さな背中越しに、堂々とゴミ袋の上にポジションを取った奴と対峙する。
少し高さのあるここにいれば奴がよく見えるし、動いた方向さえ知れれば対処はできる。
自分が有利だと思い込んでいる彼を見透かしたように、奴は己の持つ最大級の必殺技を繰り出してきた。
飛翔するG――一見羽を広げて真っ直ぐに飛んでくるだけの、シンプルに見えるこの技。
しかし、トラウマを植え付けるのには十分すぎる破壊力を持つ。
それを受けた者は、再び奴を目にしたときにトラウマが再来してしまう呪縛にかかってしまうのだ。
奴が飛ぶところを初めて目にした日向は反応を遅らせてしまい、接近してくる奴をただ見ていることしかできなかった。
自分にトラウマを植え付けられると思った刹那、奴は何者かによって撃墜させられた。
床でひっくり返り足をばたつかせる奴に飛びかかったのは、さっきまで盾にしていた雑巾であった。
奴が起き上がる前に素早く手で動きを封じた彼女は、彼に協力を仰いだ。
『今です!!私ごと踏みつけてとどめを!!』
『むりむりむりむり!!』
『なんでですか!?』
高速で首を左右に振る日向。
間接的にも触れることに躊躇いがある日向は、奴を仕留めることが出来なかった。
ずっと押さえているわけにもいかなかった雑巾は、奴を手で包んで窓から外へと放り投げた。
『掃除しないからあんなのが出るんですよ?』
『……掃除は苦手だ』
『知ってます。だから私がやりますね』
『……はい』
先のG事件による精神的なダメージで、日向はベッドの上で脱力感に浸っていた。
雑巾の彼女を見ても二次元でしかありえないだとか、非現実的なのだとかはもう気にならなかった。
掃除を始めた彼女は、部屋に転がる物を拾い日向に必要な物なのか、いらない物なのかだけ聞きながら次々と仕分けていく。
その顔には、ほのかに笑みが浮かんでいた。
しかし日向がそれに気付くことはなく、ただ怠惰に寝転がって二度寝と洒落込んだ。
彼女が初めて彼と出会ったのは入学式を控えた、桜舞い散る暖かい春のことだった。
汚れひとつない艶々のランドセルを背負ってはしゃぐ彼の笑顔を、未だに覚えている。
たまたま店の棚で一番前にいて、たまたま彼の母親が買いに来て、たまたま彼に使われることになって。この出会いは偶然かもしれない。
でも、自分は彼の物として精一杯に役目を果たそうと奮起していた。
しかし、彼女がランドセルから出ることは一度もなかった。
暗闇の中、聞こえてくるのは彼のすすり泣き。
広見という名字と、日向という女の子のような名前のせいで彼はいじめられていたのだ。
女みたいな名前だからきっと男とは遊ぶまいと、同年代の男子たちからは避けられ、女子からは女みたいな名前をしていることから気味悪がられ、距離を置かれてしまった。
極めつけには、授業中に教師がちゃん付けで指名をして笑いを取る始末。
彼はそのことを両親や二人の姉たちには言わなかった。
相談なんて弱々しくて意地のない、女々しい行為は一番したくなかったからだ。
彼は徐々に学校をサボるようになった。
学校から知らせを聞いて両親は一方的に彼を咎め続けたが、彼が理由を話すことはなかった。
それとは正反対に、なんでも言ってねと優しく声を掛け続けた二人の姉も、彼から悩みを打ち明けられることはなかった。
暗闇の中、全てを知っていた彼女はただただ胸が苦しかった。
ずっと側にいるのに、何もしてあげることのできない自分が悔しかった。
中学に上がった彼はスクールバッグを使うようになり、彼女は彼と距離ができてしまった。
何もない暗闇の中、彼女は考えを巡らせていた。
聞いているだけで何もできないのは嫌だ!!
彼の力になりたいと強く願ったその思いは、その身を動かした。
彼のスクールバッグに侵入した彼女は、明るくなっている彼を期待した。
しかし待ち受けていたのは同じ運命であった。
同じ小学校から上がってきた同級生達から垂れた一滴の墨は、どんどんと透き通る水を黒く濁していった。
中学に上がったというだけあって、いじりの内容も悪質なものへと変わっていった。
彼はまた学校に来なくなってしまい、また独りになってしまった。
次第に自分の無力さを痛感した彼女もまた、暗い彼を見るたびに鬱になっていった。
部屋に引きこもり始めた彼に合わせるように、彼女もまた物置へとその身を預けた。
暗闇のなか、ふと笑い声がした。
低く大人びた声になっているが間違いない、ずっと聞きたかった彼の笑い声だ。
大きくなった彼は、もう高校生になっていた。
詳しくはわからないが、成績がいいから学校に行かなくてすんでる、と聞き取った記憶がある。
何やら耳に被せ、机に置かれたモニターに何かを描きながら楽しそうに話す彼を見た彼女は、どこか救われた気がした。
彼の話す言葉のなかで、気になった単語がひとつあった。
擬人化。
水面を踊るように跳ねる石や、凶悪な顔をした暗雲が怒りをぶつける等、人間以外のものを人物として、性質や特徴を与える比喩の表現のことである。
『二次元はなんでもありだから、果物とか女の子に擬人化させたらやばくね?』
彼の放ったその一言が、彼女の思考を大きく揺さぶった。
もし、自分が人間の姿になれたら、今度こそ彼の役に立てるのではないか。
そこからはひたすらに人間のことを知ろうとした。
とはいっても彼の写したモニター画面を遠目で見ることしかできないのだが、彼は絵を描く前によくモデルを練るために調べものをするため、知識をどんどんと蓄積していくことができた。
外見から中身の構造、それぞれの器官の働きまで完璧に覚えることができた。
しかし、お披露目しようとした頃には、彼の姿はなかった。
容姿をどんなものにするか考えるのに夢中で、彼が家を出てしまったことに気が付かなかったのだ。
どうしたものかと途方に暮れていると、彼の姉たちが彼に日用品の差し入れをしてやろうと話しているのが聞こえた。
そこに紛れて彼の元へ向かうことを思い付いた彼女は、段ボールに忍び込み、彼のもとへと配送されていった。
箱は無事に届けられ、粘着テープが音をたてて剥がされていく。
箱が開かれ、光が差し込む。
やっと彼に会える、役に立てる。
彼女の心は嬉しさでいっぱいだった。
やっと叶った感動の再開――になるはずだった。
彼の顔が見えた刹那、箱は閉じられ再度暗闇に閉じ込められてしまった。
また暗闇の中に取り残され、彼のために何もできない。
こんなのただの――役立たずではないか。
負の感情から起こった自分への卑下はどんどんと増していき、彼女は今まで努力してきたことへの自信が無くなりかけていた。
ある日の朝、彼女はふと気付いてしまった。
――人の姿になればこの暗闇から脱出できるじゃん。
さっそく擬人化を試してみる。
視界が黒から白一色へと変わっていく。
やがて白から色が付き始め、部屋の一室を写し出す。
イメージががっちりと固まっていたため、擬人化はすんなりと成功したようだ。
ポンポンと自分の体を触って変なところが無いかを確かめた後、彼女は口を開いた。
『あー、あー……うーん……これちゃんと聞こえるのかな……』
時は空が鮮やかな橙色に染まった夕暮れ。
湯煙立ち上るうっすらと白く曇った浴室で、日向は疲れた体を癒していた。
二度寝をしていた彼は言うまでもなく叩き起こされ、主にゴミを外に出す作業を永遠とさせられていた。
運動が少しできるとはいえ、ずっと家で引きこもっていた彼には応えるものがあった。
それでも部屋を綺麗にしようと奮闘する雑巾を見ていると、自ずと手足が動き続けた。
ゴミ置き場に溜まっていくゴミ袋を見るたびに、謎の達成感も得られて何気に楽しかったまである。
息を大きく吸ってゆっくりと吐いて呼吸を落ち着かせ、頭からシャワーを浴びる。
暖かいお湯に打たれていると、体についていた重りが溶けてなくなっていくような感じがする。
風呂は好きだ。
体の汚れと一緒に頭の中の余計な思考も流れていくような爽快感に加え、ほどよい湿度がとても心地よい。
十分に体を湿らせた彼は、ぷは、と可愛く息を漏らす。
上から下の順番で洗う彼のルーティンの元、いつも通りに髪を洗っていく。
シャンプーは大学デビュー前に始めて行った美容院で、綺麗なお姉さんに勧められてつい買ってしまった品質の良い少しお高い物を使っている。
もっとも、今は人と合わなくなってしまっているが、洗った後の爽快感や香りが彼の好みだったため、今も尚使い続けている。
わしゃわしゃと髪を洗い、モコモコと頭の上で泡を作っていく。
すると柑橘系の甘酸っぱい香りが、狭くも広くもない浴室全体を覆っていく。
『そのシャンプーいい匂い。私も使ってみていい?』
『うん、構わないよ』
二つ返事で承諾してしまうほどに人に勧めたくなるほどの、良質なシャンプー。
値段が張るものなので少し躊躇ってしまいそうになるが、彼はそんなものは気にしなかった。
今まで趣味や好みを共感共有できる人物があまりいなかったため、ついつい欲が出てしまう。
――うん?
ふと浴槽の方へ視線を向けると、見覚えのあるシルエットがひとつ。
とはいっても最後に見たのは彼が小学校5年生くらいの幼い時なのだが……。
『やっほー日向、お久だね!』
『ま、真昼姉!?』
驚きの余り知っている名前を叫びながら、目が吸い付くように彼女のことを凝視してしまう。
細い首から描かれた滑らかな曲線に加え、雑巾のそれよりも強調された見るもの全員を虜にしてしまいそうな大きく育った胸。
彼は虜になる寸前で我に戻り条件反射で目を隠そうとするが、同時に手に纏っている泡が目の中に入ってしまった。
『目があぁぁぁぁ!?』
どこか聞き覚えのある台詞を吐きながら椅子から転げ落ちた日向は、鈍い音を響かせながら壁に激突する。
目の痛みに悶える彼を見ながら、ありゃりゃ、と真昼が苦笑いを浮かべていると浴室の扉が勢い良く開かれた。
転がった位置が悪かった彼の頭に再び衝撃が走り、ゴン、と鈍い音が浴室内に響く。
たぶん漫画やアニメだったらゴフ、とか言いながら吐血してる。
『どうしました!?……ってきゃあ!?日向さん、大丈夫ですか!?』
『日向は石頭だから大丈夫だよ。……たぶん?』
『たぶんって……というかなんで真昼さんが一緒に入ってるんですか!?ずるいです!!』
『あ、怒るとこそこなのね……』
苦笑いを維持したまま雑巾と話す真昼。
二人は昼頃、日向がちょうどゴミ袋の買い足しに行っている時に出会っていた。
弟の様子をこっそりと見に来た真昼が家に向かうと扉が開いたままの状態になっており、中を覗くと知らない女の子が1人せっせと片付けに励んでいた。
それを見た真昼はなんとなく察して彼女に彼の姉だと名乗って家にあげてもらった、といった具合だ。
雑巾には彼女が誰なのかすぐにわかったが、気味悪がられると思ってあたかも初対面を装った。
まだ染みる目を潤ませている日向に向かって、真昼はにやにやとしながら口を開いた。
『いやー、まさかあの日向に彼女ができるとはねえ』
『いや違うからね!?』
『……私は彼女ということでもいいです、よ?』
『お前も変なこと言うな!?』
にやにやと笑みを溢しながら話す真昼、必死になって話す日向、もじもじしながら話す雑巾による修羅場のような空間。
浴室かつ、内二人は服を着ていないことからより一層シュールさが増している。
そこにいる女の子が彼女だと断固として認めようとしない日向に、むー、と頬を膨らませる。
『じゃあその子は日向にとってなんなのさ?』
『それは……えっと……』
なんて言えばいいのかわからず、言葉が詰まってしまう。
仮に彼女は雑巾だ、物だ、などと言ってしまった日にはきっと可哀想な目を向けられるに違いない。
ここは慎重に答えを導き出さねば……
そうだ、友達の妹だとか――
『私は日向さんの、そうですね……物です!!』
『な"!?』
思いがけない返答におもわず変な声が出てしまい、少し間を置いてしまう。
そして日向の方へ可哀想な人を見るように視線を向ける。
『うわあ、日向にそんな性癖が……』
『待って!?誤解だから!?』
『今日はいっぱい汚れちゃうくらい頑張りました!』
『誤解を招くようなことを言うんじゃない!!』
『はう!?』
頭にチョップを食らった雑巾は目に涙を浮かばせながら、ひりひり痛む頭を押さえる。
少しやりすぎたと思い謝罪を試みようとした刹那、日向の頭にも鈍く重い一撃が放たれ、一瞬で意識が持っていかれた。
その一撃を放ったのは、ふるふると怒りで体を震わせる真昼であった。
『いくらそういうプレイだからって、女の子に手を出しちゃダメでしょうが!!』
『ごふ!?』
『日向さん!?』
遠退く意識の中、真昼の怒号と雑巾の喚きが頭の中にまで響き渡った。
この後日向は雑巾ことを真昼を説得するのに半日を費やした末に誤解を解くことができたが、外は出歩くのをやめたほうがいいほどに暗くなっていた。
自分が女だということをいいことに、半ば無理やり日向を丸め込んで真昼は一晩この家に泊まっていくことになった。
真昼は実家にいろいろあったから日向の家に泊まっていくと伝えると、修学旅行のようなテンションで雑巾と日向のことについて話し込み始めてしまった。
自分のことが話題にされているとわかっていると不思議な気持ちになるが、二人とも楽しそうに話すのを見るとなんだか照れくさい。
ひとり除け者にされた日向は昨日途中で描くのをやめてしまった絵を、もう一度描き直すことにした。
その頃、実家では真昼の言っていたいろいろについて両親ともう1人の姉が妄想を繰り広げていたのだが、日向達がそれを知るのはもっと先の話である。