第五話「不穏」
おっちゃんは気付けば朝起きて一通りの身支度を済ませてから、なんとなしにこの廃ビルの屋上に来るようになっていた。最近はこういうことが多い。というよりも、毎日の日課のようになっていた。お嬢ちゃんが学校が終わって来るのは夕方の時間帯。それまで全然時間があることは分かっているのに、ついここに足が向いてしまうのだ。前にお嬢ちゃんに「おっちゃんはいつも先にいるな」と言われたがそれはそうである。おっちゃんはお嬢ちゃんと会うのが楽しみでいつも早くにここへ来てしまっているのだから。お嬢ちゃんの無邪気な笑顔に、お嬢ちゃんとの楽しい会話に癒されているのだ。おっちゃんは自身の腐りきった魂が少しずつ清められていくような、そんな気さえしていた。そう思っていることは恥ずかしく、口にすることなどとてもできないわけではあったが。
今は平日の朝の九時である。勿論お嬢ちゃんが来ているわけはなく、お嬢ちゃんが来るにしても、八時間以上も後のことになる。けれどもこの場所に来て一人でぼんやりとしているのも悪くはないとおっちゃんは思っていた。それに今日は天気も良く、風もなく、気温も丁度いいくらいで、何も考えずに日向ぼっこしていたら、自然とお嬢ちゃんが来る時間になるだろう……と、なんとなくそう考えていると、屋上のドアがギィと音を立てて開いた。
「えっ?」
「ん?」
驚いて扉のほうに目を向けると制服を着たお嬢ちゃんがおっちゃんの方を見て同じように、いや、もっと驚いたような、隠し事が発覚してしまった子供のようなバツの悪い顔をして立っていた。
「おお? お嬢ちゃん、こんな時間にどうしたんだい?」
「お……おっちゃんこそ、なんでこんな時間からここにいるんだ? もしかして本当にここに住んでるんじゃないのか……?」
「……お嬢ちゃんにだけ打ち明けるけど……。実はおっちゃんはね、ここの今は無きデパートの妖精なんだよ。だからいつでもここにいるんだ。これは秘密だから誰にも言っちゃいけないよ?」
おっちゃんは神妙な顔をして人差し指を口に当て、さも重大な秘密を打ち明けたといわんばかりの顔をした。
「…………」
「……へっ」
お嬢ちゃんはニヒルな笑いを浮かべた。そんなお嬢ちゃんの元気のない反応にどうしたのだろうとおっちゃんは怪訝さを感じたが、深く追求することはせず様子を見ることにした。
「……。そんなことよりこんな時間にどうしたんだいお嬢ちゃん? 学校は休みかい?」
「きょ、今日は学校のあの……あれだ……そうだ! 学校の戦勝記念日で休みなんだぞ!」
お嬢ちゃんは今考えたといったようにそう言ってのけた。
「へぇ……そりゃあ恐ろしい学校だね? ちなみに、どことの戦いに勝ったんだい……?」
「たたかい? 何いってんだおっちゃん? 髪の毛と一緒にチセイまでどこかに飛ばしてしまったのか?」
「……お嬢ちゃんは時々びっくりするくらい辛辣だね」
お嬢ちゃんはいつもの位置に体操座りをすると、膝の間に顔を埋め力なく俯いてしまった。いつもの元気は何処へやら、まるで萎れた花のようである。
「どうしたんだいお嬢ちゃん、元気がないね?」
「……当ててみろおっちゃん。当てられたら特別にワタシの頭をナでることユルしてやろう」
「すごい上から目線だねお嬢ちゃん。これじゃお嬢ちゃんというより女王ちゃんだ」
「……」
おっちゃんの軽口には答えず体操座りで丸くなったままお嬢ちゃんは静かになってしまった。ただ、その場から去ることはしないということは、おっちゃん自身が拒絶されているわけではないということであると、おっちゃんは理解した。
「うーん……」
おっちゃんは口に手を当て不精髭をいじりながら考えこんだ。確かにお嬢ちゃんの元気がない。この元気のなさは演技とかではなく、本当になにかあって落ち込んでいるのだと理解できた。さっきの軽口に答えなかった時点で状況は思いのほか深刻なのかもしれない。迂闊なことを言ってはかえってお嬢ちゃんを傷付けてしまうかもしれない。だからこそおっちゃんは、静かにお嬢ちゃんを見たまま何を言おうか、何か手掛かりはないかと、そう考えている内に気付けば長い時間黙り込んでいた。
「……どうしたおっちゃん? ワタシの頭をナでたくないのか……? ワタシの髪はダッドとマムに天使の髪と呼ばれていたんだぞ……」
おっちゃんが無言になったことで不安になったのか、お嬢ちゃんは顔を上げ上目遣いでおっちゃんを見た。その瞳にはやはり寂しさのような色が浮かんでいる。おっちゃんはそんなお嬢ちゃんの視線を受けハっとした。自分がお嬢ちゃんを無視するような形になってしまっていたではないかと。どうすればお嬢ちゃんを不安にさせないように、もっといえばどうすればお嬢ちゃんの元気がでるように、うまく返せるのかと、瞬時に、脳を出来うる限り回転させた。
「……違うよお嬢ちゃん。おっちゃんはお嬢ちゃんの頭を撫でたいから、今真剣に考え込んでいるんだ…………よっ!」
「よっ!」と言った瞬間おっちゃんは伏せていた顔を勢いよく上げて、今までみたことないような満面の笑顔でサムズアップした。しかも、意図せぬところからの助けがあった。日光を浴びた禿げ頭がキラリとキレイな光を放ったのだ。
「ぶっ……!」
そのあまりにも突拍子のない行動に、お嬢ちゃんは吹きだしてしまい、それを隠すように膝の間に顔を埋めた。
「ぷっ……ふふっ……さすがに気持ち悪いぞおっちゃん。頭を触っていいといいと言ってもおっちゃんはレンアイタイショーじゃないんだからなっ! カンチガいするんじゃないぞっ」
「分かってるよお嬢ちゃん。お嬢ちゃんのことは可愛い妹みたいなもんだと思ってるよ」
真実、おっちゃんはお嬢ちゃんに対して一切のやましい気持ちを抱いてはいなかった。心から実の娘のように、愛おしく思えていたのだ。
「妹……? おっちゃんの歳的に娘じゃないのか?」
「おっちゃんまだ二十代だからね」
「はっ……ははっ……!」
堪えきれなくなったのかお嬢ちゃんは顔を上げると、お腹を抱えて笑い出した。
「あはははっ! あーはっはっはは! おっちゃんが二十代って……! はっははっ! そのネタはあれだな! テッパンっていうやつだなっ!」
お嬢ちゃんの笑顔を見ておっちゃんも少しほっとする。
「……やっぱお嬢ちゃんには笑顔が似合うよ。花が咲いたみたいだ」
「はははっ! なんだおっちゃんそのポエミーなセリフは! 全然似合ってないぞ!」
「お嬢ちゃんを花に例えるならひまわりかな」
「はははっ……! ならおっちゃんはタンポポだなっ!」
「そうそう、タンポポの綿毛みたいに風に吹かれて髪が飛んでく……ってコノヤロー!」
「あははははは!」
お嬢ちゃんは一通り笑い転げた後、笑いすぎて出てきた涙を人差し指で拭った。
「はーあ……まったく、おっちゃんがバカなことばっかいうからどうでも良くなっちゃったぞ!」
「そりゃあ良かった。おっちゃん、お嬢ちゃんの笑顔を見るのが好きだからね」
「そうか。まぁワタシの笑顔は天使の笑顔だからなっ! コーエイに思うがいい!」
「ははーありがたき幸せ~」
おっちゃんは姿勢を正すと両膝に両手を置き背筋を伸ばして深く頭を下げた。
「ワタシの元気がない理由には答えられなかったが、代わりに笑わせてくれたから、ナンジにホービをくれてやろう!」
「はは~なんなりとお申し付けください~」
「頭をあげよ、そしてワタシの頭をなでるのだ」
おっちゃんは下げていた頭を戻すと、お嬢ちゃんを見た。
「いいのかいお嬢ちゃん?」
「いいと言ったらいいんだぞっ! ……それとも、おっちゃんはワタシに触るのがイヤなのか……?」
また一転してお嬢ちゃんの瞳に悲しみのような拒絶される怯えのような複雑な色が宿った。
「まさか」
おっちゃんは服の裾でゴシゴシと手を拭うと、ゆっくり右手をお嬢ちゃんの頭に乗せ、努めて優しく撫でた。お嬢ちゃんのブロンドの髪はふわふわとして、手からすり落ちるようにサラサラで、高級なシルク生地を連想させた。
「ふふっ……。へへっ……」
嫌な顔をするどころか、人懐こい子犬のように嬉しそうに撫でられているお嬢ちゃん。
「嫌じゃないかいお嬢ちゃん?」
「ああ、モチロンだぞっ! 嫌だったらすぐケーサツに電話するからなっ」
「これが冤罪事件というやつか……」
この時、お嬢ちゃんは口には出さなかったが、優しく撫でるおっちゃんの大きな手に、大好きだった父の手を思い出していた。
「お嬢ちゃんの髪はサラサラフワフワしてるね、ずっと触ってたくなるよ」
「ふふふっ、そーだろうそーだろう。どうだおっちゃん? 死んでたらこの天使の髪を触ることができなかったんだぞ? 生きていて良かったろう?」
「……そうだねお嬢ちゃん」
おっちゃんはより一層優しく慈しむように髪を撫でた。
「おお……おっちゃん頭ナでるのうまいな……どこでそんなテクニックを手に入れたんだ」
「前にも言っただろう? おっちゃん学生の頃はモテモテだったんだから……。つまりは、そういうことだ」
「ふふっ……おっちゃんのテッパンネタの二つめだな……」
「ホントなんだけどなぁ」
おっちゃんは言い返そうとしたところで、お嬢ちゃんの目がウトウトとしていることに気付いた。
「なんだいお嬢ちゃん、眠いのかい?」
「んー……そうかしれん……ネムるまでナで続けてくれてもいいんだぞ……」
「いくら今日は温かいって言っても、こんな所で寝たら風邪ひいちゃうよ」
「カゼか~、むしろカゼをひいた方がいいのかも……そうしたら……休める理由ができるから……」
おっちゃんは半分独り言のようなお嬢ちゃんの言葉に軽く引っかかりを覚えたが、考えてみれば学生なら学校を休める口実にもなるから当然かとあまり深く考えることはせずに自己解決した。
「おっちゃんはワタシの頭をナでるのイヤか~?」
「全然、お嬢ちゃんの髪は手触りがとってもいいから、何も嫌なことなんてないよ」
「そうか……それじゃ……眠るまで……こうしてて……」
お嬢ちゃんはその言葉を最後に、下に敷いていたダンボールの上にコテンと丸まって寝てしまった。
「…………」
お嬢ちゃんが完全に寝たのを確認すると、おっちゃんはゆっくりお嬢ちゃんの頭から手を離し、自分が来ていた上着をお嬢ちゃんへ起きてしまわぬようにそっとかけた。
「なにがあったかはわかんないけど、お嬢ちゃんが良くない思いをしているってのは分かったよ……。だけど……多分、おっちゃんなんかじゃぁ……どうにもしてあげられないんだろうなぁ……」
おっちゃんはそう呟いてフェンスに背中を預け逃避するように空を見た。
その日は晴れ渡っているのに肌寒い、そんな一日だった――