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第三話「翌日」

 翌日、おっちゃんはまたこの廃ビルの屋上へと足を運んでいた。今回は飛び降りるつもりではなく、昨日交わしたお嬢ちゃんとの約束のため、お嬢ちゃんが来るかもしれないと思ってのことだった。昨日はお嬢ちゃんが自分を死なせないがために、必死でああ言っていざ帰宅して一日経って目が覚めてみれば、自分が危ない中年と関わってしまったと後悔していることも十分にあり得る。むしろ並みの人ならば、特にお嬢ちゃんくらいの多感な年齢の子ならそう思ってしかるべきだろう。だからこそ、今日はお嬢ちゃんがここにこない可能性の方が高い、むしろこないほうが正常なのだとおっちゃんは思っていた。

 それに、おっちゃん自身もそこまでお嬢ちゃんと会いたかったわけではなかった。そもそもどんな顔をして会えばいいのかわからないし、何を話せばいいのかもわからないからだ。

 しかし、もし仮に万が一お嬢ちゃんがこんな変なおじさんとの約束を律儀に守って、本当にやってきたとするならば、もしも昨日言った通りにお嬢ちゃんがここへ来て、誰もいなかったらどうだろう? お嬢ちゃんはきっと、待ち続けるに違いない。こんな人の寄り付かぬ怪しげな廃ビルの屋上でたった一人、お嬢ちゃんは自分を待ち続けるに違いない。そんなお嬢ちゃんの、うな垂れ落胆した表情を想像するだにおっちゃんは胸が痛くなり、ここへ来ずにはいられなくなってしまったのだ。不思議なことに、昨日まで抱いていたこの世への儚みはお嬢ちゃんの「生きていたいぞ!」という一喝と共に、思考の中央部から片隅へと位置を移していた。今までは朝から晩まで死ぬことばかりを第一に考えていたというのに、今朝などはお嬢ちゃんとの約束を守ることを第一に考えていたのである。

 屋上へと続く扉を開き、何年間も野ざらしにされ雨や誇りで黒く汚れた屋上のコンクリートの上を真っすぐ進み、昨日飛び降りようとしたフェンスの内側へと腰を掛けた。そこに腰かけたことに深い意味はないが、そこからならば屋上に入ってきた誰かを真正面に見ることができるのだ。

 おっちゃんはゆっくりとフェンスに背を預けながら空を仰いだ。良く晴れた空から降り注ぐ陽光に思わず目を瞑るが、そうしてもなお目蓋を透過して陽光が目の中に入り込んでくる。その光を静かに感じながら暫くの間そのまま空を見上げていた。緩やかに流れる風が心地よい自然音楽となって耳朶に響く。昨日までのささくれだった陰鬱な気持ちは何処へやら、おっちゃんの心は不思議なほど穏やかなものになっていた。けれどもまだこの世への儚みは片隅に行ったとは言えおっちゃんの芯にあって、今は単に死ぬまでの余暇程度に過ぎない、死ぬ前にこのような安らかな時間があっても良いだろうくらいに思っているのだ。

 その静で穏やかな空間の中に、下のほうからカンカンカンと早足気味に階段を上ってくる音が近付いてくる。そして、サビ付いた扉が開くギィという鈍い音が鳴り響いた――

 おっちゃんは上げていた顔を下げると前を向き、ゆっくり目を開いた。目蓋越しに目に焼きついた光が焦点と重なり、視界が見事な程鮮明にぼやけている。目の前にいるであろう人間の顔に丁度その残光が重なり、神秘的ななにかがそこにあるように思えた。

「おっちゃん!」

 聞こえた声は元気よく、朗らかで、蜂蜜のような甘美な響きを持ち、それでいて檸檬のような爽やかさを含んでいた。

「……やっぱりきたんだね、お嬢ちゃん」

「モチロンだおっちゃん! ワタシは約束を守る女だぞ!」

 おっちゃんとは合うはずのない波長が合っている様な、不思議な感覚をお嬢ちゃんは持っていた。お嬢ちゃんは小走りに駆け寄ると座っているおっちゃんの目の前に立った。

「ワタシは自分で決めたことは最後までやりきる主義なんだ! ワタシは乗りかかった船はおりないんだぞ!」

「難しい言葉を知っているんだねお嬢ちゃん」

「そうだぞ! ワタシは話すのは苦手だが、読み書きはトクイなんだぞ! なんせ漢検はイッキュウなんだぞ!」

「そりゃ凄いやお嬢ちゃん」

 おっちゃんの視界から焼き付いていた残光が消え、徐々に元通りになっていく。ぼやけながらも戻る視界の先には、やはり昨日出会った小柄な少女が立っていた。昨日の制服とは違って白いワンピースを着ていた。ブロンドの波打つ髪の毛、透き通るような白い肌、晴れ渡った空のような瑠璃色の瞳、無邪気な笑顔を浮かべた幼い顔付き。この薄汚れた廃ビルと眩しいくらいに可愛らしいお嬢ちゃんは酷く不釣合いで、だからこそ幻想的な光景でもあった。おっちゃんは心の中で天使というものがいるのならば、きっとこの子のような声や姿をしているのだろうと思った。

「ん? どうしたおっちゃん?」

「……いや、なんでもないよお嬢ちゃん」

 小首を傾げるお嬢ちゃんに、今思った気恥ずかしいことを気取られないように心の奥底へと仕舞い、微笑を返した。おっちゃんは自分でも気付かぬうちに、ちゃんと約束を守って来てくれたこの少女に対する、感謝と感動のような心温まる気持ちを抱いていたのだ。

「そうなのか? ワタシどこかヘンか?」

 おっちゃんの照れ隠しを何か自分におかしな点があったのではないのかと勘違いしたらしく、お嬢ちゃんが不安そうな顔をする。多量の不安を押し殺してなんとか表面に出ないよう、押し留めているような顔である。 そのことに気づいたおっちゃんは少し慌て気味に誤解を解こうとした。

「全然変じゃない。お嬢ちゃんは昨日も今日も可愛いよ。その服だってとっても似合ってる。お嬢ちゃんにぴったりだ、あんまり似合ってるもんだからおっちゃんうまい言葉がでないくらいだよ」

「ホントか?!」

「ああ、ホントだ。おっちゃん嘘つかない」

「そっか〜そっか〜へへへ〜」

 嬉しそうにワンピースの両端を摘みながらくるくると回るお嬢ちゃんは、ブドウ踏みをするワイン娘を彷彿とさせた。一通りくるくると回ると思い出したように足元に置いてあった、茶色い網目の細かい、蓋の閉じられたバスケットを手に取り、大事そうに胸に抱えおっちゃんに差し出した。

「ワスれてたぞ! 今日はおっちゃんのためにこれを作って来たんだ!」

 差し出されたそれをおずおずと受け取るおっちゃん。

「……これはなんだいお嬢ちゃん? 開けていいのかい?」

「モチロンだ! 開けてみてくれ!」

「じゃあ……失礼して」

 受け取ったバスケットの底を両手で抱えて慎重に蓋を開けてみると、中には上質そうな白布の敷かれた上に、耳の切り取られた純白のパンに挟まれた様々な種類のサンドイッチが入っていた。一見しただけでもタマゴサンド、ハムサンド、トマトサンドといったサンドイッチ達が綺麗に並べられて各々その顔を覗かせている。 

「これは……凄いね……。本当に美味しそうだよ、お嬢ちゃん」

「ホントか?! なら食べてくれ! おっちゃんのために作ってきたんだからなっ!」

「……なんで作ってきてくれたんだい?」

「食は生きるためのだい一歩だ! おいしいものを食べて死にたくなったりはしないんだぞ! そしたらきっと生きていたくなるはずだぞ! そうやって楽しみを一つ一つ見つけていって、気付いたらおっちゃんは生きたくなってるんだぞ!」

「なるほどなぁ……。じゃあ……頂いてもいいのかな?」

「モチロンだ! エンリョはなしだぞ!」

 おっちゃんは一番に目を惹かれたタマゴサンドにおずおずと手を伸ばした。触れたパンはしっとりと手に吸い付くようで、僅かな力でもその形を変えてしまう。そのパンの美しい形を崩してしまわないように、口へと持っていき一口齧った。柔らかなパンの食感が口中に広がり、次いでバターとタマゴの優しい風味が鼻を抜けた。美味いと感じたが、それ以上に優しい味だとおっちゃんは思った。サンドイッチから伝わってくる優しさを感じられたのだ。

 廃ビルの屋上という非日常な空間、そこに差し込む温かな陽光と、澄み渡った空の青さ、風は凪いで、花のような少女が目の前で微笑んでいる。その全てが一枚の絵画のようでいて、まるで夢を見ているような、とても現実だとは思えないような優しい空間がここにはあって、おっちゃんは無性に涙が溢れそうになった。何故かは分からない。何故かは分からないが、この光景が無性に泣きたくなる気持ちにさせたのだ。おっちゃんはお嬢ちゃんにそれを見られないように下を向いて、パンを持っていないほうの手で目頭を抑えた。

「どうしたおっちゃん……? おいしくなかったか……?」

 その反応が口に合わなかったように見えたのか、お嬢ちゃんがやにわに不安そうな顔になる。その誤解と不安を察っしたおっちゃんはあわて気味に首を横に振った。

「いや、そうじゃないんだ。お嬢ちゃんの作ってくれたこのサンドイッチがあんまりにも美味しくて、おっちゃん涙が出そうになっちゃったよ」 

「ホントかっ?!」

「ああホントだ。今まで食べた料理の中で一番美味しい……。お嬢ちゃんはきっといいお嫁さんになれるよ」

 誤解が解けた途端お嬢ちゃんは花が開いたような笑顔を浮かべた。

「へへ~よかったぞ! ダッドとマムもワタシが作ったサンドイッチが大好きだったんだ!」

「おっちゃんも大好きになったよ。こんな美味しいサンドイッチは産まれて初めて食べた。こんな美味しいサンドイッチが食べられるなんて、おっちゃんは幸せ者だ」

「全部食べていいからな! それは全部おっちゃんのだからなっ!」

 お嬢ちゃんは褒められた嬉しさのあまりか、目を細めて照れるように笑い、健康的な赤みのさす白い頬を頬を真っ赤に上気させながら続きを勧めた。

「ありがとうお嬢ちゃん。でも一緒に食べよう。美味しいものは分け合ったほうが、もっと美味しくなるんだ」

「そうなのか?」

「ああ。そうだよ」

「じゃあワタシも食べるぞ! いただきます!」

 そう言って肩掛けカバンの中から小さめな白いビニールシートを取り出すと、おっちゃんの正面の床に敷き、その上に座ってサンドイッチを手に取ると、両手で持って小さくかじるように食べ始めた。お嬢ちゃんの行儀の良い可愛らしい食べ方とは正反対に、おっちゃんは貪るようにサンドイッチを食べた。それは、食べ物を食べているというよりも、サンドイッチに詰まっている人の温もりを必死に摂り込んでいるようであった。

 おっちゃんが食べきるとお嬢ちゃんは水筒を取り出し温かいストレートティーを注ぎ渡してくれた。

「ほらおっちゃんお茶だぞ」

「ありがとうお嬢ちゃん」

 一口含んでみると爽やかな風味が口中を駆けた。

 ふぅ、と一息つきながらおっちゃんは言いようのない満足感と、だからこその寂しさを感じていた。こんな優しい時間が今までの人生に少しでもあれば、どんなに良かっただろう? そうしていれば、もっとまともな人生を歩めていたのではないだろうか? どうして、もうどうにもならない取り返しのつかない所になってから、全てを終わらせようとした矢先に、求めていたものがやってきてしまったのだろう? と。お陰でどうしようもない未練と後悔がやってきてしまったではないかと、全ては自分のせいであるとわかってはいるが、今この時、運命というものを憎まずにはいられなかったのだ。

「どうだおっちゃん、生きたくなったか?」

「ああ、勿論だよお嬢ちゃん。お嬢ちゃんのおかげで、おっちゃん生きていく希望が少し見えてきたかもしれないよ」

 おっちゃんの顔をまじまじと見つめていたお嬢ちゃんの目が細まり、不満気な声と共に頬を小さく膨らませた。

「むー……。それはウソだぞ。おっちゃんウソついているなっ」

「……そんなことないさ」

 ウソではないが、限りなくウソに近い本音であった。おっちゃんが生に対して何ら希望を抱いていないことに変わりなかったのだから。むしろ悔恨の念が湧いたのであるから、おっちゃん自身もこの感情が良い方向へ向かっているのか、悪い方向へ向かっているのか全く判らないのである。

 バツの悪かくなったおっちゃんは注いでもらったストレートティーを飲みながら話題を変えようと、昨日から気になっていたことを尋ねることにした。

「なあ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんはどこの国から来たんだい?」

「ん?」

 染髪のまがい物とは比べ物にならない美しいブロンドの髪、心を見透かされるような青い瞳、淡雪のように白い肌、お嬢ちゃんの見た目は完全に絵画で見るような西洋人のそれであり、言葉遣いや発音も色々とおかしな所があったことから、きっとこの国で生まれ育ったわけではないだろうと感じていた。

「ワタシか? ワタシはU……イギリスからきたんだぞ! イギリス生まれイギリス育ち、ダッドもマムもブ……イギリス人だぞ! ダッドの仕事の都合で一年前にこの国へ来たんだ!」

「なるほどなぁ、その割には日本語うまいなお嬢ちゃん。頑張って覚えたんだな」

 純粋に思ったことを口にしただけであったが、お嬢ちゃんはその言葉に何か胸に迫るようなものがあったらしく、かみ締めるような複雑な笑みを浮かべた。

「えっ、そっ……そうか? ワタシ、日本語じょうずか……?」

「ああ、上手だよ」

「そ、そうかっ……そうかっ、えへっ、えへへへ……嬉しいなぁ」

 おっちゃんは喜ぶお嬢ちゃんの中に、悲しみの感情ようなものが混じっているように感じ不思議に思った。そしてお嬢ちゃんは何故そんなに生きたいのか気になった。自分を生かしたいということではなく、出会い頭に言われた強烈な未だに印象深い一言「ワタシは生きていたいぞ!」という言葉が強く残っていたのだ。

「なぁお嬢ちゃん」

「ん? なんだおっちゃん?」

「なんでお嬢ちゃんはそんなに生きていたいんだい?」

 お嬢ちゃんはバスケットを仕舞っていた手を止めると、視線を手元に向けて暫く何かを考えて、そして、そのまま俯いたまま口を開いた。

「……ダッドとマムが悲しむからだぞ! それに……生きたいと思うことがそんなにヘンなことなのか?」

「いや、全然変じゃないよ。むしろそれが当たり前だ。ただ、うまく言えないけど、おっちゃんは何でお嬢ちゃんがそんなに生きることに拘っているのか知りたいんだ」

「うーん……」

 お嬢ちゃんは考えるような素振りを見せると体育座りをして、小さな体をさらに小さくすると両膝に顔を埋めた。そのままうんうんと唸りながら十秒ほどしてゆっくりと顔を上げると、おっちゃんの瞳を真っ直ぐに見た。その顔は妙に大人びていいて、何かを求め探っているような、色のない瞳をしていた。

「……おっちゃんにはまだヒミツだっ」

「秘密なのかい?」

「おっちゃんがホントウに生きたくなったら教えてあげるぞ」

 おっちゃんは空を見上げると、この娘に嘘はつけないなと思った。お嬢ちゃんは無邪気な子供のように見えて鋭いのだ。この二日嘘をついたらすぐにばれてしまっているし、今もまたまだ死にたがっていると見透かされてしまった。ただおっちゃんは、お嬢ちゃんは嘘を見抜ける洞察力があるというよりは、相手が持つ死の匂い、死にたがりや絶望的な感情に敏感なのではないのかと感じてもいた。ならばこれからはどうせばれるのならお嬢ちゃんに嘘はつくまい、つくなら完全な嘘をつこうと視線を戻すとお嬢ちゃんを見て穏やかに笑った。

「楽しみにしているよお嬢ちゃん。お嬢ちゃんの秘密、いつか必ず教えてもらうからね」

「ああ! 約束だぞ」

 今度はおっちゃんから右手の小指を差し出し、二人は二回目のゆびきりをした――

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