第二話「約束」
また、二人の時が止まった。止んでいたはずの風が吹き上げて、お嬢ちゃんの髪の毛や制服がはためいていることが、この世界の時間までは止まっていないことをあらわしていた。
「おっちゃん、意外としんたいのうりょくが高いんだな……おどろいたぞ……」
その沈黙を破ったのはお嬢ちゃんだった。おっちゃんを見上げているその顔には、ごく微量の怯えの色が混じっている。大人に、しかも自分よりもだいぶ大柄の、自殺しかけたやけっぱちであろう、見ず知らずの大男が目の前に立っているのだ。恐れを感じるのも当然だろう。
つまり、お嬢ちゃんの頭に上っていた血がサっとひいて、今の自分の置かれた状況が正しく理解できたということなのだろう。一切人気の無い、どれだけ大きな声を上げても誰の耳に届くことのない、誰も寄り付くこともない廃ビルの屋上で、見知らぬ自殺未遂男と二人きりなのだ。多感な年頃の少女からすれば異常事態であり、パニックになって逃げだしてもおかしくない。怖くなりもするだろうし、当然の感情だ。おっちゃんも、お嬢ちゃんが抱いている不安と恐怖の感情を察した。
「そう……。驚かせちまってごめんよお嬢ちゃん。おっちゃんはもう行くから、お嬢ちゃんも暗くならないうちに帰んな。それと、もうこんな危ないところには来ちゃダメだよ」
「あ……」
おっちゃんは短くそう告げると背を向けてここから去ろうとした。
「ま、まってくれおっちゃん!」
「……なんだいお嬢ちゃん?」
立ち去ろうとした足を止めたおっちゃんは、背を向けたまま答えた。お嬢ちゃんもお嬢ちゃんで、なんで去ろうとしたおっちゃんを引きとめたのか分からないような、何か聞きたいこと言いたいことがあるのに、考えがまとまらず、うまく言語化できなくてもどかしいというように、しどろもどろとしている。
「ワタシが……ワタシがじゃましたから……じゃましちゃったから、おっちゃんは他のところで死のうとしてるのか?」
「……いや、そんなつもりはないよお嬢ちゃん。後ろで大声を出されたくらいでやめるなら、結局、最初から本気で死にたかったわけじゃなかったってことだ。普通に家に帰るとするよ」
事実、目の前のお嬢ちゃんにすっかり自殺の気を削がれたおっちゃんは、今すぐ死のうという気持ちは毛ほども残っていなかった。
「そうなのか……?」
「ああ、そうさ」
聞きたいことには全て答えてやったと、帰るために屋上の入口へと足を進めようと思ったおっちゃんであったが、ふと聞きたいことができたので背を向けたままお嬢ちゃんに疑問に思ったことを問いかけた。
「なぁお嬢ちゃん、お嬢ちゃんはなんでこんな所にきたんだい?」
「え?」
お嬢ちゃんは虚を疲れたように息を飲んだ。
「わ……ワタシはタンケンがすきなんだ! いつもワタシの通っている学校から見えるここが気になってたんだ! それがワタシがここに着た理由だぞ!」
そういえばと、先ほどは自分のことに手一杯であまりよく見てはいなかったが、お嬢ちゃんの制服に何か違和感のようなもがあったので、振り返ってお嬢ちゃんを見てみると、その感じていた違和感の正体が分かった。
お嬢ちゃんの制服は確かに街にある有名な女子校のもので間違いないのだが、お嬢ちゃんが今着ている制服は、所々ほつれたり擦り切れていたりするところがあり、また埃や油のような汚れが付いていて、控えめにいっても酷い状態であったのだ。廃ビル内で一体どんな探索をしてきたのだと、おっちゃんは、お嬢ちゃんの好奇心旺盛さに小さく笑みをこぼした。
「……そうかい。でもなお嬢ちゃん、お嬢ちゃんみたいな可愛い女の子が、一人でこんなところに来るのは危ないからもうやめたほうがいいよ。好奇心旺盛なのもいいけど、そうやって危ないことばかりしているから、こんなおっちゃんみたいな変なヤツに遭っちまうんだよ。それに、可愛い制服もそんなボロボロになっちゃってるじゃないか。大事にしなきゃダメだよ」
おっちゃんがそう言って自虐を含んだ笑みを浮かべると、お嬢ちゃんは見られたくないものを隠すように、汚れた制服の前面部分ををさっと腕と鞄で隠そうとしながら、そんな自嘲するおっちゃんに憐れみとも同情とも共感ともとれるような複雑な表情を浮かべながら見ていた。
「……なぁおっちゃん、おっちゃんはなんで死にたいんだ?」
「うん?」
改めてそう問われると、死へ至った色々な経緯が自身の中で溢れてくるが、どれもこれも目の前にいる少女に話せるような内容じゃなければ、話したところで納得が得られるとも思えない。自分にとっては死を選ぶほどに大きな問題でも、人からしてみれば、くだらない大したことない、そんなことで? と思われてしまうようなことであることは往々なのである。苦悩というものは自身から生じて自身を滅す病でしかないのだから、人と分かち合うことなど絶対にできるものではない。たとえできたように見えたとしても、それは擬似的なものでしかないのだ。だからおっちゃんはその問いへの答えを濁すことにした。相談に乗って欲しいわけでもなければ、助けて欲しいわけでもない。それに、未来ある若者にそんな身の上話を聞かせても仕方ない。という結論に至った。
「なんでだろうなぁ……」
「ワタシは生きたいぞ……生きていたいぞ……っ」
うつむき気味に発させられた独白に近いその言葉の意味はおっちゃんには良くわからなかった。けれども、その言葉とお嬢ちゃんの表情は酷く非対称のように見えた。
「ああ、そりゃそうだろう。お嬢ちゃんみたいな子は生きていたほうがいい。きっとその方が世の中も良くなるだろうさ。だけどな、いや、だからこそおっちゃんみたいなヤツはさ、お嬢ちゃんみたいな子たちの為にも死んだほうがいいんだ」
こんなことを話すつもりはなかったが、お嬢ちゃんの悲痛な表情を見てつい励ますようなつもりで愚痴のような言葉を漏らしてしまった。
「……なんでだ? なんで死んだほうがいいんだ?」
問いかける瞳は不自然なほどに真剣だった。その瑠璃色の瞳と雰囲気におっちゃんも何故か不思議な共感を感じ、今日初めて会った年端も行かぬ少女に話すようなことではない話なのに、本当の理由は隠したままついつい口が滑ってしまう。
「おっちゃんはさ、単に生きているのが嫌になっちまったんだ。ただそれだけの理由だよ。だけどな……自分の生を、誰でもない自分自身が本気で否定したのなら、もうそいつに生きている価値なんてないんだ。たとえば、死んだほうが今の辛い人生よりはマシだとか、もう死ぬ以外にないとか、そう思ってるヤツならまだおっちゃんよりも立派さ。そいつは死のうとはしてるけど、根っこににあるのは生きていたいって思いだからな。けど、おっちゃんは違う。ただ生きているのが嫌なだけだ。だから、そんな死にたがりなヤツは、お嬢ちゃんみたいに真面目に生きてる、生きたがっている人にとって害悪でしかないんだ。だから、おっちゃんみたいなヤツは死んだほうが良いんだよ」
その言葉を聞いたお嬢ちゃんは何故かうな垂れてしまった。
「ワタシはそうは思わないぞ……おっちゃんのことはよく知らないけど、ワタシは目の前で死のうとしている人がいたら、その人がどれだけそれを望んでたとしてもみすごせないぞ……」
「……そりゃそうさ。おっちゃんだってもしも先にお嬢ちゃんがここにいて、もしも飛び降りようとしてたら流石に止めてただろうしさ」
「……ホントか?」
「ああ、勿論だよ」
「……ホントにホントか?」
「ああ、本当に本当だ」
お嬢ちゃんは顔を上げると、にこっと笑顔を浮かべた。
「ならワタシが、おっちゃんが生きていたいようにしてやろう! 死にたがりのおっちゃんから生きたがりのおっちゃんにしてやろう!」
突然の提案に虚を突かれたおっちゃんは、なんと答えればいいのか言葉が詰まってしまった。
「……どうしてそんなことに話が飛躍したのか分からないけど、やめときなお嬢ちゃん。時間の無駄だよ。お嬢ちゃんの貴重な時間を、こんなおっちゃんのために無駄にすることはないんだよ」
「ムダかどうかはワタシが決めることだ! ワタシはムダだとは思わないぞ! おっちゃんはイヤなのか?」
おっちゃんは不思議とその突拍子もない提案に嫌な感じがしなかった。
「どうせ死ぬつもりなら、ちょっとおくれたって構わないだろうおっちゃん!」
「……なんでお嬢ちゃんは、そんなに俺に拘るんだい?」
「……ワタシは、ワタシは乗りかかった船はおりないんだぞ! 目の前で死にたがっているおっちゃんがいたのなら、生きたいようにしてみるのがワタシなんだぞ! おっちゃんはもし立場が逆だったたらワタシを止めてくれたんだろう? ならお互いのカンキョウと立場がちがっただけだぞ! たったそれだけのことなんだぞ!」
その勢いと若さに、お嬢ちゃんの無邪気さにおっちゃんは思わず吹き出してしまった。
「ははっ……いいよ。お嬢ちゃんがそうしたいのなら、おっちゃんは構わないよ」
おっちゃんはお嬢ちゃんが持つ不思議な明るさに惹かれ、どうせ死ぬのならちょっとくらい寄り道をしても良いか、少しすればこのお嬢ちゃんも飽きるだろうと思いお嬢ちゃんの提案に頷いた。
「ホントか!? なら決まりだ! おっちゃんはケータイを持っているか?」
「持ってないよ」
「それは良かった! 実はワタシも持ってないんだ!」
「そりゃ現代の子にしちゃ珍しいな」
「だからまたここで会おう! あしただ! あしたまた会おう!」
「なんでここなんだい?」
お嬢ちゃんはくるりとおっちゃんに背を向け夕日を正面から一身に受けると、舞台役者のように大仰に大きく両手を空に広げた。
「おっちゃんは終わらせよとした場所で始まるんだ! とってもステキじゃないか! 歌みたいだろう! ワタシとおっちゃんがここで出合ったのも、きっと運命なんだぞ!」
「……ははっ……かもね」
そう返したおっちゃん、はつい先ほどまで妖怪のような形相をして自殺しようとしていた人間とは思えないほどの険のない笑みを浮かべた。
「じゃあおっちゃん、約束だぞ!」
お嬢ちゃんは人懐こい笑顔を浮かべると、小走りでおっちゃんに寄ってに右手の小指を差し出した。
「ゆびきりだ!」
「何を約束するんだい?」
「ワタシがあきらめるまでおっちゃんは死にたがっても死んじゃだめだ!」
「……分かったよ、お嬢ちゃん」
そうして、死にたがりのおっちゃんと、生きたがりのお嬢ちゃんは、とある廃ビルの夕暮れの屋上で約束のゆびきりを交わした――