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第一話「死にたがりのおっちゃんと、生きたがりのお嬢ちゃん」

「ワタシは生きたいぞ! 生きていたいんだぞ!!」

 目の前に立った小さなお嬢ちゃんの、その悲痛な叫びは、死のうとしていた俺が、一旦死ぬのはやめようと思うほどには、この心を打った。

 目の前の金髪碧眼の小さな少女は言い終えて、その小さな体を震わせながら、今にも泣き出してしまいそうな涙目でこちらをにらんでいる。

 どうしてこんなことになったのだろう?

 俺はただ、一人静かに死のうとしていただけなのに――


 ――

 ――――

 ―――――― 


 茜色に染まる、とある廃ビルの屋上――

 そこは街を一望できる小高い場所に建てられたデパートの名残である。かつては街一番の賑わいを見せたこのデパートも、移り変わる時代に順応することができず廃れた。そして閉店し、閉鎖され、打ち捨てられ、今ではもう、誰も寄り付くことのない無人の廃墟となっている。

 だが、その屋上から見える風景は、デパートの興廃に関わらず、今も昔も美しいままであった。

 その廃ビルの屋上の、触れれば手が赤茶色に汚れそうなほど錆び付いた、菱形に編み込まれたの金網フェンスの向こう側、ビルと空とを隔てるへりの上に、男が一人佇んでいた。三、四十代ほどに見えるやつれ顔の男は、百八十センチほどの大きな背丈にやや贅肉がついており、中肉といった大柄な体格をしている。黒色のジャケットとズボンを着てはいるが、上下共に着古した跡が見てとれる。よれてシワが目立ちいかにもみすぼらしい格好である。額から頭頂部まで禿げ上がった光沢のない頭は、差し込む夕日を反射させることなく、ただ、その頭皮を同じ茜色に染めていた。への字に引き締められた口周りには、カビのような不精髭が生えており如何にも汚らしい。

 その顔に生気は無く青白い死人のような顔色をして、両目は陰を帯びて落ち窪んではいるが、よく見ると不思議と愛嬌のようなものがある優しげでつぶらな瞳をしている。鼻は高く鼻梁が通っており、総合してみると、男の目鼻立ちは整っているといえた。

 そんなみすぼらしい風体の男が一人、屋上のフチの上に茶色い履き古された革靴を履いた両足をピッタリに揃えて直立しながら、ズボンのポケットに両手を入れ、顔をやや上向きに、下から吹きあげてくる冷たい秋風と、差し込む茜色の夕日を全身で受けていた。

 恐怖か緊張からか、体は少し強張っているようにもみえる。

 その爽やかで開放的な場所から一歩でも前に踏み出せば、真っ逆さまに地上へと落下して最短距離で人生の終わりを迎えることができるだろう。男は涼しげな、開放的過ぎる場所で、ただジっと遠くを見つめている。何を想っているのか、虚ろげな顔は全てを諦めきった、ある種の諦観を含んだような表情を浮かべていた。

 男は暫くのあいだ、さらさらと吹き上げる風を、目を瞑ってじっと受けていたかと思うと、目蓋をゆっくりと見開いて、左右を見渡し茜色に染まる街の景色を一望した。そうしてぐるりと眺め終えたかと思うと、深く息を吸いこみ、吐き出し、それを何度か繰り返すと、歯をむき出しにして口角を上げ、笑みとも怒りともとれるような壮絶な形相を浮かべた。

 これは笑みなのだろうか? 恐らく男は今ここで自殺をしようとしているのであろう。ということは決して笑顔なんて浮かべられるような人生ではなかったはずなのだ。

 もしかすれば、自分が決断した最後の最後にあって、誰もいない寂れたこの場所で誰に向けるためでもない自分自身へのために、このような複雑な笑顔を浮かべたのか、それとも如何にも死にますよといったような、絶望した顔のまま死んでやるものかという、世界へのささやかな反抗なのか、いずれにせよ本人以外に答えは判らぬのであるが、その表情の意味を察して解釈してやりたいと思えるほどには、男の表情は狂おしいほどに寂しげだった。

「ああ……意味のない人生だった……」

 怖ろしい形相が崩れ、素の顔になり、そこからふと零れ落ちた言葉は、強く吹き上がった秋風に攫われて、残響も残さずに去り消えた。面紐がほどけたように、男の顔が、見ている方が哀れさを覚えるような、泣き笑いのような表情になったかと思うと、男は右足をゆっくりと足場のない前へ、終わりへと踏み出した――


「あーーーーーーー!!!!!」

「?!」


 瞬間、耳をつんざく甲高い叫び声が廃ビルの屋上一杯に響きわたった。

 男は背後から聞こえた叫び声に驚き一瞬体が硬直してバランスを崩す。右足はまだ空中にあり踏み出しきってはいなかった、まだ留まろうと思えば生を選べる位置である。目の前には死、後ろには生、男は瞬き一回分にも満たない僅かな時間の中で無意識に生を選びとった。左足を起点に右足以外の身体全ての重心を全力で後ろに傾け、背後にある赤錆びたフェンスに尻餅をつくように倒れ込むと落ちないように金網が変形するほど力一杯握りこんだ。

「はぁ……はぁーーー……」

 一拍遅れでやってきた動悸や死の恐怖を一身に受けながら荒い呼吸をして、落ちる予定であった遠くにある地上へと目を離さぬまま、自分が助かったことを確認した男は、金網を握っていた手の力を少し緩めた。不思議なもので、この男は直前までその場所で、自ら進んで落ちようとしていたというのに、今は落ちかけたことに対して心底恐怖し、落ちなかったことに心底安堵しているのである。

 その顔面は冷や汗まみれで、夕日を受け入れるがままだった禿げ上がった頭皮も脂汗に塗れ、夕日をキラキラと反射させている。鳴り止まぬ激しい動悸を抑えるように心臓の辺りを右手で押さえながら、屋上の内へと振り向いてある意味自分を助けたのか、落としかけたのか曖昧な、先程の甲高い奇声の持ち主を探した。

 すると、そこには金色の長い髪をした小さな少女が屋上入口のドアの前に立って驚いたような表情を浮かべて男を見ていた。

「おっちゃん何やってるんだーーー!! 死にたいのかーーー!!!!」

 金髪の少女はそう叫びながら、怒ってるのだか驚いてるのだか判別しにくい、切羽詰ったようにさえ見るような表情で、男の元へと足早に歩み寄ってフェンス越しにその目の前へと立った。

 男は自殺を邪魔されたこと、死にかけたことによる気の動転と、廃ビルと金髪の少女という非現実的な状況も相まって、混乱し頭が回らず呆然として、怒る少女をただ無言で見つめていた。


 フェンス越しに向かいあう薄汚れた中年の自殺未遂男と、可愛らしい異国人の少女。


 それは、生と死をフェンス越しに隔てた一枚の絵画のようであった。

 だとするのなら、一体どちら側が生であり死を表しているのだろうか? 少女が生なのか男が死なのか、それとも死を免れた男こそが生を象徴しているのだろうか? この二人の構図はとても奇妙なものであった。


 男はフェンスにもたれかかったまま立ち上がろうともしない。腰が抜けていたのだ。足が震えて立つに立てないのである。それに拍車をかけるように、謎の少女に遭遇し一喝されてわけが分からなくなり思考が停止してしまった。身体だけではなく、頭も動くことができなくなってしまっていたのだ。だが、いつからか、本人も気付かぬ内に、荒い呼吸は治まっていた。

 少女は眉を吊り上げて男を睨んでいる。

 百五十センチにも満たない小さな背丈に、まだ幼さやあどけなさというものが残るその少女は、外国の子なのだろうか、真ん中から左右に分けられた緩く波打つブロンドの長い髪が、夕日を受けて黄金色に輝いている。そこから見える広いおデコが幼さを感じさせる。愛嬌のある瞳は大きく瑠璃色で、宝石のような美しさを持っている。街にある有名な女子校の制服を着ていることから、高校生なのであろうということは推測できるが、制服を着ていなければ中学生にも、下手をすればもっと下に見えてしまうほどに幼く可愛らしい容姿をしていた。

「ワタシは死にたくないぞ!! ワタシは生きたいぞ!!」

 少し片言な発音で叫んだ言葉は一体誰に対する宣言なのかも分からぬまま、少女はそう一喝すると男の目を正面から睨むように見つめた。瑠璃の瞳は、何故そんなに怒っているのかと疑問を感じてしまうほどに真剣な色を帯びている。どうやら、そのあどけなさの残る少女は、目の前で飛び降り自殺をしようとしていた男に酷くご立腹であるらしい。男は状況が少し飲み込めたためにかえってバツが悪くなり、女の子から視線を反らすと大きく息を吸い込み大きく吐き出しそれを何度か繰り返した後、額の汗を手で拭って、おもむろに口を開いた。

「……あんまり怒鳴らないでくれよお嬢ちゃん。おっちゃん、びっくりしてここから落ちかけちゃったじゃないか」

「なに言ってるんだ! おっちゃん落ちようとしてたろ!」

 男は自分でもあまりに白々し過ぎることを言ったと思ったので、少女の強い語気に暫くのあいだ、二の句が告げられなかった。それでもよくわからない後ろめたさから、なんとか誤魔化そうと白々しい嘘を重ねようとする。

「違うよお嬢ちゃん。おっちゃんはね、高いところが好きだから、ちょっとフェンスを乗り越えて景色を見てただけなんだよ」

「ウソがヘタだなおっちゃん!」

「……お嬢ちゃん例えばだけどね、もしもお嬢ちゃんからはおっちゃんが自分から飛び降りようとしてたように見えていたとしてもだよ? 止めようとか、止めさせようとかしたいんなら、そういうときはあんな大声を出しちゃぁいけないよ? 落ちるつもりがなくても、びっくりして落ちちゃうかもしれないし、例え落ちるつもりだったとしても、自分の意思で落ちるのと、驚いて意図しないタイミングでびっくりどっきりしながら、わけもわからず落ちるのとじゃ色々と大違いだろう?」

「声をかけなかったらどっちみち落ちてたぞ! それにどんな落ち方だろうと結果は同じだぞ!」

「……そうだね」

 間髪入れぬお嬢ちゃんの言葉に参ったおっちゃんと呼ばれた男は言葉に詰まってしまった。自分がなんとなくお嬢ちゃんと呼んだ女の子の視線から逃れるようにフェンスに背を向けると、怒った獣が喉を鳴らして唸るように自分を見つめているお嬢ちゃんの視線を背中に受けながら、暫くのあいだ言い訳の言葉を捜していたが、どうにうまい言葉が見つからず観念し、よく考えたら見ず知らずの少女に怒られる謂われもなければ、言い訳する必要もないではないかと居直る心持ちになって、動揺と弱気を振り払うように首を振ると、手を開き握り足腰を軽く動かし身体が動くことを確認して立ち上がった。

「分かったよお嬢ちゃん……。危ないから、ちょっとそこどいてくれないかい?」

「え?」

 そう言うとおっちゃんは両手を上げてフェンスを掴み足をかけ、見かけによらぬ身のこなしで二メートルはあるフェンスを飛ぶように軽く乗り越え、お嬢ちゃんの隣へと静かに着地した。お嬢ちゃんは一瞬の出来事にキョトンとした顔をしたまま、隣で自分のことを見下ろしているおっちゃんの顔を見上げている。先程はおっちゃんが座っていたことからお嬢ちゃんは気が付かなかったのであろうが、二人の身長差は頭一つ分以上も、大人と子供ほどもあるのだ。

 憂いた表情でお嬢ちゃんを見下ろすおっちゃんと、キョトンとした表情でおっちゃんを見上げているお嬢ちゃん。 


 奇妙な二人を夕日が照らしていた――

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