1. 私、逃げることにしました。
サブタイトルに番号を振ることにしました。
貴方の声が、
貴方の後ろ姿が、
貴方の伏せる目が
どこか、悲しそうに遠くを見つめる姿が、
私を惹きつける。
貴方と私の心がすれ違うことは決してありはしないけど、ただ、願うなら、貴方の婚約者を見る前に、館を去りたい。
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「旦那様、本日の午後、コーウェン様が来られます。先日の渇水対策に関する議案について打ち合わせされたいそうです」
朝食後に一日のスケジュールを執事のリアンさんが旦那様に報告されている。
私は、メイドとして、当たり前ではあるが、音を立てることなく紅茶を旦那様にお出しする。
旦那様のスケジュールは過密であると奥様が嘆いておられたが、それを管理する執事のリアンさんはもっと大変だと思う。
忙しすぎて、既に壮年の真っ只中だというのに、ご結婚もされていない。お仕えする旦那様ご一家に心身ともに一片の時間すら捧げているように見える。
しかし、先日、聞いてしまった。
旦那様のプライベートルームの前の廊下を掃除していた私は、僅かに開いた扉から、旦那様とリアンさんの会話を聞いてしまった。
「それで、どうなった?婚約者殿の迎え入れは?」
婚約者?誰の?
「そちらは恙無く、季節の兼ね合いもございますし、雪解けを待ってからの移動を考えますと、到着するのは三ヶ月後くらいかと。」
「そうか、春には少し賑やかになる。お前も肩の荷が降りるな。楽しみだ。」
「そ・・・」
もう、聞きたくなかった。
手早く残りの掃除を済ませて、慌てることなく、物音を立てないように、その場を立ち去った。
お昼を素早く食べ、庭先にある小屋へ道具を取りに出た。
週に一度、一階のお部屋の窓の外側を拭く。それに必要な道具の足場、長い柄の付いたモップとバケツを抱え、小屋から出ると、庭の花を前に庭師とリアンさんが話しをしていた。
スラリと伸びた広い背中は初めて御屋敷を訪れた時から変わらない。もう十年が経つのか。
私も、身を固めなくてはいけなくなった。
リアンさんが結婚される。
ジワリと視界が滲んだので、視線を目的地の窓へと向け、足を動かした。
あれから、既に一週間が過ぎている。
準備は進め始めた。あとは、報告をするのみなのだが、踏ん切りのつかない自分に腹が立つ。
旦那様が紅茶を飲み終え、席を立たれた。
部屋から出ていかれる旦那様に礼をして扉が閉められるのを待つ。
手早くカップをトレイに乗せ、テーブルを拭き洗い場へ向かう。
料理長のアシュバルさんにトレイごと渡すと、屋敷の掃除を始める。
掃除箇所はリアンさんとメイド長が決める。二人一組で決められた時間内に決められた場所を掃除をするのだ。あれから、旦那様のプライベートルーム前の廊下の掃除はペアのマリナに代わってもらっている。二人で同じ階の廊下の掃除をするのだから、構わないのだが、突然、掃除場所を代わってほしいと言った私にマリナは何かを言いかけて止まり、おでこに手を当て、「仕方ないわね」と言った。
夕方、メイド長に声を掛け、夕食後に部屋を訪ねる約束を取った。
扉をノックし、「アデルです」と告げると、一拍後に中から「どうぞ」と返ってきた。
「失礼します」
何度か訪れたことのあるメイド長の部屋は、すっきり整えられていて、気持ちがいい。
「どうぞ、座って」
何か手紙を書いていたらしく、物書き机を整えた様子のメイド長が部屋の中ほどに置かれた椅子を手で示し、自らも向かいあう椅子に腰を下ろした。
二人の間にあるローテーブルには茶器がセットされていて、メイド長自ら紅茶を淹れてくれた。
「それで、何か悩みかしら?」
メイド長は柔らかな笑みを浮かべて紅茶を口にした。
「突然のことなんですが、私、春にこちらを辞めて実家に帰ろうと思います。」
一拍空けて、メイド長が口を開いた。
「それは、突然ね。春というと、精霊祭の前?」
「前、ですか」
「そう。実家に帰ってどうするの?」
「私もいい歳ですし、お見合いでもして、いい方の家庭に入りたいと思います」
メイド長が首を少し傾げたように見えた。
「そう。分かったわ。私から旦那様に報告します。引き継ぎをしてもらいたいから、出来れば、精霊祭の後まで居てくれないかしら?」
精霊祭の後なら、ギリギリ、婚約者の方が来る前だろう。
「はい、分かりました」
「それでは、宜しくね。さあ、お一つどうぞ」
笑顔で、クッキーを勧められ、一つを手に取った。