10.秋刀魚の約束
なんの用事もない午後、外は雨が降っていた。
俺は部屋で、就職説明会のチラシを数枚見ていた。昨日、いろんな企業の合同説明会の年間予定表やら、就職活動入門書のような冊子が一式入った封筒が配られた。
就職説明会やら、OB訪問やら、情報交換している奴らの声がちらほら耳に入るようになった。俺もそろそろ、卒業後のことを真面目に考え始めなければならない。
一応経済学部ってところにいるが、経済も幅広い。俺の専攻する科は、数値を出して理論的に解析する理数系の方じゃなくて、歴史とか思想とかものすごく大雑把な社会経済学。ここを出たからこれだけのスキルがありますと胸を張って言えるような専門性はない。そのぐらいのことなら、日経新聞読んでれば誰でも知ってるだろうと言われそう。
自分に何が向いてるのか、何がやりたいのかよく分からない。
経済というか経営というか、組織の人間関係云々の講義で「自己肯定感」って言葉が出てきた時は、俺はなんの仕事も向いてないだろうなと思った。
コンビニみたいにマニュアル化された作業ならいいんだけど、自分で起業したり、人を使ったりするような仕事は、肝心なところで弱気になってしまう自分が容易に想像できる。ずっと、このままコンビニ店員はやってられない。年取ってもずっと使われる立場ってのも厳しいし、今のうちにこういう性格をどうにかするか、本当に自分に合った職種を探さないと続かないだろう。
愛加は短大だから今年度で卒業だ。幼稚園の先生になって、先に社会人になってしまうのだろうか。
愛加先生か。似合うな。絶対なれる。
先生。
その言葉に、楓が俺をそう呼んだときのことが頭をよぎった。
楓と話がしたいという気持ちに恋愛感情はない。本当に先生みたいだ。自分を慕う生徒が純粋に可愛い。教師とか講師とか、こういう気持ちなのかな。
いや、先生になったところで慕ってもらえるとは限らない。そもそも、俺は楓に先生らしいことはひとつもしていない。落書きやツイッターで拾ったネタを話すことしかしてない。
人に教えられるものが何もない。教職取る気もない。教育実習とか想像しただけで、腹壊しそうだ。
先生はないな。思いついて数秒で却下した。
子供の頃も、先生になろうなんて思ったことは一度もない。
愛加は、自分が幼稚園の頃から幼稚園の先生になりたかったって言ってた。
相当いい先生に出会ったのだろう。
いい先生か。
先生に「いい」を付けただけで、みぞおちのあたりを殴られたような気になった。
幼稚園から今行ってる大学、病院も含めてたくさん出会った先生の中で、いい先生と呼べる人は、俺には一人しかいない。
先生と呼んでいたが、直接何の教科も教わっていない。治してもらったわけでもない。ただ、そこに居てくれただけだ。
雨が少し激しくなってきた。
窓をたたきつける雨音が、俺の記憶に直接降り注ぐようで、俺は急に確かめたくなった。
押し入れの奥にある引っ越し屋の段ボール箱を出した。一人暮らしを始めて必要なものは、この部屋の大きさに合わせてだいたい新調した。実家から持ってきたのは、服とこの段ボールに入れた細かい物ぐらい。大事な物、実家に置き去りにして万が一親に見られたら恥ずかしいものを詰め込んだ。
俺はその中から、女物の折りたたみ傘を見つけた。
「先生」に借りて、返せていない傘。
急な雨が降るたび、先生は俺に貸したことを思い出すだろうかと何年かは思っていた。二年、三年と時が過ぎて、きっと貸したことを忘れて新しい折りたたみ傘を買ってしまって、傘ごと俺のことなんか記憶にないだろうと思うようになった。
一生、返すことはないだろうけど。
傘だけに思ったんだ。
中学の頃、俺はずぶ濡れだった。
「止まない雨はない。今は辛くてもいつか笑える日がくるから」なんて言う奴が一番嫌いだった。
大変な経験をしたからこそ言える深い言葉なのかも知れないけど、そういう人は今現在、乗り越えちゃって安全な場所にいる。そして、雲の切れ間から思い出を懐かしむように上から目線で言ってくる。
天国から地獄の底を見てるお釈迦様のようだ。
そんな、来るか分からない未来のことはどうでもいい。
今、降ってる雨をどうにかして欲しいんだ。
このままじゃ死ぬ。
雨が強すぎて自分で屋根のあるところまでいけない。
誰か屋根のあるところに連れて行ってくれ。誰か傘に入れてくれよ。誰か傘貸してくれよ。
きれい事という名の蜘蛛の糸たらされても、這い上がれないんだ。
止むまで待ってろと言うのか?
そりゃ、待ってればいつか止む。
それで解決するのか。
罪人でもないのに地獄に突き落とされて、傷つきすぎて、このままじゃ死ぬ。
そう叫んでいた。
先生は、俺にこの傘を貸してくれた。
物理的に雨に濡れずに済んだだけじゃなく、土砂降りだった俺の心が雨をよけられた。
俺は屋根のあるところまで、自分で歩いて行けた。
先生。
この傘のことは、誰も知らない。
スマホが振動して、公衆電話と表示がされた。
感傷的な気分に飲み込まれる俺を現実に引き戻す。
楓だ。
「楓です」
「おう、元気だった」
「はい。あの、今日、愛加さんに会いました」
「へえ」
別にやましいことはないが、この情報は、愛加に会って聞かされたとき初めて聞いた話にしておいた方がいいんだろうなと思いながら、聞く姿勢を作った。
「万引きさせられそうになったの、助けられました」
「なんだ、それ」
事の経緯を詳しく聞くと、楓は放課後、クラスの女子に買い物に付き合わされたらしい。LINEで散々死ねとか言ってきた奴らが、テストが近づくと頭のいい楓に優しくなるという。そのうわべだけ仲良しの三人組に誘われてドラッグストアに行くと、三人は楓のカバンに自分の欲しい化粧品をいれ始めたと。
偶然通りかかった愛加がその瞬間を見て、その三人にやんわり注意をしたという。登場しただけで雑魚キャラは退散する、オーラが半端ない女帝みたいな愛加の姿が想像できた。決して暴力で解決はしないのに、その人の知り合いってだけで、守られてるような威力がありそうだ。
「その後、うちに送ってもらって、偶然お母さんにも会って、なんか、すごい親しい関係になったような気分です」
それは嬉しいのか、本当は嬉しくないのか、よく分からない言い方だった。
「へえ」
俺はそれしか言えなかった。
楓がいちいち報告してくれること、それを聞いていることにに妙な罪悪感が生まれている。やっぱりこの電話や図書館での勉強会を愛加に言っていない後ろめたさか。
しかし、俺だって彼女の行動を逐一把握するようなことはしない。したくない。ボランティアとはいえ家庭教師と生徒のことを、彼女に報告する義務はない。何も後ろめたくなんかない。
「サンマ、いつ食べますか?」
「なんだよ、急に」
かすかに、フフっという楓の笑い声が聞こえた気がした。何かを企んでいるようで少し怖かった。
わざと回りくどく言って相手を試そうとしている中学生の小賢しさが顔を出す。妹キャラ的な素直な中学生の時と同一人物なのか心配になる。その不安定さは愛加には全くない要素だ。
「お母さんが今日、サンマ買ってきてて、そしたら愛加さんが、奏田さんの所の大家さんが七輪で焼いてて美味しそうだったって話しだしたんです。その話、前に奏田さんからも聞いたなって思って。もちろん、その話聞いたこと言ってません」
「ああ、そういえば言ったね。そんな話」
楓も俺と会ってること、電話のことは愛加には言ってないのだろう。楓は知らないふりをしてその話を聞いていた。万引き話を知らないふりして聞くことになるだろう自分と、初めて知る話だと思って話している愛加を想像して、少し申し訳ない気持ちになった。
「愛加さんが、土曜の夜泊まるから、日曜の昼に食べられるように大家さんに頼んでみようかって、言ってました」
土曜の夜泊まる。愛加と俺の予定は、愛加によって楓に筒抜けか。微妙に恥ずかしくなったので、この罪悪感を帳消しになるような気もした。
「ああ、じゃあ、日曜日は愛加の提案で秋刀魚祭りになってるってこと?」
「そうです」
「じゃ、愛加から聞いたら、いいアイディアだねって言っておくよ」
「あ、そうですね。お願いします」
何かを企んでいるわけではない。三人でサンマ食べましょう。そういう電話だったと思うことにして電話をい切った。
俺は楓を生徒のように可愛いと思う。それは愛加も知っていて、愛加の方も俺と同じような気持ちで楓に接していると思う。
だけど、絶妙なバランスで、なんとなく保ってるだけで、この関係性が永遠に続くのは無理なんだろうと、心のどこかで思う自分がいる。それは楓に対してか、愛加に対してか、自分自身に対してか分からない。
俺はもう昔の俺じゃないんだ。
そう自分に言い聞かせ、傘をまた段ボールの奥にしまった。




