4-Fin... 追憶と累積の狭間で歌え
幼い頃から聞いていたのは、風の噂と子守唄。其れが自然になり過ぎて、ミデンに友人はいなかった。
人気の無い場所を意識して選び、風の声を聞く。其れが遊び。気味悪がった大人も多く、だが彼らには慣れていた。
『ぼく、』
『ん?』
目の前にいた見知らぬ人に、あんたは誰だと問い掛ける。街では見かけた事も無い、異様な風貌の男は笑い、その質問を受け流した。
「風の言葉が聞けるんだね」と。
―――気味が悪い―――幼い子供は瞬時に思う。自分の知っている“大人”は、ミデンが異常な物を聴くのに触れる事も、ミデンその物に触れる事もなかった。少年が知っている事は、周囲の陰での囁き声と、一番身近に居たらしい人の金切り声と、怒鳴り声。
―――――『有り得ない声が聞こえるなんて………』
―――――『しっ。聞こえたら何が起こるか………』
―――――『関わらないのが一番だよ。さぁ………』
遠巻きに無遠慮な視線を投げては、こそこそと立ち去って行く人々。
―――――『あんたもあの男も悪魔だったのよ!!』
―――――『こんな子供を産むなんて! あれは間違いなく魔女だ!!』
狂っているのは一体どちらか聞きたくなるほどの罵り合い。心地良い風の歌以外に、耳に飛び込むのは其れだけだった。
だから、
『………知らないね』
『そうかい? 勿体ないね』
“君は、風を『使える』のに”―――――だから、こんな“声”は知らない。
『君は風の精に好かれている。彼らは君の為になら、喜んで力を使うだろう』
目元を影に入れた顔が、「見せてくれないか?」と笑う。
『知らないって言ってんだろ』
そのまま踵を返し走った。関わり合いになりたくない。人通り多い道へ出ると、男は追って来ることも無く。
随分経った今ならば、あの男がどんな奴だったのか、相応に理解は出来ている。
リマルーンという家に対する小さな反逆組織は在ると、アインも騎士たちも言っていた。
陰から出て来られない人種。ただ仮に協力させられていても―――――アインは、ずば抜けて強いから。
俺が負けて、………その方が良かったのかも知れない。
広い道を極力選びながら、徐々に人影の疎らな方へ歩を進めた。
城壁の真横を伝って歩き、北方の街外れへと出る。城の裏手は荒れ放題で、此処が“街”では無いと知れた。
背後の巨大な建造物の名残りだろう。至る所に転がっている大きな瓦礫の一つに座る。
響いて止まない風の声に、ミデンは思い巡らした。
――――――もしも、……使えるのなら。
空に向かって手を伸ばす。浅墓な好奇心だった。
罵られてまで持たされていた、自分の“力”の意味を知りたい。そんなどうでもいい願いが、何を招くかなんて知らずに。
誰を傷つけたのかも知らずに。
『な……ッ っつ』
取り巻かれる風に引き裂かれる皮膚。鋭利な刃物は何処へ逃げても襲って来て、一時の隙間を縫いながら走る。闇雲に逃げ込んだその場所で、彼は意識を失った。
一人の少年の、背後で。
『……おい』
重い物が落ちる音が聞こえ、振り向くと人が倒れていた。癖のように手を添えていた大樹の幹から手を放し、彼の傍らに膝を付く。まだ血が溢れる傷を見据え、「風にやられたか」と呟いた。
同じ年頃の少年の中に巣食う因子が読み取れる。
『……成る程。此の器で扱うには、少しばかり荷が重そうだな』
『ぅ……っく』
『気が付いたか』
動かない方が良いと告げて、彼の額を軽く押さえた。開けきれない目を、しかし其れだけでも彼に向けて、ミデンは掠れた声で問う。――――――『誰だ……? あんた』
霞む視界に唯一入って来る色は黒。朦朧とする意識の為に少し遠くなった声は尊大だが凛としていて、それだけで“完璧な美”を感じた。きっとその人を作る全てが、非の打ちどころの無いほど“美しい”のだと。
まるで生きている感じのしない、圧倒的だが何処か曖昧な、霊が浮かぶような存在感。
冷たく滑らかな指先と、誰からの反論も赦しはしないと言わんばかりの命令調が降り掛かる。
『事が終わってから教えてやる。先ずは、そうだな……その力、僕が引き受けてやろう』
『……? 何言って――――――』
『案ずるな。お前の器が此れを扱えるほどになったら、返してやる』
不快だとは思わなかった。『今は預かるぞ』と断られ、視界が一段暗くなる。額に翳されたその人の、手の影が被さったから。
詰まった息を大きく吐き出し、ミデンは再び眠りに落ちる。
手を翳す少年の目が、更に鋭く細められた。何かを命じるような視線。無言の圧力に応えるように、緑に色付く光の風が、彼の中から溢れ出る。其れを、自身に引き寄せるが、
『何……ッ!?』
瞬く間に掠め切られていく身体。咄嗟に顔や首を守り、左右の色の揃わない目を見開いた。
従える事が出来ない風。治癒の速度も追い付かない力。
アインに傷が移る度、少年の其れは癒えていく。淡い光が全て消えると、彼はその場に崩れ落ちた。
『あ……』
緩慢に体を持ち上げる。傷も痛みも既になく、呆けたように腕や顔、足に手を当てて『凄げぇ……』と其の御業を称えた。
成した本人に礼を言おうと、未だ居るであろう横を見遣る。そして――――――其の光景に絶句した。
『……ッ はぁ。何て“化け物”を……飼っていたんだ………貴様』
先の自分と同じように、力無く倒れ込む少年は。
霞む目を薄らと開いて、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。
――――――そう。だから、
『あんた……何を……… ――――――くそッ』
些か乱暴に彼を背負い、方向も分からぬまま走る。不思議と森の木々が避け、道を開けてくれていたような気がしたのは、今思うからこその気のせいか。
何にせよ、迷う事は無く。
“此処だ”と思った、辿り着いた部屋で声を荒げた。
『た、頼む助けてくれ! こいつ、が……、』
人を見て、緊張の糸が切れたのかミデンもその場で倒れ込む。
――――――思い出した。だから、“そう”思ったのだと。
『……!! アイン様!』
豪華な部屋に一人立っていた老執事が、少年に驚嘆の目を向けて。彼を下敷きにする者を見て、しわがれた叫び声を上げた。
其の声が“何処か”へ届いたのか、アインは小さく身じろぎする。
『……っ 案ずるな、此の程度……直ぐに、治る』
――――――誇り高い彼は、きっと一人で傷付くから。
弱々しい声で、だがはっきりと、彼は従者に指示を出した。自分をベッドに運ぶこと、“彼”を手厚く持成すこと。執事はすぐさま其れに従う。
客間にミデンを寝かせると、彼は主の許へ戻った。
血の匂いも土の匂いも無い服に少年が目を開けたのは、其れから二日過ぎた日のこと。傍らでは“自分を助けた人”が、腕を組み彼を見下ろしていた。『気分はどうだ?』と首を傾げて。
『……? あんた、あの傷……』
『心配には及ばん。もう治っている』
作り直された彫刻のように、確かに彼の肌には傷も、其の痕さえも付いてなかった。
彼の手で回復が確かめられ、その部屋と家を後にする。彼に導かれるままに。
跳ね戸の手前で振り向くと、巨大な城が聳えていた。
『……俺、馴れ馴れしく……あの、』
『気にするなら初めから名乗っている。何分此処は退屈でな。お前の気が向くなら何時でも来い。その為の名なら教えてやる』
――――――だから、“守らなければ”と。
アイン−パルティシオン・リマルーン。想像以上に小柄で華奢で、凛と気高く強かで。何よりも脆く儚そうな、
唯一無二の――――――“救い主”を。
「………何で、忘れていた――――――ッ」
+ + + +
――――――『ラミター、杖を寄越せ』
ベッドに横たわってから、一時間ほど経った頃。依然傍らに控える彼に、アインは小さな声で命じた。
不思議そうな顔をしながらも、素直に杖を差し出す従者。其れに体を預けるように、少年は床に足を付ける。
『いけませんアイン様。未だ………』
『問題は無い。未だやらねばならん事がある』
邪魔立てするなと釘を刺し、覚束ない足取りで扉へ向かう。全体重で押し開けて、こつ、と廊下を打ち鳴らした。
こつ。 こつ。
緩慢な音が少年の部屋から徐々に、遠ざかっていく。客間の一室に耳を欹て、アインは取っ手に力を込めた。
『………』
無言で添えられた別の手。『御開け致します』 歳老いた声が耳を掠める。
『……済まない』
アインは頷いて、容易い仕事を素直に任せた。
大きく開け放たれたドアから、客の眠るベッドに歩を詰める。寝息は浅いが確かに眠っている少年に、ほっと安堵の息を漏らした。
再度、額に手を翳す。
『アイン様?』
『もう一つ、預かる必要があるからな』
彼の手が白く輝いて、少年は小さな夢を見た。不思議で曖昧な夢と共に、何かが少しずつ変わっていく。
『預かっておく。今は其れだけだ。返すかどうか、何時返すかは、その時の僕が決める事だが』
遠く、遠くで聞こえる声。其れが夢の中の言葉が、目覚めた後の世界の言か、彼には判断出来なかった。
ただ至極当たり前のように、緩やかに“何か”が入れ替わる。
虚ろで朧な其の感覚に、抗う事も出来なかった。何に、抗えば良いのか。抗う必要が、あるのか。
ミデンには、何も分からなかった。
+ + + +
真昼の花火が打ち上げられる。
長いマントを靡かせて、彼は、塔の上にいた。右手を空に向けて上げると、風の魔石が手首で瞬く。
下には、人の笑い声。楽器の音色が無秩序に跳ね、群衆が踊り、歌い、喋る。
「……見えるか? 建国祭だ」
此の日、“街”は“国”に成る。
“君”があの樹の許にいるなら、其処から見上げているだろうかと。
「皮肉な………名前だよな」
“栄光の都市”Limarune。既に滅んだ筈の都は、無知によって事も無げに成り立つ。
長くは無い。其れを知った今空虚な世界。一瞬の幻想と快楽の街。様子は、随分と変わった。
定刻通りの汽笛の音が、街の空気に溶けていく。
あの汽車の着工と同じように、此の足もまた、止めておくことは出来なかった。
“騎士見習い”は、“騎士”になった。
幼少の頃切に願った、“命を賭して守りたい人”は夢でさえもう逢えない。なのに。
引き摺るほどの外套には、其れを背負って闊歩していた“君”の姿が付いて回る。
重かった。
あの細い身体で、此れを背負い歩いていた“君”は、何を思っていたのだろう。
乗せたくもない冠で、頭を押さえ付けられた“君”は。
考えても答えは出ない。
けれど、―――――だからこそ、俺は、
「忘れてやんねぇよ? 王子サマ」
嫌味ったらしく笑ってやる。一際大きく上がった“花”が、ぱらぱらと音を立てて散った。
――――――世界は君を忘れただろう。けれど、俺は忘れはしない。幻想で成り立つ此の世界に、君が居たのは現実だった。
唯一つ、其の事だけが。
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【未だ、名も付けられていない街。
世界に忘れ去られた人の、表題も無い噺の一つ――――――――】




