3... たった一つの真実さえも、白紙と云う名の嘘に戻して
――――――“此の輝かしい街の下には、其れは其れは澄んだ泉が在って、”
大樹が帯びる淡い光を己の身にも纏いながら、アインは其れに手を添えた。
――――――“其の中心には朧な光を纏う大樹が根を張っている。”
大樹の光だけが光源の、夜に鎖された深い森。泉は地より随分深い、闇色に輝いている。
此処に来るようになってから、一向に変わることない景色。けれど、彼は知っていた。
「……………」
漆黒の壁で覆った目は、輝く此の木と同じ色。瞳を閉じて、息を吐く。ふと聞こえた微かな足音に、予想などしていなかったのだろう、呆けた様な表情で体ごと振り向いた。
「ミデンか?」
「……何っで分かるかね、お前は」
苦笑と共に速度を上げて、泉の淵へ姿を見せたのは、此処に。アイン以外に立ち入れる唯一の人で。
「此処なら僕じゃなくても分かる」―――――小さな笑いを交えて返す。如何かしたかと問い掛けるように。
「あー、いや、あんさ………」
後頭部を軽く掻きながら、言葉を探すミデンを待つ。
急かすことも、ミデンに背を向ける事も無く。だが、ミデンは目を見開いた。腕を組むことも呆れたような目を向ける事もしない彼に。
胸の隅に落ちた微かな違和感。直感で覚えた其れは、異常なほどに明らかで。
「お前は……何、してたんだ?」
思考が働くより先に、言葉が口を突いて出る。「僕は……」アインの声が震えた。
「お前に関係ないだろう」
「あるさ。……俺も此の城に、アインに仕える者だ。今は」
腰から引き寄せて示したのは、家の紋章が刻まれた見習いの騎士に贈られる剣。アインなら、一瞥すれば分かるものだ。尤も其れを見せなくても、彼の立場は知っているが。
「なら尚更だ。主に対して余計な詮索はするな」
息を吐く間もなく返される、今此の時までは遠目に見ていた冷たい声音。直接聞かされた事は無かった。
反響し、何重にもなって届く会話。頑固さはお互い似通っていて、たじろぐミデンも引きはしない。
「お前の命令に愛想笑いで付いてくだけの従者になって欲しいのか?」
「…………ッ」
彼が嫌いと言っていたもの。また口にこそ出さなかったが、アインは其れを恐れていると、そうする人々に何処かで怯えているのだとミデンは何時からか気付いていた。
アインには見せたくないほどに、汚くて、卑怯な脅し。目の色を変える彼を真っ直ぐに見据えたまま、ゆっくりと膝を曲げていく。
「……い、やだ」
やめろ。張られている根の太い方へと半歩ほど後退る彼の、声とも言えない消え入りそうな呟きは、けれど確かに耳に届いた。
「何、してたんだ? アイン」
姿勢を直し、もう一度問う。杖も持たず、マントも冠も無しに、其処に立つ彼は何処にでも居る当たり前の少年に見えた。
泳がせた目を下に落して、逆にアインはミデンに聞く。
「先日、僕が言ったことを、覚えているな? 歩みを速めれば、果ても―――――――」
「街が、長くないって話か?」
そうだと肯いて、続ける。「あの家……【リマルーン】には、一つ、言い伝えがある」
「代々継がれてきたが、王は知らない。妃陛下は僕に教えた。“此の街の、此の家の下にはそれはそれは澄んだ泉がある”と」
「……其れは、」
「此処の事だ。朧に光り輝く大樹。其れは、水と風を浄化し永らく街を守ってきた」
慈しむように幹を撫でた。神聖な光は今まさに浄化している証。近頃は絶える事がなく。
知らずに広められた汚染は、泉を蝕み樹を蝕んだ。もう限界だと気付いたのは、何年前の事だったか。
「王には……取り合って貰えなかった。眼の前に見える“栄光”は、目ではなく脳を焼いたのだろう」
嘲るような笑い声を、向けた先には自分がいる。使える力は何一つ無く、王妃に守られていた自分。彼女亡き後はラミターに、幾重にも護られ育った自分。
何とも情けない話だと。
「もう、良いだろうと……お前がいなければ、心から思ったんだがな」
「………まさか、アイン」
「僕の魔力を全て使えば、応急処置にはなるだろう。後は、お前たち次第だ」
一度固められ遅れた思考が漸く全てを把握した。事も無げに言う少年の、一言一句全ての意図を。
つまり、此の少年は。街の綻びを埋めるため、“人柱”になると言っているのだ。
「莫迦言え! 認められるかそんなの!!」
「認めるか認めないかは僕が決める。何を止める必要がある? 僕は此処で王妃に拾われた。此の樹が僕の“親”ならば―――――此処に還るが定めだろう」
「……ッ」
聞いた事が無いわけではない。王妃自らも認めていたし、其れは有名な“噂”だった。
子に恵まれない妃陛下が何処からか連れて来た赤子。“精霊の子”などと呼ばれ、随分可愛がられていると。
ミデンの生まれと同じ頃から、今になっても飽きずに囁かれ続けている。
思わず足を踏み出した彼を、鋭い声が貫いた――――――「触るな!」
「触るな。お前は人だろう? 死ぬぞ」
見下ろす先は、黒に輝く深い泉。「もう毒だ」とアインは添える。
穢れた泉の輝きは、最早かつてのものと違った。
気付けなかった惨状に、滅びの萌芽に唇を噛む。
「……何も、出来なかったのか? 俺達は」
「そうだな。何もしなかった。……此れとて、一時凌ぎにもならないだろう。仮初めの“栄光”は脆い」
ではな、と樹に向き直る彼。「俺は……」絞り出した声も擦れて。けれど最後に交わす言葉に、アインも其の目を彼へと向けた。
「俺は、騎士に………お前を守るために、その為だけに志願したのに――――――」
「莫迦にするな。此のアイン−パルティシオン・リマルーン、貴様に守られて呉れるほど脆弱になった覚えは無い」
言葉は容赦なく突き放し、二の句を与えはしなかったが。言い切り刹那の間を置いた後、アインは穏やかに微笑った。
おそらく此の先は勿論、これまでの年月一度たりとも、誰にも見せた事はないだろう。一番近くにいたミデンさえ、初めて目にする柔和な笑み。
けれども彼に紡がれるのは、―――きっと今なら何を聞いても其の感想に至るだろうが―――ひどく、残酷な科白。耳を、塞ぎたくなるほどに、美し過ぎる哀歌の調べ。
「―――――世界は僕を忘れるだろう。其れで良い。お前も早々に忘れろ、ミデン。僕は始めから居なかった。此の幻想の場所と共に、お前には出逢わなかった」
嘘のような世界、嘘のような空間。嘘のような出逢いと幻のように美しいひと。
幾年紡いだ物語は、始めから終わりまで“虚構−Fiction−”だった。
“胡蝶の夢”。そう、当に其の様な。
「ミデン」
「……ん」
「お前から……預かっていた物がある。もう、おそらく平気だろう。返しておく」
差し出すアインの手の平に浮かぶ、薄緑に輝く光の珠。其れは独りでに飛ばされて、ミデンの手首に巻き付いた。
突如感じた大きな齟齬。空白の記憶の中に沈む。




