第拾壱話 おもいいし
思い石
かん、かん、すこん。
薪が爽快な音を立てて割れていく。木こりのデュクシーの日常を見させてもらっていた。
ただ見せてもらっているわけではない。僕が魅了の力を使いこなす練習として薪を固定している。デュクシーはなんでもないことのように言っていたが、これがなかなか難しい。
魅了による固定は念じればできるのだが、位置の調整が難しい。僕の場合、魅了の力は強いけれど、意識が目に集中しすぎていて、固定する対象から目を離すと、それで固定が解けてしまうのだ。
デュクシーに手本を見せてもらったのだが、デュクシーは途中で手を止めても、水を飲んでも、薪が定位置からずれることはなかった。
説明も求めたのだが「そこにちょんって置いてあるなー」と思うだけ、らしい。よくわからない。
よくわからないなりに咀嚼して、意識を集中させすぎないということだろうか、と試してみたが、上手くいかなかった。
僕の思うところを察したのか、デュクシーは「薪見てぎっとしてろ」と僕にアドバイスをくれた。そんなわけで、僕はじーっと薪を見ている。
たぶん、僕に足りていないのは呪いを感じ取る器官だ。通常、具者や呪詛破壊者の素質がある者は呪いを見ることができる。メビウスが言っていたような「色」が見えるらしい。そのことから、呪いと色についての研究がされた文献は多く存在し、容姿から呪いへの適性や耐性がどのくらいのものから大体わかってしまう。研究はつまるところ統計なので、例外は存在するが。
デュクシーの言う呪いの輪郭というのは空間識覚のようなものだろう。物の位置や距離感を緻密に捉えられる能力だ。どこに何が、どういう位置関係であるのかわかれば、見えなくとも動かすのは自在だ。その力は才能と言えるが、努力で身に着かない代物でもない。
呪いを扱う上で僕にとってネックなのは呪いが見えないことだ。人は生まれつき見えるか、呪いにかかったり、充てられたりすることで呪いが見えるようになる。僕はそのどちらにも該当しなかったから、よほどのことがない限り、呪いを見ることは不可能だ。ここにおける「よほどのこと」とは、家が全焼するよりひどいことだ。
そんなこと、そうそう起こってたまるものか。
と、それもそうなのだが、僕は赤の具者という史上最強で最悪の具者の呪いに充てられてなお、呪いが見えなかった。これは才覚なしと断言していいだろう。
それなら、他の可能性を探る方がいい。それに途方のない努力が必要だとしても、それに見合うだけの見返りがある。
オークおじいさんは僕の意思を重んじるって言ってくれた。……きっと、魂を留めるなんて、思いもしないのだろうけれど。
色々考えながら割られていく薪を見ていた。かん、かん、すこん、と小気味よく割れていく。
「薪はこれくれえ割れればいいべ。そろそろ飯食うか。小さい館主さんもどうだ?」
「いいんですか?」
「おう、おう。一人で食うよかうめえべな」
お言葉に甘えて、昼食を振る舞ってもらうことになった。
木の皿にこんもり盛られたきのこごはん。スライスされたチーズと焼いた肉が乗せられている。木の器には香り高い山菜のスープ。
「チーズと肉は巻いて食うとうめえよ。ちょこっと肉の表面炙っと、油が出ていいんだ」
「それは美味しそうですね」
火焚いてねえからなあ、とデュクシーは苦笑する。そのままでもうめえど、と言われて、チーズと肉を巻いて食べた。淡白な味の肉と独特なチーズの香りとコクが合わさって美味しい。思ったよりさっぱりとした後口だ。
デュクシーの真似をして、くいっとスープを一口飲んでみると、山菜の香りと旨味が、すっきりとした後口と溶け合い、とても心地よい。
きのこごはんもつついてみた。ちょっと固めに炊かれたごはんだが、きのことの食感のコントラストが絶妙だ。きのこの旨味を殺さない程度の塩気がたまらない。
素朴な食卓は母さんとの生活を思い出す。
母さんは浪費家だったわけでも、倹約家だったわけでもない。僕を外に出したくないのと、僕に不自由をさせないために、稼いだお金のほとんどを本を買うのに注ぎ込んでいた。
最初は簡単な絵本。読み書きの学習本。知識本。辞書、事典、とだんだん高価なものになっていった。呪いに関する本は特に稀少価値が高く、普通なら手が届かない価格だ。
そんな高価なものをどうして母さんが手に入れられたかというと、母さんが機織りマーガレットだったからだ。母さんの織った布は高値で売れる。機織りマーガレットの布も高価で稀少価値の高いもの。呪いに使われるというのは知らなかったけれど、商人が母さんに渡す額が結構なものであるのは子どもの僕でもわかった。
商人と繋がりがあるのも貴重な本を手に入れるのに有利にはたらいたらしい。商人は母さんへのごますりに熱心で、珍しいとあらば、母さんには特別価格を提示した。
そうして、僕の勉学に必要なものにお金を費やしていたから、母さんとの食卓はシンプルなものが多かった。僕はその味が大好きだったから、不満を言うことはなかったし、あれが食べたい、とねだることもなかった。
人形館に来てからは、セドナが腕によりをかけて、凝ったものや豪華なものを作ってくれるのだが、僕はきのこごはんのような素朴な味の方が好きだ。
「うめえべ?」
デュクシーが僕を窺う。
「はい」
すごく美味しいです、と素直に言葉が出てくる。
人形館では上手く出せていない「自分」というのをデュクシーの前ではすんなり出せる。居心地が良いからかもしれない。
居心地が良い、というか、母さんと二人で暮らしていたときと似た空気を感じるかもしれない。
デュクシーも母さんも、具者に好まれる素材を生み出す存在だ。もしかしたら、母さんも魅了の呪いにかかっていたのかもしれない。
「うんうん、いっぱい食べれ。子どもはいっぱい食べて、いっぱい笑って、いっぱい寝んのが仕事だおん。ここさいっときばりでも、笑って過ごせ」
デュクシーがめんこめんこ、と頭を撫でて、食器を片付けていく。ごちそうさまでした、と僕は手を合わせた。
それから、デュクシーと街へ買い物に出かけた。デュクシーの切った木材を売って、街でインクと便箋を買うのだ。交流を続けるのに、文通をしようという話になって、僕ははしゃいでしまった。
文通をするなんて、友だちみたいだ。僕にはよそにいる友だちなんていなかったから、手紙を書く機会なんてなかった。遠いどこかの風習で、母親に感謝を伝える日というのがあって、そのときに母さんに手紙を書いたきりかもしれない。
それに、街に出るなんていつぶりだろう。母さんが最後に連れ出してくれたのはもう何年も前の話だ。母さんは僕を連れているときは、布を売ってそそくさと帰ってしまっていたから、街で買い物なんて初めてだ。
メビウスからお金もいくらか持たされていた。ただ、それを居心地悪く思っているのがデュクシーにはすぐばれてしまう。
「その財布、嫌だか?」
「えっ」
僕は財布を持っていた。黒革の立派な財布だ。この財布を売ったらそこそこの値段になると思う。そういう財布。
釣り合わない。そう思って、気まずく感じていた。
不満というのとは違う。たしかに僕は人形館の館主にはなったけれど、齢が十くらいなのが変わるわけではない。そんなに急にこの財布に見合うような品格や風格を持てるわけではないのだ。
「嫌というわけではないです。でも、見るからに浮いていて落ち着かないというか、自分に似合っていないというか……」
「あはは、小さい館主さんは繊細だなあ」
「ご、ごめんなさい」
「いやいや、謝るこってねえよ。繊細なのは悪いことでねえ。細いとこまで気が届くのあ、美徳ですらある。
世の中にゃあ、年相応って言葉がありゃあんせ。あるいは身の丈に合うとも言う。その財布はたしかにご立派、高級なもんだえ。でも十も超えてねえような子どもが持つにはご立派すぎる。
よかったら、財布も探してみっか?」
僕は頷いた。僕の考えを肯定してもらえてほっとする。
いつかは、この財布に見合うような人間にならなければならない。そう求められているから。
木材の取引を終え、デュクシーと雑貨屋へ向かった。デュクシーは街の人みんなから好かれているみたいで、すれ違う人たちから気さくに声をかけられる。デュクシーはどれにも笑顔で応えていたが、僕はついでとばかりに肩を叩かれただけで、思い切りびくっと跳ねてしまって、恥ずかしいやら、情けないやら。
そうしているうちに雑貨屋に着いた。ピンクとパープルで彩られたファンシーな店である。なんとなく、女の子が好きそうだ、と思ったけれど、メイは好きだろうか。
一緒にいた時間は長かったつもりだけど、僕はメイが好きな色も知らない。たぶん、知らなくていいのだろうけれど、友だちだというなら、それくらいちゃんと聞いておくんだった。
中に入ると、可愛らしい小物がたくさん置いてあった。赤青緑、黄色にピンク。ひっそりと息を潜める白黒紺茶。品揃えはカラフルだ。花、リボン、宝石、ハート。愛らしいものがモチーフになった商品たちは棚に吊られている。店内照明をきらきらと返して輝く髪飾りは星のようだ。
便箋のコーナーには動物モチーフのものが多かった。猫や鳥、馬なんかもある。
「小さい館主さんは、どんな柄が好きですかえ?」
「改めて聞かれると、わからないですね。母さんと二人暮らしでしたけど、あまり外に出たことがなかったので、こういうものを見るのも新鮮です」
家の調度品も服も、母さんが用意してくれたものばかりだった。けれど、それらを不満に思ったことはない。どれも僕は気に入っていた。
母さんも人気の機織り職人だったから、センスがよかったのだと思う。服は無地を好む人だったけれど、テーブルクロスは透かしの格子柄だったり、縁に蔦の模様が施されていたり、とお洒落だった。
僕の好きなものは母さんが選ぶものだ。けれど、母さんはもういない。
くつ、と笑う。母さんが好きなものも、僕はよく知らないのだ。
「あ、マーガレット……」
それは母さんの名であり、母さんがよく摘んでいた花の名前だ。
便箋の片隅に佇んでいる素朴な花。絵だけれど久しぶりに見たので、口元が綻ぶ。
「花が好きなのかえ?」
「そうかもしれません。特にこの花には思い入れがあります」
「うんうん、めんこい花だおんな」
ああ、と僕は気づく。僕はこの花が好きなんだ。母さんと同じ名前だから。この花が花びらを取られて佇む姿を可哀想だなんて思ったのだ。母さんが自分を傷つけているみたいで、悲しかった。
「気に入ったなら、それにすっか?」
「いえ」
僕は小鳥の描かれた便箋を手に取る。
「手紙といえば鳥でしょう。これにします」
伝書鳩という言葉もあるし、手紙の配達方法として鷹が使われることもある。また、神からの伝令係として遣わされるのは鳥という伝承があるらしい。
「小さい館主さんは色々詳しいのう」
「たくさん本を読ませてもらっているので」
呪いに関する本が多かったけれど、母さんは学校に行かせない分を補えるように知識本も多く取り揃えていた。
呪い呪われる世界にて、力ある者もない者も、分け隔てなく信じているのが呪いというものだ。けれど呪いが台頭するより前の世界で信じられていたものがある。それが神という概念だった。呪いの根源となったまじないも神への信仰から派生したものだ。
根源を調べれば何かわかるかと期待して、神についての本を読み漁ったりもした。
結果わかったのは黒人差別という人種差別の歴史とそれに伴う宗教戦争だった。
戦争、要するに殺し合いだ。呪い呪われの今の世界とそんなに違わない。人を殺したり苦しめたりするのに使うのが兵器か呪いかの違いくらいなものだろう。神なんて言葉は言い訳でしかない。
と、話が逸れた。殺し合いをしている世の中で一番信用ならないのは人間だ。だから伝令には人間ではない動物を使ったとされる。その中で最も重用されたのが鳥だ、。
そういう歴史的な趣深さが欲しかった。
「うんうん、あっしは難しいことはわかりゃせんが、んげな考え方があるんだな。自分の考え方を持つことはいいことだべおん。小さい館主さんはえらい賢いのう」
デュクシーは褒め上手だ。思わず笑みが零れてしまう。
「あとは財布だったか」
「はい。……ん?」
なんだか、引っ張られたような感覚がした。不自然に斜めに。なんだろう、と思ってそちらを見、僕はひう、と息を飲む。
それは素朴な格子柄の布の張られた財布だった。どこにでもありそうな柄なのに、他のカラフルな財布に目移りする余地のない魅了が嫌でもその財布にはあった。どうしようもなく、僕は釘付けにされた。
およ、とデュクシーも気づいたようで、驚く。ただし声はひそめて。
「機織りマーガレットの布でねか。こんな雑貨屋で普通に並べられるようなもんでねえべだに」
そう、そうなのだ。素朴なデザインでなんでもないように佇んでいるが、それは僕の母さん、機織りマーガレットが織った布が使われている。機織りマーガレットの布はその端切れだけでも二、三日は食うに困らない生活を送れる。それが日用雑貨に紛れて売られているなんて。
「この店にゃ目利きがおらんのかもしれんな」
声をひそめたまま、デュクシーが言った。
「目利き、ですか?」
「んだ。つっても、ただの物の良し悪しを見極める目利きでねくて、呪いの有無を見定める目利きさね」
「そんな目利き仕事があるんですか」
当然といえば当然だ。呪いの跋扈する世界で、わざわざ呪いにかかりたい人間なんてそういない。
「でも、呪いの有無は母さんやデュクシーの品質には関係ないんじゃ?」
問うとデュクシーはうーん、と唸った。
「あっしは専門家でないのでたしかなこと、はわかりあせんが、あっしらみたいにわかる人にはわかると聞きますね。そういう人は呪いと特殊な関わり方をしてるんですって」
特殊中の特殊であるデュクシーが言うと説得力がある。
「呪いも、呪いの器も、人の心の有り様で生まれるんでさ。あっしもマーガレットも呪われているから、呪いに都合のいいものが生み出せたんでしょ」
呪われている。その言葉に思い出したくない光景が蘇る。足首を掴んで離さない手、潰れた青灰色、人形と呪いに怯える声、赤い炎、赤い具者、裁断されていく恋人。赤まみれの記憶。
母さんはずっと呪われていた。人形にならなかっただけで、ずっと赤い具者に呪われ続けていた。ままごとの人形のように弄ばれていたんだ。
そんな心を蝕む呪いを抱きながら、母さんは一体、どんな思いで布を織っていたのだろう。よりにもよって「呪いの人形」に使われる布を。
「……この財布、買います」
「いいんでね。これがこの値段でここにあんのは色々と危ねえべし、人形館なら安全ださ」
「それもありますけど、そうじゃなくて」
これは母さんが織った布で作られた呪われていないもの。まだ呪いに使用されていない機織りマーガレットの布なんて、具者は喉から手が出るほどに欲しがることだろう。
これは呪われていない母さん、の形見だ。
僕の手元に置いておけば、呪われる可能性はぐっと低くなる。けれどそれ以上に……母さんの布が傍にあることで、母さんが見守ってくれているような気になれるから。
家は全焼して、形見らしい形見は何も残らなかった。それが悲しかったのだ。
メイには会える可能性がある。けれど母さんにはもう会えない。家が炎に包まれる前に死んでいた。死んでしまった人にはもう会えない。だから「形見」という概念が存在する。
戦争の時代、人は大切な故人の服の一欠片でも大切にしたというのに。呪いが広まってから、人はそんな文化を忘れてしまった。そんな心の余裕はないから。
「母さんを忘れないために、持っておくんです」
告げると、デュクシーはきょとんとした後、にこっと笑った。
「そうさな。人はそうやって、人の死を受け入れでくもんだった。まだ」
そう呟いたデュクシーはなんだか寂しそうだった。
会計を済ませ、店から出ると、店の脇にあるベンチに腰掛けて、買ったものをわけあった。といっても、ほとんど僕の買い物なのだけれど。
財布の中身を新しい財布に入れ替える。白をベースに緑と青で作られた格子柄の財布。革ではなく布という時点で手馴染みがいい。
「嬉しそうだな」
「ふえ」
頭を撫でられて驚く。撫でるときにめんこめんこというのは癖なのだろうか。なんだかふにゃっとしてしまうような不思議な気持ちになる。
「明るくて朗らかな色は小さい館主さんによく似合ってる。あんさんのためにあつらえたみでえだ。きっとマーガレットはあんさんのことを思って、丹精込めて織ったんでねが?」
「母さんが、僕のために?」
そんな……
「実の子どもじゃないのに」
「おんおん」
ぱたぱた、と涙が溢れ出ていく、。声に出すつもりなんてなかったのに、口にしてしまって、自分で傷ついている。馬鹿だ。
デュクシーが僕の頭を撫でる。慈愛に満ちた仕草。けれどどうしたってデュクシーと母さんの温もりは違う。
「あっしも長く生きすぎましてね。もう家族と呼べる存在がいないどころか、家族だった人の顔すら、ひとっつも覚えてねえ。両親が揃ってたか、兄弟はいたか、何人暮らしだったかすら、もうぼやっとしてわかんねえ。不老不死だのとご大層なお名前を頂戴してますがな。記憶の劣化はあるんでさ。悲しいことでしょう? でもね、忘れるのも人の道理さ。あっしは呪いで多少おかしい人間になっていましょうとも、結局は人間さ。良くも悪くも。
長く生きんだら、楽に生きたい。でもそりゃ人生が短くてもおんなじごった」
デュクシーはぎゅっと僕の頭を押さえた。潰すのではない、優しく包むように、守るように。
「泣いていい。泣くのは罪でねえ。辛いことがたくさんあって、苦しいのに、悲鳴の一つも許されねえなんて、あっちゃいけねえ。だから小さい館主さんはたくさん泣いていい。けんども流した涙の分、幸せになってけろ。それがあっしの願いでさあ」
さめざめと僕は泣いた。もう眼球のない右目が痛むほどに。
声は出なかった。まるで最初から嗄れていたみたいに。泣いても泣いても、心に積もった雪の氷は溶けなくて苦しくなる。息が上手くできなくて、気持ち悪く……
「げほっごほっ……」
「だ、大丈夫かえ?」
デュクシーが咳き込む僕の背中をさする。その甲斐虚しく、僕の体調は悪化する一方だ。
吐き気があるのに何も吐き出せない。息苦しさと胸の重さ。喉の奥が乾いて、ひりひりする。心臓が早鐘を打つ。呼吸が荒くなる。むせる。視界が揺れる。頭がぐわぐわと音を立てて痛む。
体調不良? 前後不覚になり始めた僕は、なぜか頭の中で「違う」と思った。
そう感じた途端、思考がクリアになる。どうして頭が痛いのか、わかった。
雑貨屋の真向かいに、服飾店がある。あそこに何かある。丸いもの。青く、くすんだ色の……
「っ……!」
「館主さん?」
僕は財布を持って向かいの店へ駆け出した。驚くデュクシーを置き去りに。
「アイリス!」
そんな名前を叫んでいた。
「お客様、店内ではお静かに……お顔色が優れないようですが」
僕はなかなか整わない息を懸命に繰り返しながら、店員に問う。なるべく声量に配慮して。
「あそこにある青灰色の目を買います」
「目、ですか?」
店員のひきつった声に、ああ、わからないんだな、と気づいて言い直す。
「青灰色のビー玉です。すみません、目がよくなくて」
「いえ、青灰色のものでございますね」
店員は不審がることなく、僕の示した方向に向かった。
呪いは目で見るもの。これは世間一般に浸透した常識である。そのため、目の調子について話すと、厄介事に触らぬように、人は距離を取ってくれる。ありがたい話だ。
ほどなくして、店員が目的のものを持ってきてくれる。それはリボンの中央を留めるアクセサリーになっていた。
「お求めの商品はこちらでお間違いないでしょうか?」
問いかける店員は自信なさげだ。たぶん、呪いが見えないのと、アクセサリーがあからさまに女物だからだろう。
僕は宝石のような青灰色の石をじっと見つめる。見つめたところで呪いの見えない僕にわかることなどないけれど。
「はい、これです。ありがとうございます」
そのまま支払いを済ませ、店から出た。店の前にはなぜだか人だかりができている。
「ち、小さい館主さん、助けでけろー」
そこには人にもみくちゃにされたデュクシーが。この人だかりはもしかしてデュクシーが原因なのだろうか。
と思っていたら、体がぐいっとデュクシーの方に勝手に引き寄せられた。ほとんど転ぶような感じでデュクシーの前に出る。
「大丈夫ですかい、館主さん」
「はい……」
デュクシーに手を引かれて立ち上がる。
「これは一体……」
「あっしの魅了の呪いの暴走でさあね。しばらくなかったもんで、油断してました」
デュクシーの魅了の呪いは暴走すると無差別に人を引き寄せるらしい。引き寄せるというのは磁石みたいな効果なのだとか。
僕がデュクシーにくっつくと、他の人たちは解放されていった。デュクシーの魅了の呪いは呪いと引き合う性質なのだとか。
「とはいえ、ここまでひっつくのはただごってねえな。小さい館主さん、何か呪われたもんでも買ったかえ?」
その疑問を向けられて、僕はあっと思い至る。ついさっき買ったばかりのリボンについている留め具。あれはかつて人間の目玉だったものだ。赤い具者によって人形に変えられた赤ん坊のもの。
「ほんええ~。赤いのの呪いか。道理で」
赤いの、という呼び方にぴくりと反応してしまう。気にしすぎなのだとは思うけれど、絵本の赤いのを思い出してしまう。
「赤い具者のこと、知ってるんですか?」
「呪いに関わってっと、名前はよく聞くさね。本名は誰も知らねえげっとも」
名前は強い具者であればあるほど晒すのが危険になる。強い具者は呪う相手の名前を紡ぐだけで、呪いをかけることができる。ゆえに、自分より格上の相手に呪いをかけられないように、本名を隠す。
呪い呪われる世界にて、具者が絶対的強者というわけではない。具者とて呪われうるのだ。もしくは呪いに失敗して、報いを受ける。
自らの失態で報いを受けるのは仕方のないことだとしても、他者から呪い返しを受けるのは具者としての矜持に障るのだろう。だから本名を隠すのだ。
まあ、最強と名高い赤の具者が誰かに呪われたところで、容易く呪い返しをするのだろうが、安全策をとっておくに越したことはない。
その代わり、二つ名が存在する。二つ名のある具者は恐れられる。二つ名が抽象的であればあるほど具者として強大な力を持つとされ、それゆえに最強最悪の具者は「赤の具者」というシンプルな呼び名なのである。
「僕の母さん──機織りマーガレットの一家は、ある日突然現れた赤い具者によって、マーガレット以外の全員が呪われてしまったんです。みんなこの石のような色の目をしていて、この石はたぶん、人形にされた赤ん坊のものです」
僕が話すとデュクシーは不思議そうにした。
「元が何だったか、わかるだか?」
言われてみれば、これは奇妙なことなのかもしれない。全然気にしていなかったけれど、この石がアイリスの目だとなぜか僕は確信していた。アイリスのことは写真ですら見たことがないのに。
赤ん坊のアイリスには声すら残されていないのに、僕の全身が石を見て「これはアイリスだ」と叫ぶ。
「小さい館主さん、それは館主さんの才覚でさ」
「才覚?」
んだ、と言って、デュクシーは目を示した。
「館主さんは呪いが見えねえごとを気にしてだげっと、館主さんは呪いを感じ取ることができる。これはそんじょそこらの具者や呪詛破壊者にもできることじゃありゃあせん」
呪いを感じ取る? 誰でもできることのような気がするけれど……
「うーん、ただ気配を感じるのとは違うんでさ。どう言ったらいいか……呪いを理解することができる? これは魅了の力より、いっとう珍しい才覚でさ。呪われたものが元々はどんな姿形をしていたか、わかるんですよ? えらいごってさ」
単純に「見える」という視覚を超越した知覚。それはたしかにすごいことなのかもしれない。
が、いまいちぴんとこない。言葉での表現がぼんやりしているからだろうか。不満ということはないのだけれど。
「それに、そいつあ機織りマーガレットの家族なんでそ? 館主さんはマーガレットと関わりが深かったんだべ? なら、マーガレットに会いたくて、呼んだのかもさあね」
そうかもしれない。マーガレットは死んでしまったけれど、まだオークおじいさんがいる。幼くしてその命を絶たれた子どもがどんな形であれ、報われたっていいはずだ。
衝動的とはいえ、買ったことは間違いじゃなかった。
「あ、でも、呪われたものを持ち帰って、メビウスや人形たちに迷惑がかからないでしょうか」
僕は影響がないけれど、メビウスは一般人だし、人形たちも呪いに耐性があるわけではない。何か不調が出たら大変だ。
しかも、このアイリスの目は赤い具者が呪いをかけたものだし……と僕が思い悩んでいると、デュクシーがぽんぽんと頭を撫でてきた。
「呪われたものっても、ずいぶん古いもんだし、そもそも感染型でねえでさ。そいなに気にするごってはねえべ」
そうだった。感染型でなければ、呪いが周囲に影響を与えることはない。
「でも、さっきのデュクシーはこの呪いに影響されていたんじゃ」
「あっしは特殊中の特殊でさ」
それを言われてしまうと、何も返す言葉がない。
心配しすぎだろうか。母さんはマグとホリーの人形をずっと持っていたけど、平気だったし、僕がメイを連れ込んでも、ばれるまでは平気だった。
だから大丈夫。
──なんて保証はどこにもなかったはずなのに。
「オークおじいさん、見せたいものがあるんです」
人形館に帰るなり、僕は人形部屋に行った。一刻も早く、おじいさんとアイリスを会わせたい、その一心だった。
「おう、アルル。この雰囲気はもしかして、あ──」
ざああああああああああああああああ。
アイリスの瞳の欠片すら見ることもなく、オークおじいさんは消えた。
車椅子の上に残っているのは大量の木くず。
アイリスの目は僕の手から落ちると、ころころと車椅子の方へ転がっていき、ぱきん、と砕けた。役目を終えたみたいに。
おじいさんを、殺した。




