第肆話 まみれたせかい
塗れた世界
「セドナが『アルルさまが本をご所望で』とあちこち回っておってのう。それで儂は机の引き出しに前館主が何かしか仕舞っとったのを思い出したんじゃ」
そんなおじいさんの説明は頭の中を流れていった。僕はただ、そのタイトルに引かれるように歩み寄り、手に取った。
なんだか、見るのが怖かった。以前の終わりが怖かったのだ。茶色いのが出てきて、赤いのが犯人かもしれなくて。それがわかったのに「ともだちになってよ」と手を差し伸べた煤屋が怖くて。その続きのような気がした。──続きなど見たくない。知りたくない。
けれど、僕は手に取り、ぱらりと開いた。
『一度始まった物語は、終わらせなくてはならない』
ヨセフス先生が脳裏でそう囁いた。
俺の家はちょっとおかしかった。
俺の街はちょっとおかしかった。
だからなのか、俺自身もちょっとおかしかったかもしれない。
これはそんな俺の「ともだち」の話だ。
出だしを読み、あれ、と思う。
最初のページは短い文章だけで、挿し絵はない。そんな簡潔なものだけれど、明らかに文体が違うのはすぐわかった。
ぺらりとページをめくる。赤い寂しげな後ろ姿があった。
俺の家は、地主の次に偉い、金持ちの家だ。だからたぶん、俺は他の子よりも裕福に育っていた。
それだけなら、さして変わっているようには思えない。けれど俺には決定的なまでに、他の子どもとは違うところがあった。
俺には母親がいない。
物心ついたときにはもういなかった。ゆえに顔も知らない。知りたくとも、父も街の人々も皆、俺の母の話になると、そろって口を閉ざしてしまうのだ。そのため、俺には母のことを知る術がなかった。
ぺらりとページをめくると話は変わる。
黒髪の人間が頭を抱えて立っていて、周囲の人々がそれに石やら物やらあらゆるものを投げつけている。
黒髪の呪いという奇妙な信仰がある。信仰、といっても崇拝ではなく「黒髪の人間に対する差別」という表現が正しい。
黒髪の人というのが少ないということにこの考えは由来しているのだと思う。それゆえに、黒髪の人がいるときに災いが起きると黒髪がいるせいだとか、黒髪が呪われているからだとか言われる。
根も葉もない噂なんて、馬鹿馬鹿しい。
戦争や自然災害、果てには個人のいざこざなど、黒髪の知ったことではないだろう。地震や洪水などの天災は一個人ではどうしようもない。戦争は人災だが、これも一人二人でどうにかできるものでもないことだ。
それを誰かのせいにして責任を放り捨てるのはみっともないことこの上ない。そもそも、呪いなんて非現実的なものがこの世に存在するはずがないんだ。
俺はそう思っていた。
あの日までは。
ぴらりとまたページをめくる。炭を運ぶ少年がいた。赤髪と茶髪の子がそれを眺めている。
あの歌が書かれていた。
早く、早く。灰が散れば病が散る。病が散れば人が死ぬ。働かぬなら、人殺し。さあ、運べ運べ。
煤屋をからかう歌だ。
街にはちょうど俺と同い年くらいの黒髪の子どもがいた。この子どもは何年か前、火事で家をなくした。親をなくした。全てをなくした子どもは、何を思ったか家の残骸を山へ運んだ。何日、何十日とかけて、家のあった場所から、炭を、灰を取り払って更地にした。
それに目をつけた地主が火事跡の掃除係にそいつを任命した。
歌にあるとおり、灰は病の源とされている。そのため、火事跡の掃除は何をおいても先に片付けてしまわねばならない。ところが、普通の人々がやると、すぐ病に臥せってしまうのだ。敬遠される仕事の一つである。
けれど黒髪の子どもは違った。火事から一人生き延びたことからもわかるが、灰に強い。もしくは、元々体が丈夫にできているのだろう。
あいつはその役割を嫌がることもなく、熱心にこなしている。ゆえに黒髪でも、生かされている。
火事跡の煤にまみれていることから、「煤屋」も呼び始めた。その呼びやすさからか、からかい文句として、瞬く間に広まった。本人も嫌な顔一つせず、黙って呼ばれている。存外、気に入っているのだろう。わからないやつだ。
そんな煤屋を今日もからかい、蔑む。黒髪の呪いなんて馬鹿馬鹿しいと言っていた俺が先頭に立っているのが笑える。呼び名や歌まで作る始末だ。
だが一応、理由はある。
俺の家は地主の次に偉い。そのせいだ。
俺の父さんは人形職人だ。人形職人とは希少人種で、どんな呪いでも跳ねのける体質を持っているらしい。
そんな人形職人は呪いの盾としても役に立つが、何より作る人形までもが呪いを跳ねのけると評判なのだ。
俺の家はこの街唯一の人形職人の家系。だから偉いのだ。偉くなければならない。
権力のある者には権威を振りかざす義務がある──父さんと地主に教わった。
だから俺はそのように振る舞う必要があった。
だから俺は、今日も煤屋をからかう。
ぱらり。めくったページは、おそらく学校の教室なのだろう。その情景が、目に飛び込んでくる。黒板の前に、大人──おそらく教師と金髪の少女が立っている。
何度見ても、やはりこの子はメイに似ているな、と思う。
場面は、「黄色い子」が学校に新しく入ってきたところだった。
転校生、というのは珍しいものである。黒髪差別、なんて妙な信仰が未だに燻るような田舎ひわざわざ来ようなんてやつはそういない。
家の事情が云々という前置きを聞き流して、俺は転校生を見た。教師の面白味のない話を聞くよりも、俄然転校生の容姿が目を惹いた。
煤屋という例外はいるが、この街の者は皆、俺のような赤髪か茶髪をしている。そこだけ見れば、たった二色の味気ない街だ。教室も然り。
そこに飛び込んできた黄色という色は鮮烈だった。透き通る空色の瞳がよく似合っている。
俗っぽい言い方をすれば、それは一目惚れというやつだったのかもしれない。けれどそれはたぶん、俺だけではなかった。
男子生徒がその人物に向ける目には、少しの好奇と、多分の恋慕があったから。
……これって、そういう話だったのか、と読み進めながら思う。
これはもはや絵本などではなく、実際にあった誰かの手記なのではないかとさえ思える。
例えば、赤いのとか。
他人の手記となるとやはり話が違ってくる。手記といえば、日記のようなものだ。読むのは気が引ける。
でも、ヨセフス先生はこういうのだろうか。『始まった物語は終わらせなくては』と。──これも物語だというのだろうか。
自問しながらページをめくる。
俺はその金髪に声をかけることはなかった。
何故ならば、そいつは来て早くに煤屋と知り合ったからだ。しかも金髪は妙に煤屋に目をかけているようで、そんなやつと仲良くするのは、頓珍漢なような気がした。何せ自分は煤屋を戒めるための存在なのだから。
ただ、金髪が来たことによって、俺は煤屋に対する心象が変わった。なんてことはない。無関心だったのに興味を抱くようになったのだ。
原因は、やつの「ともだちになろう」という一言だ。
これを語るには、俺の体質を説明せねばなるまい。
体質? と僕は首を傾げる。
赤いのの体質も何も、事前に人形職人という説明があったのだから、それだけで説明はつく。
それ以上、何があるというのだろうか。
想像がつかないまま話が進んでいく。
俺はあの瞬間までこの体質のことを知らなかった。故にあの悲劇は起きたのだと思う。
学校の焼失事件。
出火原因が不明とされるこの事件の真相を俺は知っている。
当然だろう、原因は俺なのだから。
赤いのが俯いたページの向こうには、廊下を歩く赤いのと茶色いのの姿。回想なのだろうか。
俺には親しい人物がいないわけではなかった。ただ、友だちと呼ぶのを俺が躊躇っていた。
だって、あいつは俺と対等な人間じゃない。俺は人形職人の家の子で、あいつは取り立てて地位もない平民に過ぎない。俺は地主の次に偉い家の子どもなのだ。偉いのならば、偉くあらねばならない。そう教えられて育ってきたから、対等でない地位の子どもを友だちと呼ぶのは憚られた。
だからいつも一緒にはいても茶髪のやつは友だちじゃない。ただ俺に引っ付いてくるだけの取り巻きだ。
だが、あいつが俺をどう思っていたのかはわからない。……俺には聞く勇気なんてなかった。
家の権力を笠に着ている傲慢野郎、くらいには思われていても仕方ないと思う。が、面と向かって他者に言われるのはどうも抵抗がある。
だから茶色いやつとの距離感なんて、そんなものでいいのだ、と思っていた。それが一番心地よい立ち位置だと思っていた。
けれど心の奥底で俺はあいつに心を許していた。だから昼休みのあんな何気ない雑談なんかで俺の何かが簡単に瓦解してしまったのだろう。
赤いのの語りが区切られ、階段の踊り場で立ち止まった姿が描かれている。
赤いのに振り向いた茶色いのが、ちょっと恥ずかしげにはにかんでいる様子がありありと浮かんでいた。
ああ、なるほど、と僕は察する。この絵本の本質は恋慕という感情にあった。
茶髪の中に白抜きで書かれた台詞が際立った。
「ぼく、黄色い転校生のこと、好きなんだ」
茶色いのはただの雑談のつもりだったのだろう。
だが、赤いのには大きな衝撃を与えた。
それを明瞭に表すかのように次の見開き一ページは赤にまみれていた。渦巻き、うねり、燃え盛る炎の赤。まるで火が着いてしまったかのような絵の迫力──というか、色の迫力に僕は気圧された。
躊躇いながらも、僕はページをめくる。
僕が思ったことは「まるで」ではなかったらしいことがわかった。
呆然とする赤いのと茶色いの。茶色いのはまるで火が着けられたように服が燃えていた。
何が起こったのか、俺には一瞬わからなかった。
ただ、そいつが黄色い転校生が好きだ、と当たり前のように思えることを口にした瞬間、俺の頭の中で何かが弾けた。
と思ったら、これだ。現象が全く理解できない。人が燃えるなんて。直前まで火の気なんて一切なかったのだ。原因不明。この一言に尽きる。
「た、すけ、て」
声が聞こえ、俺はびくりと震えた。いつも隣で聞いている声。とても聞き慣れた声なのに、掠れて、嗄れて、不気味に聞こえた。
思わず後退る。だが、その火達磨は俺にすがってきた。
俺は訳もわからないまま逃げて、学校中に火事だと伝えた。
あいつを見捨てたのだ。
生徒や教師が校舎の外に避難した頃には火は燃え広がり、校舎を包んでいた。
悪夢のようなその光景を眺めていたら、黄色いやつが叫んでいた。
「ススヤが中に入っていったわ!」
その悲鳴に、誰一人として動かない。この街には黒髪の呪いの伝承があるのだ。呪いの根源たる黒髪のススヤの存在を街の誰もが疎んでいた。いっそ、この火事で死んでくれたら、と思う者は多くいたにちがいない。黄色いやつにそれを言ったら、ぎゃーぎゃーびーびー五月蝿そうだが。
言ったと思うが俺は黒髪の呪いなんて馬鹿馬鹿しいと思っている。俺がススヤをからかうのは俺の家が偉いから、偉ぶらなければならないからだ。
「早く、早く。灰が散れば病が散る。病が散れば人が死ぬ。働かぬなら人殺し。さあ、運べ運べ、か」
そう呟くと、俺は炎の中に飛び込んだ。止める声もあったが無視した。
奴らは馬鹿だ。虫けら並に。黄色いやつが好きだというなら、ご機嫌取りの一つでもやらなきゃ目立てない。それに──
「早く、早く」
この校舎が炭になったら、ススヤ以外、誰が運んでくれるっていうんだ。
それから、赤いのはススヤを助けて、新しい仮の校舎に通うようになってから気づいたらしい。自分の体質というやつに。
街が描かれた見開き半分。もう半分は綺麗に黒く塗り潰されており、白抜きでこう書かれていた。
この街には、原因不明の火事が多い。火事のせいで家や命を失った者は多い。
俺の家は、母がいない。父はかつては金髪だったという。今は白髪で見るかけてもないが。ちなみに目は曇り空の色だ。
赤髪茶目の俺は父に似ていない。つまり母に似ているのだろう。その母は街の中では語ることが許されない存在。
その理由なんて、呪いが台頭する世の中で、一つしかないだろう。
呪われているのだ。母も、俺も。
そしてその呪いは炎をもたらすのだ。
赤い髪はその証。
茶色いやつとの会話で感じたあの感覚が、その呪いを呼び覚ましたのだろう。
赤いのには思い当たる節がいくつもあったらしい。
じっと見つめていた店が燃えたり、なんとなくあの家が火事になりそうだな、と思ったら燃えたり。
やがて赤いのの記憶はある場所に辿り着く。
あいつは覚えていないだろうが、黒髪のあいつがススヤと呼ばれるようになる前、俺はあいつに会ったことがある。そこで初めて黒髪のやつなんか見たから、俺はその好奇心を火種にしてしまったんだ。
あいつの家はその夜に燃えた。
自分の罪に気づいた赤いのは、ススヤに後ろめたさを感じるようになり、会わなくなった、というわけだ。
ともだちになろう、なんて言われて、俺はあいつが、怖かったんだ。
けれど、呪われた者同士、手を取り合うのも一つの喜劇になると思った。
いつか、黒髪が報われるように。
いつか、赤髪が報われるように。
黒を赤で塗り潰すような、どこか不気味にも見えるページを最後に、その絵本は終わった。
物語が終わったとは、到底思えなかった。少なくとも僕は、もう一冊、僕の読んでいない「僕の可愛い黄色い人」を知っている。僕の家の僕の部屋にあったものだ。
本棚は燃えていた。あの本も灰になってしまったのだろうか。
そう、僕の家は燃えてなくなった。そのこととこの本に困惑を感じずにはいられない。
──もしかしたらこの絵本は生きて僕の前に現れるかもしれない。今、そうなっているように。その可能性を考えると、心の奥底から戦慄を覚える。
それに、赤いのの容姿が母さんやオークおじいさんを襲った具者に似ていることも気にかかった。
……と思ったところで僕は首を振る。まだ、マーガレットさんのことを母さんと呼ぶなんて、どこまで引きずるつもりなのか。
「アルルや」
オークおじいさんの声ではっと我に返った。
「大丈夫かの?」
純粋な心配の声に、僕は微笑むことができた。絵本の内容は怖かったぎ、もう夢の中にマーガレットさんは出てこないだろうというくらい強い印象を与えられた。
「はい。ありがとうございます」
気分がいいとはとてもじゃないが、言えない。残酷な物語を読ませられたのだから。
けれど、残酷だなんて、今更だ。この世界は残酷なことにまみれている。呪いなんてものが台頭して、人が簡単に死ぬような世の中だ。残酷という言葉とは無縁ではいられない。
だから自分で、前を向かなければならないのだ。