第参話 あかとしろとくろとあおと
赤と白と黒と青と
「ほう、この子が新しい館主か」
「はい。紹介いたします。この方は」
「いんや」
僕を紹介しようとしたセドナを遮り、オークさんは言った。
「セドナ、紹介はいらん。少し二人で話をさせておくれ」
「オークさんの方から言うなんて珍しい……はい、わかりました。では、部屋の外でお待ちしておりますね」
「え、ええ?」
二人でさくさく話を進め、セドナは部屋を出て行ってしまう。僕は木彫りのおじいさんと二人、取り残された。いや、正確には他にも人形がガラス張りの棚にずらりと並べられているのだが、動くものは他にいない。
「まだ戸惑うことも多かろうが、少しこの年寄りの相手をしとくれ」
木彫りのおじいさんが言い、ほれ、そこに椅子がある、と教えてくれた。
そろそろと座ると、おじいさんは口を開いた。
「お前さん、名前は?」
「ア、アルルです」
反射的に答える。まだ緊張が残っており、声がうわずってしまった。
「ほっほっ。そう固くならんでも、お前さんは儂のこと知っとるんじゃろ? 気楽に話しとくれ」
おじいさんの声は笑った。表情は動かないが、その声には優しさが滲んでいた。
「しかし、前の館主からは、新しい館主は孫だと聞いておったが、こいつは傑作だな。あやつよりマーガレットに似とるわい」
そこに出た名前に息を飲む。
マーガレット……母さんの名前だ。
「母さんを、知っているということはやはり、貴方はオークお祖父さん、なんですね」
「む、するとお前さんはマーガレットの息子なのか? ……ああ、マーガレットは幸せになれたんじゃな。ということは、おお! 儂は今、ひ孫を目の前にしとるのか」
僕の一言におじいさんが一人で盛り上がり始める。先の言から、僕の本来の生い立ちを知っているようなのに、ひ孫じゃ、ひ孫じゃ、と騒いでいる。表情は険しいもののままなのだが、声だけで喜んでいるのが充分に伝わってきた。
「年は取るもんじゃ。ひ孫を目にする日が来るとは。ほほ、ほほ、この体にしがみついとって正解だったわい」
「体にしがみつく? それって、どういうことですか」
喜んでいるところに水を射すようで悪い気がしたが、訊いてみた。するとすぐ、おじいさんの声色が真剣なものに変わる。
「アルルや。マーガレットから儂ら一家を襲った災厄のことは聞いたか?」
赤い具者のことだろう。僕は頷く。
「なれば、話は早い。具者に人形にされたとき、他の者たちは人形になった己の体から、心が離れてしまった。世で言うところの昇天じゃな。儂はそれを拒んだ。あの具者め、マーガレットを孤独にすることを楽しんでおったからの。その手には乗るまい、と思ってな」
結局、ずっと傍にいてやることはできんかったが、とおじいさんは語った。
そうだ。この人は赤い具者に連れていかれたのだ。それからどういった経緯があったかは知らないが、最終的にこの館に引き取られたのだろう。
「ところで、マーガレットは元気かの?」
その質問に僕の思考は停止した。マーガレットは元気か、なんて、家族なら当然の質問だ。
けれど、けれど! 今、一番訊かれたくないことだった。マーガレットは、母さんは、元気? いいや、母さんはもう、死んでしまった。赤い具者の呪いに、家を焼く炎に呑み込まれて、死んでしまったんだ。母さんは、母さんは!
その上。
僕はその先を考えたくなくて、頭を抱えて蹲る。
そんな僕をじっと見つめて、おじいさんはやがて、そうか、と呟いた。
「言わんでもいいさ。もう充分じゃ」
からからと車椅子の音が近づいてくる。木彫りのごつごつした手が、僕の背をさする。
固いのに、優しい手つきだからか、安心してしまった。
安心したら、心の中で何かがほどけて、それは掠れた声となって零れた。それは次第に大きくなっていき、やがて嗚咽となって、人形部屋の空気を震わせた。
「アルル、アルル。辛い思いをしたんじゃな」
そう言って僕の背をさする手は、ごつごつしていてぎこちないのに──とても人の手には思えないのに、とても母さんの手に似ている気がして。ぼろぼろと心に溜まっていた何かが溢れ続けた。
僕がひとしきり泣いて、落ち着いたところで、控えめなノックの音が聞こえた。「アルルさま、よろしいですか?」と声をかけてきたのはセドナだ。そこでようやく、彼女をずっと部屋の外で待たせていたことに気づいた。
ふと顔を上げれば、この部屋の上の方にある小窓から射す光は、星空のものになっていた。ずいぶんと長い間、泣いてしまったようだ。
「うん、何かな?」
少し申し訳なく思いながら応じると、彼女は扉の向こうから、淡々と告げた。
「そろそろ夕食の時間ですので、お呼びに参りました。アルルさまさえよろしければ、もう席は整っております。いかがいたしましょう?」
その気遣いが胸にじわりと染みる。
「うん。今、行くよ」
「かしこまりました」
セドナの声に少し喜びの色が混じっているのを感じた。相手は人形のはずなのに、とても人間味の溢れる声に、僕は少しほどけた心で、安堵を抱いていた。
それから、オークおじいさんに振り向く。相変わらず眉根に深く皺の刻まれた気難しそうな表情のままだったが、雰囲気はずいぶんと和らいでいた。それがどことなく、母さんに似ている気がした。
目の部分に埋め込まれた青くくすんだ水晶のような瞳が、温かい光を宿して僕を見据える。
「まあ、また来るといい。お前さんに、いくつか昔話を聞かせてやろう。その中に巣食う傷にはちと、染みるかもしれんがの」
その言葉を聞き届け、僕はオークさんの元を後にした。
好き、嫌い、好き、嫌い、好き……
聞きなじみのある声が、遠くから聞こえてくる。これはそう、この優しい声はそう、僕の知っているあの人の声だ。
耳を澄ますのに閉じていた目を開ける。するとさわりと静かな風がそよぎ、僕の前髪を軽く揺らす。久しぶりに両目で捉えた視界。そこに広がっていたのは白い花畑だった。
その花を一つ摘み取って眺める。白いその花の名前を僕は知っている。マーガレット。そう、マーガレット。あの人と同じ名前の花だ。家のテーブルの花瓶にいつも注してあった。
「好き、嫌い……」
聞き慣れた女の人の声が、今度ははっきりと聞こえる。そちらに目を向けると、白い花畑の真ん中に、長い黒髪の女性が一人。
「貴女、は……」
声をかけると、ゆるく波打つ黒髪が揺れて、その人が僕を見る。とても血色がいいとは言えない白い顔の中に、懐かしい青灰色の瞳があった。その人は手にしていた花の存在を忘れたようにぽとりとその花を落とし、立ち上がる。それからしっかりとした足取りで僕に向かって駆け寄ってきた。その唇が、確かにこう紡ぐ。
「アルル、アルルなの?」
近づいてくるにつれ、違和感に気づく。白いワンピースを纏ったその人は、僕の知っている人より、頭一つ分くらい、小さいような気がした。僕とほとんど背丈の変わらない、少女ともとれるくらいの人。
けれど、僕は。
「かあ、さん」
似すぎているその面影に、そう呼ばずにはいられなかった。
「アルル!」
抱きついてくるその人は、やはり僕の知っている母さんより、一回りも二回りも小柄だった。けれどこの声は間違いない。耳朶を打つこの柔らかい声は間違えようがない。
「母さん、母さん、母さん!」
骨に少し肉がついただけのような、がりがりの痩せ細った体。それでも触れる手は柔らかくて温かくて。
でも。
そこで不安にも似た悪寒に襲われる。でも、この人は、僕の本当のお母さんじゃない。僕のお母さんは本当は人形職人で、この人は一般人。惜しみなく愛情を注いでくれるこの人は、母さんじゃない。母さんじゃない。
そう思うと、だんだん苦しくなってきた。抱きしめてくる手がきついわけじゃない。あのときのように、この人に殺意なんて一欠片もない。けれど息苦しい。この人は、母さんじゃないから。そんな現実が、目の前にあるから。
「……っ、さん……!」
僕はこの人をどう呼んだらいいのだろう? ──そんな迷いが喉を詰まらせる。この人は、母さんじゃない。それなら──
「マーガレット、さんっ!」
思いの外、他人行儀に響いた。一面花畑の白い空間に、その声がやたらと谺する。
ふと、熱が体を包み込むのに気づく。皮膚が爛れていくような痛み。それが僕の手を、胸を、首を、舐めるように上ってくる。
よく見れば、真っ白な花に包まれていた周囲が、一瞬にして赤い海へと変わっていた。めらめらと燃え盛る火の海に。
僕を抱きしめていたその人も、焔に呑み込まれていく。炎の人形が、僕を離そうとしない。その手があるときのように、僕を掴んで放さない。
「アルル──」
あのときと違うのは声。しわがれた、怨嗟を含んだ声にはならず、そのままの声で僕の名を呼ぶ。顔はもう火だるまで、目すら捉えられないというのに、その人は僕の姿を求めていた。
「アルル、どうか幸せに」
透明な声は赤い苦しみに喘ぐことなく続ける。
「アルル、そして──」
ぼろぼろと、灰に散りゆく体で、その人ははっきり祈りを捧げた。
「さようなら」
その言葉とともに、最後の灰が崩れ去る──
「いやだあっ!」
叫び、目を覚ます。ベッド脇の大きすぎる窓から射す光は、まだ星明かりのものだ。カーテンの隙間から、小さな月が見える。
「アルルさま? 失礼します。どうかなさいましたか?」
僕の叫びを聞きつけてきたのであろうセドナが、扉を開けてこちらにとたたた、と駆け込んでくる。
視界の中に黄色い髪が割り込む。緑のはずの彼女の瞳は黄色の幻が重なって、空の色に見えた。けれど、その青は不完全で。薄明かるい夜のくすんだ青に見えた。
色々な幻惑が目の前の少女に重なる。金髪、青い目、メイ、青灰の、母さん、マーガレット、いや、違うこの子は……
僕はただただ混乱した。
「きみは、だれ?」
震えた声で僕がようやく発することができたのは、そんな言葉だった。
拒絶ともとれるその言葉に、セドナの表情がすぅっと凍った気がした。だがそれは一瞬で、すぐにいつもの表情で淡々と答える。
「あたくしはセドナです、アルルさま。あたくしはアルルさまにお仕えするヒトカタですよ」
「あ……」
その言葉がじんわりと頭に沁み込んできた。
そう、この子はセドナ。人間でなければ母でもない。人形であるけれど、メイではない。
母さん、メイ。僕の求める二人は今、僕の傍にいない。
母さんには完全な別れを告げられた。
夢の中だったはずの焼けるような痛みは、まだじくじくと体中を蝕んでいる。
「ごめん、セドナ。ごめん」
耐えられず、ベッドから降りた。ひやりと冷たい床の温度に、痛みが少しだけ和らぐ。
ゆらりと立ち上がり、彼女の横を通りすぎながら告げた。
「ちょっと夜風に当たってくる」
「アルルさま?」
セドナが慌てたように僕の名を呼んだ気がしたが、僕は振り返ることなく、ぱたんと扉を閉めた。
夜の館内は予想以上に薄暗い。壁に沿って歩き、階段を降りた。
一階に行くと、二階よりいくらか明かりが多く、すぐ玄関に着くことができた。
扉に手をかける。
からからから。
「……え?」
予想外に近くでそんな音がした。車輪が回る音。
からからから。
夜の中で一人響く音が寂しげに聞こえた。まるで、僕を呼ぶかのように。
オークおじいさんが呼んでいる。その音に引かれるように、僕の足は人形部屋の方へ向いた。
扉を開ける。きしりと軋んだ。
「おお、アルルか」
オークおじいさんが僕を見た。夜空を映したようなくすんだ青が、夢で会った人のそれと重なる。思わず目を逸らした。
「眠れんのか?」
そうかもしれない。もう一度目を閉じて、眠りに就いて。もう一度あの夢を見るのが怖かった。
母さんに、会いたくないから。
気づいたら、その感情が後ろ暗いもののような気がして、僕は答えなかった。
するとおじいさんはそれ以上何も訊かず、そうじゃ、と切り出した。
「セドナから聞いたのじゃが、本を探しておるそうじゃな?」
「ああ、はい」
思わぬ話題の転換に僕はきょとんと、狐につままれたようになる。
おじいさんはからからと車椅子を動かし、とんとん、と机を示す。示された机に目をやり、僕は絶句した。
本があった。その表紙には見慣れた白い花──マーガレット。
いや、それよりも目を引いたのは。
『僕の可愛い黄色い人』
その絵本のタイトルだった。