第弐話 くるまいすのおと
車椅子の音
人形館は二階建ての洋館だ。本で読んだ、貴族と呼ばれていた人たちの屋敷みたいにだだっ広い。
蛇足だが、「呪い」というものが世界中に蔓延してからは「貴族」と呼ばれる存在はいなくなったらしい。「呪い」という力により、これまで各地を統治してきた「権力」という力がほとんど意味を成さなくなったからだ。
権力を威にかざしていた貴族も今やただの金持ち。堅実なものたちは財産で細々と生き延びているのだろう。
そういった格差が目立たなくなった、という観点からすると、呪いは決して悪ばかり撒き散らしたのではないとわかる。
それはさておき、人形館の話に戻ろう。この館は、あまりにも広すぎる。前述したとおり、貴族の家と言われても遜色ないほどに。
ここを建てた僕の祖父だという人は、元は貴族だったのだろうか。そんな考えがよぎるくらい、広くて立派だ。
もし仮に、その人が貴族だったとしたら、どうして僕はあの母さんに育てられていたのだろう? 最初は捨てられたのかと思ったが、これほどの館を建てられる財力があれば、お金に困ることなんてなかったはずだ。それに、メビウスさんが僕の居場所を見つけられたことも不思議だ。それを踏まえると、僕は意図的にあの母さんの元へ送られた、ということになるのだろうか。だとしたら、母さんは全て知っていて、「母さん」を演じていた?
ちがう! 絶対にそんなことはない。僕が物心ついてから十年近く、一緒にいた人なんだ。不自然なところなんて何一つなかった。僕は母さんを母さんと認識していたし、母さんだって僕を自分の子として、大切に、大切にしてくれていたじゃないか。
学校に行かせない分、色々なことを教えてくれたり、本を買ってくれたりした。呪いから遠ざかるためのありとあらゆる儀式を教えてくれた。触れ合う時間こそ改まってはなかったけれど、いつも温かいごはんを作ってくれた。メイと出会ったあの日、びしょ濡れになっていた僕を心配して、すぐにお風呂を沸かしてくれた。
それら全てが嘘だったなんて、到底考えられない。嘘ならどこかで綻びてしまうはずだもの。
ああ、そうだ。母さんが全てを知っていたとは限らないんだ。それにまだ、この館を建てた人が、本当に僕の祖父かどうかなんて証拠はどこにもない。
僕が人形職人だという証拠は──
『では、アルル様はなぜ、生きておられるのです。この火事跡、感覚的に恐ろしく強大な呪いの気配が残っています。一度呪いにかかって鋭敏になっているとはいえ、私のような一般人に見抜けるほどの痕跡です。相当強い呪いがこの家にかけられていたと見て、間違いないでしょう。そのような渦中にいたはずなのに、あなたは生き延びました。こうして今、生きているのです。それはなぜですか?』
なぜ生きているのか──そう問いかけてきたメビウスさんの言葉が鮮明に蘇る。それに連なるようにして思い起こされる数々の心当たり。
あのとき、反論も否定もできなかった僕。……今も、言葉は見つからない。
だから僕は、広すぎて得体の知れないこの館の中を彷徨うしかなかった。あの母さんこそ僕の母さんだ、と断定することも、母さんは偽者だったと否定することもできない。どっちつかずな僕は、ここにいていいのか、と自分の居場所を定められずにいる。
母さんという存在を、「自分」から切り離したくないから。
どうすれば、いいの?
答えを求めて一階を彷徨う。案内の途中でセドナは「昼食の用意をしなくては」と厨房に行ってしまい、今は一人だ。
二階にあるさっきの寝室に戻って休むという手もあるけれど、今更眠る気にもなれなかった。かといって、以前家にいたときのように本を読んで過ごすというわけにもいかない。案内されたどの部屋にも、本は見当たらなかった。けれどもこの広い館の中、他の部屋を探索する気にもなれず、完全に手持ち無沙汰だ。
そういえば、メビウスさんは別邸にいる、と言っていた。別邸とは本当に貴族みたいだが、それよりもまず、メビウスさんがそこにいる、ということに疑問を感じる。
メビウスさんはこの館の前館主に仕えていた、と聞いている。仕えていたのならなぜ、この本館ではなく、別邸で暮らしているのだろうか。少なくとも、セドナを紹介されて以来、メビウスさんの姿を館内では見ていない。
そこにどんな理由があるにせよ、メビウスさんは人形館について詳しいはずだ。本のあるところくらいは知っているだろう。
本ばかり読んで過ごしてきたからか、何かを読んでいないと落ち着かない。ただでさえ頭の整理ができない状況なのだ。一度落ち着きたい。
そう思い、僕は別邸へ向かった。別邸は少し離れていて、山を下ったところにある。歩いて十分くらいだろうか。
別邸は本館の半分ほどの大きさだが、それでも街の家に比べたら充分に大きい。玄関にはドアノッカーがついている。
僕がノッカーを三回鳴らすと、すぐにメビウスさんが出てきた。
「どうなさいました? アルル様」
中に入り、メビウスさんの書斎に案内された。勧められたソファに腰掛け、辺りを見回す。書斎、と言われたが、私室のような印象を受ける。ソファは僕が座っている一人掛け用のものが向かい合ってもう一つ。その間に小さなテーブル。向こう側には電話の置かれた仕事机があって、隅にはクローゼット、窓際にはシーツのかかった長椅子がある。長椅子はおそらくベッドのつもりなのだろう。
広い別荘なのに、この一部屋で生活しているのだろうか、この人は。
それはさておき、だ。居ずまいをなんとなく正し、当初の目的を告げる。
「あの、人形館に本はありませんか? 何の本でもいいのですが」
僕の問いを聞き、メビウスさんがきょとんとした顔になる。それからしばらく僕を見つめ、やがて片眼鏡の奥の目を細めて、くすりと笑った。
「アルル様、あなたがそんなに私に畏まらないでください。あなたは私の主なのですから」
その言葉にずきん、と胸の奥が痛む。
それを知ってか知らずか、メビウスさんはすぐに話題を戻す。
「本、本ですか」
「えっと、何か?」
片手を顎に当て、眉をひそめるメビウスさん。僕の要求に、何か問題があっただろうか。
「いえ、前館主は本を全く読まない方でして。というよりもまず、文字を読むこともできない方でしたので、書物の類は一切ないのでございます」
「え?」
「それに、恥ずかしながら私自身も読み書きは不得手でして。置いている書物といえば、辞書くらいしかないのです。申し訳ございません」
「あ、いえ」
予想だにしない回答に、僕はどうにか応対しつつも、混乱していた。
前館主は字が読めなかった? それにメビウスさんも不得手って。それではどうやって過ごしていたというのだろう。
僕は当初の目的である本がないことよりもそちらの方に気を取られ、言葉を失っていた。
疑問だらけでぐちゃぐちゃの頭を悩ませていると、ジリリリリ、とけたたましい音が鳴り響く。仕事机の電話の音だ。
メビウスさんは慣れているのか、顔色一つ変えずに受話器を取る。
「はい。人形館別邸です」
メビウスさんは抑揚のない声で応じた。片眼鏡から垂れた銀鎖がしゃらんと揺れる。
「ああ、セドナですか。はい、アルル様はこちらにおいでです。……なるほど、わかりました。では私がそちらへお連れいたします」
どうやら電話の相手はセドナらしい。僕本人の意思とは無関係に、僕は本館へ戻ることになったようだが、今は気にしない。
「はい? 私ですか。そうですね、たまにはそちらでいただきましょう。はい。では後程。失礼いたします」
そこでメビウスさんは受話器を置き、僕に向き直った。
「お話の途中で失礼いたしました。本館のセドナからです。昼食の用意ができたのですが、アルル様がいないと心配しておりました。一旦、本館へ戻りましょう」
「あ、はい」
もうそんな時間か、と思いながら僕は答えた。
「お待ちしておりました、アルルさま、メビウスさま」
玄関でセドナが出迎えてくれた。
「ごめん、勝手に出てって」
まず、心配をかけたようだからと思い、謝る。するとセドナはいえ、と笑顔で流してくれた。
「さ、食事が冷めてしまいます。こちらへどうぞ」
セドナに案内され、広い廊下を突っ切っていく。メビウスさんも無言で僕の後ろからついてきていた。
たしか、食事は厨房の隣の広間で摂るのだと説明されたっけ、と思い返す。厨房は玄関から見て左奥の方にあり、結構遠かった気がする。広い館だからそう感じるだけかもしれないが、廊下がやたら長く感じた。その上、誰も喋らないから、空気も重いように思う。
何か話題を、と思うものの、それが見つけられず、思わず溜息を吐きそうになったとき、何か音が聞こえた。
からから、と。車輪が回る音だろうか。ずいぶん近くこら音がする。
からから。
その音が気になって立ち止まる。からから。また音がした。右側の部屋からだろうか。
「どうなさいました?」
メビウスさんが部屋の方に向いた僕の傍らで訊ねてきた。
「あの、この部屋から、音が」
「音? でございますか」
セドナも反応して戻ってきたところで、また音がした。からから、と。
「この音です」
「ああ、これはですね」
セドナが思い当たったらしく、頷いて語った。
「きっと、オークさんの車椅子ですよ。後程、改めて紹介いたしますね」
オーク? 車椅子?
セドナの放った単語が何か引っかかる。けれどこの場でそれ以上追及することはできず、セドナに促され、広間へと向かった。
広間は名の示すとおり広いのだが、二つほどの大きなカーテンで仕切られており、今は手前の部分しか見えない。それでもこの館の僕の寝室分くらいはあり、かなり広いのだが。
そこに、向かい合ってそれぞれ五人ずつくらいは余裕を持って座れそうなほどの大きなテーブルがあった。その上に二人分の食事が並べられている。いや、二人分、というには量が多い気がする。二人分、皿に分けられているものの他に大皿がいくつかあるし。
「アルルさまにとっては久々のお食事ということですので、あたくし、腕によりをかけて作りました。どうぞお召し上がりください」
にっこり言うセドナに、悪意はない。
言われてみると、たしかに、ずっとまともな食事を摂っていなかったかもしれない。右目をなくしたあの日から、食事はほとんど喉を通らず、診療所ではずっと点滴を受けていたし、ここに来てからも、スープくらいしか口にしていなかった。
合計で二十日近いのだけれど、それにしたっていきなりこんなに食べられるだろうか。メビウスさんもいるとはいえ。
ともかく、セドナがせっかく作ってくれたのだ。とりあえず、食べてみよう。
「いただきます」
席に着いて、まずはスープをスプーンですくい、一口飲む。──温かい。
その温かさが身に染みた。なんてことない野菜スープなのかもしれないけれど、温かいことが、なんだかとても嬉しかった。
「美味しい……美味しいよ」
他のものも食べてみる。どれも美味しかった。温もりが伝わってきた。
「お口に合ってよかったです」
セドナが満面の笑みで答える。
向かいに座るメビウスさんは、黙々と食べ進めていた。
「ところでセドナ。さっき廊下で言っていた人って?」
ふと思い出し、訊ねてみる。
「オークさんのことですか?」
「うん。車椅子に乗ってるって?」
それが引っかかっていた。奇妙な既視感を覚えるのだ。
セドナは説明してくれた。
「人形のお爺さんなんです。この館の中ではかなりの古株ではないでしょうか。ねえ、メビウスさま」
確認を求められ、メビウスさんは静かに頷く。
「私が前館主様に引き取られてから十年ほど経ちますが、それより以前から、この館にいらっしゃいました。収集した人形たちの中でも特に気に入っている、と仰っていましたね」
「よく前館主様の話し相手になっておりました。見た目は頑固そうな方ですが、とても優しいんですよ」
セドナがメビウスさんの説明を補足する。更に既視感が増していく。なんなのだろう、この引っかかりは。
なんだか煮え切らない僕をよそに、二人は会話を進めていく。
「セドナ、まだアルル様を人形部屋に案内していなかったのですか?」
「はい。アルルさまのお部屋は二階でしたので、二階の方から説明しておりました。そのうち、昼食の仕度をしなくてはならない時間になって、一階のご案内はまだ途中でございます」
「そうですか。人形部屋はこの館にとって最も重要な場所です。食後、すぐにご案内してください」
「承知いたしました」
二人の会話を聞きながら、僕は人形部屋、という場所に思いを馳せた。からからと音のしたあの部屋。オークという名前の人形のお爺さん……
引っかかりの正体にもやもやしながら食べ進めていると、先にメビウスさんが食べ終え、立ち上がった。別邸で仕事があるので、と残し、そそくさと去ってしまう。
何か素っ気ないな、と疑問に思いながら、僕は食べ続けた。
結局、出された全ては食べきれず、申し訳なく思いながらも僕は食事を終えた。
食後のミルクティーを飲んで、一息吐くと、早速例の部屋に案内される。
「人形部屋は、名前のとおり、人形たちの部屋です。あたくしなどの雑事をこなす者は例外的に別室を与えられていますが、前館主様が集めた人形のほとんどは、人形部屋に納められております」
要するに収集部屋ということか。
「あたくしや、オークさんのように呪いにかかった人形もたくさんいます。呪いの中には感染型のものもございますので、メビウスさまなどがいらした際に影響の出ないよう、特殊な術が施されている部屋なのです」
セドナから説明を受けるうち、部屋の前に着いた。
入る前に、説明の中で引っかかりを覚えたことを確認しておく。
「感染型の人形もいるの?」
呪いを大きく分けると、固有型と感染型という二つに分けられる。固有型は一つの対象に留められる呪いだが、感染型は、最初に呪いをかけられたものに近づくと、同じ呪いが移るという傍迷惑な代物だ。
その感染型の呪いを受けたものがいるとなると、入るのが躊躇われる。
「素人目には判断するのが難しいですが、一人だけ確実に感染型である方はいます。その方は部屋と同じ術のかかった箱に納められております。万が一のことがあってもいいように、と前館主様が親睦の深い方の手を借りて行った処置です。感染型であれば、他の人形にも移りますから、他は大丈夫かと」
セドナの丁寧な説明にほっとしたところで、ですが、と彼女は続けた。
「ですが、アルルさまなら心配はないでしょう。人形職人なのですから」
その言葉がちくりと胸を刺す。微笑むセドナに悪意がないのはわかっているけれど、僕が人形職人であるということをこうもはっきり示されると、目をそむけたい現実が否応なしに身を苛む。
感染型でなくとも、強力な呪いであれば周囲に多大な影響を与えることもある。それは本にも書いてあったことだし、何より全焼したあの家を見れば、明らかなことである。
『なぜ、あなたは生きておられるのですか?』
人形職人である、という以外に答えはない。
母さん……
「アルルさま、開けますよ」
暗雲のたちこめる僕をよそに、セドナが人形部屋の扉を開ける。
からから、と音がした。
「あ、アルルさま、この方がオークおじいさんですよ」
セドナが扉の先を示して放った言葉にはっとする。
わかったのだ。これまで「オーク」という人形に抱いていた既視感の正体が。
そう、僕はこの人を知っている。
「む? 何やら懐かしい匂いがするのう」
言いながら車椅子を操り、僕が見たのは木彫りの老人の人形だ。等身大のその人形は、気難しそうに眉根を寄せていて、見覚えのあるくすんだ青い瞳で、こちらを見上げていた。
「オーク、お祖父さん……」
僕は、その人形の名を呼んだ。