第壱話 めざめるとそこは
第壱章 オーク
目覚めるとそこは
「アルル、朝ごはんできたわよ……と、あら。机に伏せて寝るなんて、体に悪いわ」
「あ、母さんおはよう」
「おはよう、アルル」
僕の部屋に、快活な声で母さんが入ってきた。窓から射し込んだ朝日が、母さんの青灰色の瞳を綺麗に透かす。
「ちゃんと布団を被って寝ないと、風邪を引くのよ。ベッドがあるんだから、そっちで寝なさい。勉強熱心なのはいいことだけれど」
母さんが柔らかい声で言う。
なんだ。普通の幸せな日常じゃないか。母さんが笑っている。ここにいる。家が全部燃えたとか、母さんが無惨に死んだとか、あれはやっぱり夢だったんだ。
よかった、夢で──そうにこにこ笑っていると、母さんが不思議そうな目をした。
「どうしたの? アルル」
「ううん。ちょっと夢見が悪かっただけ。やっぱり幸せだなって思って」
母さんがいるって。
そう言うと、母さんは少し照れくさそうにしながら、「ベッドで寝ないから、夢見が悪くなるのよ」と小言をこぼした。
「さ、朝ごはんが冷めちゃうわ。顔を洗って早くいらっしゃい。……て、あ」
直後、母さんがくすくす笑い出す。
「え? どうかした?」
「アルル、頬っぺたに本の痕がついているわ」
「わ、えぇっ」
母さんがお腹を抱えて笑うものだから、僕は恥ずかしくなって頬をさする。たしかに、左側の頬がちょっとでこぼこしていた。
僕が気づき、慌てて頬を隠すと、母さんは更に笑う。
「か、母さん、あんまり笑わないでよ」
そう言っても、まだ笑っている。
そこでふと、違和感を覚えた。僕の母さんって、こんなに笑う人だったっけ? と。その思いは、微かに不安をはらんでいた。
いや、何を考えているんだ、僕は。母さんが幸せそうに笑っているなら、それでいいじゃないか。今まで、何よりもいちばんに考えてきたそれが叶っている。それのどこに不安を抱く必要があるだろうか。
──違う。何かが違う。
心の奥で、そんな警鐘が鳴り止まない。なぜ? どうして? その疑問に囚われて、次第に胸が苦しくなってくる。
そこで顔を上げ、母さんと目が合い、はっとした。
気づいてしまった。
そこにある目が、綺麗すぎることに。だって不自然だ。僕が知っている「昨日までの母さん」は、くすんだ青い目をしているのは同じだけれど、目の周りは、こんなに綺麗じゃなかった。濃すぎる隈に縁取られ、いつも疲れきっているように見えた。とても一日やそこらで消えるようなものじゃない。
じゃあ、この人は誰?
母さん、だよね。
くすんだ青い瞳、長く波打つ黒髪。細くしなやかな白い指はいつも布を織っていて、声は明るい。頬はふっくらとしていて、健康的な印象の、女の人。
「貴女は、僕の母さん、じゃない……?」
掠れた声で僕が呟くと、笑う母さんがその姿のままで静止し、目の前が絵のように色褪せて、遠のいていく。
そんな、そんな、そんなっ!
絵はセピアに褪せ、暗闇の中に溶けて、消えた。
認めたくない、認められない現実が、闇となって押し寄せてくる。闇の中で誰かが言った。「全て幻だ」と。僕をどこか嘲るような声で。けれど僕は、その声を懐かしく感じた。僕は知っている。この人を知っているんだ。
判然としない頭で考えていると、目の前にぽつん、と光が浮かび上がった。
その中に、知っている人形がいた。
金糸の髪に緑のドレス。光を返さない空色の瞳。
「メイ!」
思わずその名を叫んだ。けれど人形は答えない。
ただ、僕の前から遠ざかっていく。手を伸ばしても、届かない。追いかけても、触れられないほどに距離が開いていく。
メイ、ああ、行かないで。
「待って!」
がばりと起き上がる。
目の前に広がるのは、いやに広い部屋。大きなベッドとクローゼットがあるだけのあまりに殺風景な部屋だ。ベッド脇の大きな窓からカーテンの隙間をくぐって朝日が射す。辺りを漂う空気は冷たい。
「ここは」
「あ、アルルさま、お目覚めになられたんですね」
入口の方から、少し甲高い気のする女の子の声がした。そちらに目をやると、給仕服姿の金髪の女の子がいた。遠目にはわからないけれど、石膏の白い肌を持つ、目を緑色で塗られた女の子。
そこまで思い出して、ああ、と納得する。
「僕は『人形館』にいるんだっけ」
「……アルルさま、まだここに慣れていらっしゃらないのですね。あたくしの名前もまだ、覚えていません、よね」
「いや、ちゃんと覚えてるよ。セドナ」
寂しげに語尾をすぼめるその子に、僕はできるかぎり優しく答えた。すると、その子はきらきらと目を輝かせて、僕の方に駆け寄ってくる。それから僕の手を取り、「ありがとうございますっ」と、涙交じりで繰り返した。
大げさな気のする反応に、僕は戸惑いを隠して笑みを浮かべて思う。──ここは、人形館なのだ、と。
そう、人形館。
僕の祖父が作ったという、人形のための館。呪いの人形とて、例外にはならない。異様な屋敷。
僕がここに連れて来られて、もう三日が経つ。受け入れられない現実の一つを突きつけてきたこの館になんて、いたくなかった。けれど、他に行く宛もないので、僕はここにいるしかない。
母さんは死んでしまった。
家は全焼して、もうない。
文字で記すとあまりにも淡白なこの言葉の羅列が、変えようのない僕の現実だった。
身寄りはもうない、はずだった。ところが僕の知らないところに身寄りは残っていて、今はもうその人は亡いが、この館を僕に遺していった。
母さんが本当の母さんじゃないという事実を残して。
その事実を、受け入れられずにいる。人形館というこの場所を受け入れることが、僕にはできない。
その上、ここには呪いにかかった人形が多くいる。今目の前にいるセドナのように、話したり、動いたり……人のように行動できる人形が、たくさん。
メイのような人形が。
メイのことを思うと、胸が痛くなる。あの火事で燃えてしまったとはかぎらない、とメビウスさんは言った。人形館には探す手立てがあるから、と僕をここに連れてきた。
けれど、この場所はあまりに残酷だ。こんなにも、生きている人形がいる場所なんて、僕には耐えられない。
セドナのように、メイ以上に人間らしい人形がいるのだ。セドナは殊更、人間のように振る舞う。材質のためか、瞳も普通の人間と遜色ない輝きを放つ。メイよりも表情変化が富んで見える。
だから、辛い。
人間のように感じたらきっと、感情移入してしまう。メイを失ったと思ったときのように、僕は空っぽで、寒くて寒くて仕方のない気持ちに囚われてしまうかもしれない。
それくらい、人間と人形を区別できなくなってしまう僕は、やはり異常なのだろうか。
母さん、呪いの人形を恐ろしいと言った貴女の気持ち、少しわかるかもしれません。
僕はこんな自分が怖いよ。
それでもメイを諦めることはできない。メイは僕にとって初めての友だち。母さんと同じくらいかけがえのない存在なんだ。
ごちゃごちゃと、頭は母さんとメイのことばかり考える。他にどうしたらいいのか、わからない。たしかに、ここにいれば衣食住に不自由はない。セドナも、三日間、半ば上の空な状態の僕に、ずっと世話を焼いてくれているいい子だ。
でも、どうすればいい? わからない。いきなりこんな大きな屋敷に連れて来られて、館主になれと言われて。他にも様々な現実をいっぺんに見せつけられて、どれも全部受け入れるしかない。こんな中で僕は一体、何をどうすればいいんだよ……?
「……ルさま、アルルさま」
少女の声にはっと顔を上げる。するとそこには心配そうに覗き込む、緑の瞳。垂れかかっている金糸の髪を耳元で押さえ、こちらを見つめている。
「アルルさま」
「セドナ」
僕が名を呼ぶと、セドナはほっと胸を撫で下ろす。
「驚きました。黙り込んでしまって、目も虚ろなようでしたから、夢現なのかと。お加減がよろしくないようでしたら、もう少しお休みくださいませ」
「ああ、大丈夫だよ。心配ないから」
口ではそう言いつつも、この人形の宝石みたいに光る瞳に感情があるように思うことへの不安を拭えずにいた。
そうとは知らないであろうセドナは、では、と目を輝かせ、僕の手を取る。
「では、本日こそ館のご案内をいたします。来てからこの方、体調が優れないようでしたので、お誘いするのを控えていたのですが、もしアルルさまさえよろしければ、ぜひ」
体調のことを言われ、少し苦々しい気持ちが込み上げてくる。だいぶ無茶をした自覚はある。診療所を出るとき、ヨセフス先生は何も言わなかったけれど、足の怪我はちゃんと治っていなかったし、点滴直後でふらふらなのを耐えて走っていた。館に着いて、寝室に案内されてすぐ、寝込んでしまったのは記憶に新しい。
そのことではセドナにかなり気を遣わせてしまった。
足がうまく動かなくて、今日までほとんどベッドの上で過ごしていた僕の面倒を見てくれたのは、セドナだ。メビウスさんに僕の世話係として紹介された、石膏人形の少女。彼女はこの館の家事のほとんどを取り仕切っているらしい。前の主から長い間勤めているということだった。
どれくらい長い間働いているかは知らないが、見た目としては僕と同い年くらいに見える。丁寧な言葉遣いからは、もっと大人びた感じもするけれど。
向けてくる眼差しは、どこかメイに似ている。金髪のせいだろうか。はたまた、どこか無邪気な光を湛える瞳のせいだろうか。
その手を払うことなど、できはしなかった。
「じゃあ、行こうかな」
その手を握り返し、立ち上がる。久々に感じる床は、やはりひやりと冷たかった。
「あ、それではまず、お召し物を。何着かご用意しておりますので、そちらのクローゼットから、お好きなものをどうぞ。お着替えが済みましたら、あたくしは外にいますので、お声がけを。では、一旦失礼いたします」
そう言うと、セドナは手を離し、扉の向こうへ消える。僕は少し、その手が名残惜しかった。
人の温もりのない、冷たい手であっても。
着たこともないような立派な白いシャツに身を包み、部屋を出る。上着は少しぴたりと体に合って、普段着ていたシャツより堅苦しい感じがして動きづらい。
それに、シャツと一緒にあった臙脂色のリボンを襟元で軽く結び、扉の方へ向かう。
「セドナ、できたよ」
「はい。開けますね」
かちゃり、と扉が開くと、セドナが一瞬呆ける。驚いたように翠玉の目を見開いて。
「ん、何か変だったかな」
「い、いえ。でも、あ。結び目はブローチでお隠しになった方が」
セドナは僕の上着の胸ポケットから、彼女の瞳と同じ色の金の装飾が施されたブローチを出す。手慣れた様子でリボンの結び目に合わせてつけた。
「これでよし、と。では、参りましょう」
一瞬、吐息が触れ合うほど近づいたことに思わずどきりとするが、それは僕だけのようで、セドナはすたすたと歩き始めた。
大理石の敷き詰められた廊下は、部屋より少しひんやりと冷たかった。手を引くセドナが温かく感じられるくらいに。
「アルルさまのすぐ向かいがあたくしの部屋でございます。ご用命の際はいつでもお声がけくださいませ。といっても、あたくしがその部屋にいるのは深夜だけですが」
淡々とセドナは説明する。
「深夜だけって、じゃあ他のときは一体どこに?」
「はい。あたくしは家事全般を担っておりますので、大抵は厨房に。あとは館の掃除をしておりますから、決まった場所にはいませんね」
その内容にぎょっとする。
「館の掃除に家事全般って、まさか君一人で?」
訊くと、セドナは苦笑した。
「あたくしのように自在に動ける人形はそう多くはいません。おそらくこの館の中で最も自由に動けるのはあたくしでしょう。ゆえに、館内の雑事全般は、あたくしが取り仕切っております」
「大変だね」
なんとなく呟いたその言葉を、直後に後悔する。セドナの言葉によって。
「疲労のことをお気になさっているのでしたら、それには及びません。あたくしは人形ですから。疲労という感覚とは無縁です。どうぞなんなりとお申し付けを」
あ、あたくし以外にも何人か、とセドナが続けるが、それ以降は耳に入らなかった。
セドナの言葉の一部分が脳内で谺する。
『人形ですから』
そう、この子は人形。
案内されるうち、他の給仕姿の子たちとも擦れ違った。
『人形ですから』
そう、ここは人形館。
紛れもなく、人形館なのだ……