おばあちゃんのクリーニング〜お客さまver.〜
きれいにしましょう きれいに きれいに
あなたがたくさん笑えますように
あなたがたくさん幸せになりますように
祈りをこめて贈りましょう
素敵なひとときになりますように
クリスマス。天国ではそんな歌が響いていました。
上手ではないけれど、どうしようもなく優しい歌声。ここはおばあちゃんのクリーニング屋さん。クリスマスの日にだけ開く特別なクリーニング屋さんです。
空色のエプロンをつけて、お日さまのにおいがするふわふわの雲の机の上で、丁寧に丁寧におばあちゃんは少しいびつな赤くて長い毛糸のマフラーをたたんでいました。
「おばあちゃん、出来てますか?」
不安そうな声がお店の入り口から響き、おばあちゃんは「はいはい」とマフラーを持って歩いて行きます。そこには制服のブレザー姿の女の子がそわそわと立っていました。
おばあちゃんはにこにこ笑って女の子にマフラーを渡してあげます。そして、女の子の右手首に空色のリボンをきゅっとちょうちょ結びしてあげました。
「このリボンはクリーニングが終わった証。リボンが消えるまでキセキは続きますよ。どうか良いクリスマスを」
女の子は「ありがとうございます」とマフラーを抱き締め、深く深くおじぎをしました。
夜の町をコンビニ袋を片手に高校生の男の子が歩いています。町はクリスマス一色で先程行ったコンビニでもサンタさんがたくさんいました。
「一人のクリスマスって何でこんなにさびしいかね……」
共働きの両親はどちらも仕事。真っ暗な家を見上げ、男の子は1つ深いため息を吐きました。
パチン。
電気をつけてリビングに入ると「好きなものを食べて下さい」と書かれたメモの上にお釣りを置きます。コートを脱ぐと袋からカップラーメンと2つ入ったいちごのショートケーキを取り出します。
「あ、しまった、ひとつでいいのに」
うなだれる男の子。いつものくせで2つ入りのものを買ってしまいました。
お向かいの電気が消えた家を見ます。思い浮かべていたのは幼馴染の女の子のことでした。
毎年毎年クリスマスになると同じように共働きの幼馴染の女の子が家にやってきました。玄関のチャイムを連打し、「ケーキ、よこせ~!」と家の中に入ってきては、男の子がコンビニで買ったケーキを食べて行きました。
元々は小学生の時、甘いものが好きな男の子がコンビニ弁当と一緒に買ってきた1つだけのいちごのショートケーキでした。それを見た同じようにひとりぼっちのクリスマスを過ごしていた女の子が家を訪ねてきて言ったのです。
「ケーキ、いっしょにたべてもいい?」
包丁を使うのは少し怖かったからフォークで真ん中から半分に切りました。いちごは半分に切ろうとしたら右側が大きくなったので女の子にあげました。
おいしかったのです。半分こになってしまったのに一緒に食べるケーキはとてもとてもおいしかったのです。男の子はそれ以来、2つ入りのケーキを買うようになりました。
小学校・中学校・高校と成長するうちに二人の距離は変わっていきました。いつも一緒にいたのに、それぞれの時間が増えていきました。でも、クリスマスの2つ入りのケーキだけは変わらずに一緒に食べていたのです。
女の子が亡くなってしまうまでは。
男の子が最後に覚えているのは女の子の泣き顔でした。
秋のあの日、放課後の教室。忘れ物でもしたのでしょうか。教室の扉を開けた幼馴染の女の子は男の子がクラスの女の子にあるものを渡されているのを見て、びっくりした顔をしました。その後にぽろぽろと泣き出して、何かに慌てたように走り出し、車道に飛び出して――
女の子が亡くなってから男の子は今までの女の子の泣き顔を思い出しました。
小学生の夏休み、落とし穴を掘って男の子を落とした時。
見事に落ちた男の子にケラケラ笑っていたと思えば、男の子が足をくじいたことに気付いて慌て始めて。「歩ける」と言っているのに自分がおぶっていくときかなくて、何度も「ごめんね」と言って泣きながら男の子をおんぶして家まで帰ってくれました。
中学生の冬、ケガでサッカー部を辞めることになって、一人公園で泣いていた時。
いつもへたっぴだとバカにしていた女の子がやってきて、いつも通りからかうのかと思ったら、「あんなに頑張ってたのに」と男の子より悔しそうに泣いていました。自動販売機で買った温かいココアをくれて、それがやけにおいしくて、2人泣きながらベンチで並んで飲みました。
そして、高校。
今まで見てきたどの泣き顔とも違う気がしました。
何がそんなに悲しかったのか。何にそんなに慌てていたのか。今となっては分からないことに男の子は傷つくことしか出来ませんでした。
「あ〜、全部あいつのせいだ」
頭を抱える男の子。その時、声がしました。
「ちょっと、あんたのミスを私のせいにするのやめてくれる?」
「え?」
男の子が顔を上げるとそこには赤い毛糸のマフラーを巻いた女の子が腕を組んで立っていました。
「カップラーメンにケーキってどんな組み合わせよ。もうちょっと考えなさいよね」
「お前、なんで……」
「化けて出てみました、うらめしや〜」
定番の両手ぶらぶらお化けポーズをする女の子に男の子はぽかーん。女の子はかまわずにケーキのふたをパカリと開けます。
「あ、好きなコンビニのケーキじゃない! ちょっとなに楽してんのよ、あと3分ぐらい歩きなさいよね!」
「し、仕方ないだろ、今年は俺だけなんだから」
「可愛い女の子と過ごしてるのかと思った」
「いねぇよ、そんな子」
「あ、店員さん、フォーク入れ忘れてる! ちょっとフォーク2つ!」
「文句の多いお化けだな! ちょっとはお化けらしくしろや!」
そう言いながらも素直に台所に向かう男の子。女の子は男の子が背中を向けたのを確認すると小さく嬉しそうに笑いました。男の子も女の子が見ていないのを確認すると小さく嬉しそうに笑いました。
それぞれのお皿に取り分けて、2人はケーキを食べました。
「なあ、いつまでいれんの?」
訊ねる男の子に女の子は右手首のリボンを見せます。
「このリボンが消えるまで」
「リボン?」
男の子はリボンに触れました。軽くてあったかいリボンでした。空色のリボンは右端から少しづつ少しづつ消えていっていました。
「あのね、天国にはクリスマス限定のクリーニング屋さんがあるんだ」
消えていくリボンを静かに見つめながら女の子は続けます。
「クリスマス限定のクリーニング屋さん?」
聞きなれない言葉。首を傾げる男の子に女の子は頷きます。
「うん、自分が身に着けたいと思うものをひとつだけ綺麗にしてくれて、おめかしをしたキセキの時間を与えてくれる。私、迷ったんだよ? どんな私で会いに行こう。思い出のものがいいかな? おしゃれなものがいいかな? 考えて、考えて、結局これを選んだんだ」
そっと触れる首に巻かれた赤い毛糸のマフラー。男の子は不思議に思います。それは思い出のものでもなければ、おしゃれなものでもありませんでした。お世辞にも上手とは言えないもの。ただたくさんのいっしょうけんめいがつまっているのは分かる手編みのマフラーでした。
女の子は照れたようにはにかみます。
「今年のクリスマスに渡そうと思ってたの」
「え」
「下手くそでしょ。あの日、あんたがもらってたマフラーとは大違い」
男の子は思い出していました。あの日、女の子が亡くなった日。男の子がクラスメイトの女の子に渡されたのは手編みの赤い毛糸のマフラーでした。
「私より上手で、私より綺麗で、私よりずっとあんたに似合ってた。バカだよね。私、それを見てすごく悲しくなっちゃって。どうしたら間に合うんだろうって。そうだ、編み直そうって。もっと上手に、もっと綺麗に、もっとあんたに似合うように。それで慌てて学校を飛び出して、結局、ね」
男の子は女の子のマフラーをきちんと見ました。男の子は女の子の不器用さを知っていました。学校の家庭科の成績なんて自分より悪くて。どれだけ時間がかかったのでしょう。どれだけ想いを込めたのでしょう。どんなにいびつでもそこに辿り着くまでどれだけ大変だったのか。それをあの日、全て編み直そうとしていたのです。
「……お前さ」
「ん?」
「バカだろ」
「え?」
呆れたように吐かれる言葉にきょとんとする女の子。男の子はまっすぐに女の子を見つめます。
「俺、あの子から受け取る気なんてなかったよ。そのままで良かったんだよ。そのままで俺は嬉しかったんだよ」
「そのままで……?」
男の子はあふれだすものをこらえるように顔を覆います。
「クリスマスに一緒にケーキを食べたいと思うのは1人だけなんだよ」
「…………」
「なあ、もうちょっと一緒に生きていけよ……」
2人の前に置かれたあと一口だけのケーキは中々食べ終わることがありませんでした。まるで、それを食べたら全てが終わってしまうように。でも、女の子のリボンはもうほとんど消えかけていました。
女の子はふわりとマフラーを男の子の首に巻きます。男の子の手を握ります。
「ありがとう、まだここに2つ入りのケーキがあったこと、本当は泣きそうなほど嬉しかったんだ。もうここにひとりぼっちがなかったらどうしようって不安だったから」
今まで何度、幼馴染として、この手を握ったでしょう。体温の高かったはずの女の子の手は震えたくなるほど冷たいものでした。でも、首のマフラーは温かく、その温もりを支えに男の子は女の子の手を握り返しました。
「お前が教えたんだろ? 一緒に食べるケーキのおいしさを。そんな簡単に忘れられるわけないだろ」
女の子は嬉しそうに微笑みます。
「なあ、最後に確認してもいいか?」
「なに?」
「お前さ、実は甘いもの、好きじゃないだろ」
女の子は目を大きく見開きます。その後、いたずらがばれた子どものように顔をくしゃりとして言いました。
「好きな男の子と一緒に食べるクリスマスケーキは特別だよ」
そっと手を放すと最後の一口をぱくりと食べます。
「おいしい……」
そう言って笑って女の子は消えました。
空っぽのお皿と一口だけケーキが残ったお皿。
男の子は最後の一口を口に入れると言いました。
「おいしい……」
首に巻かれたいっしょうけんめいなマフラーの温もりといっしょにそう言いました。
2人目のお客さんは9歳の男の子でした。
「おばあちゃん、出来てますか?」
元気いっぱいの声がお店の入り口から響き、おばあちゃんは「はいはい」と白いセーターを持って歩いて行きます。そこにはTシャツに半ズボン姿の男の子がにこにこと立っていました。
おばあちゃんはにこにこ笑って男の子にセーターを渡してあげます。大人の男の人用の白いセーター。右の胸元には口を開けたライオンの刺繍が小さくしてありました。
おばあちゃんは男の子の右手首に空色のリボンをきゅっとちょうちょ結びしてあげます。
「このリボンはクリーニングが終わった証。リボンが消えるまではキセキは続きますよ。どうか良いクリスマスを」
男の子は大きすぎるセーターを抱きしめると「ありがとうございます」と深く深くおじぎをしました。
1つのお家の中で6歳の男の子が悲しそうに机の上を見つめています。その目線の先にはからあげ、ハンバーグ、ポテトフライとお母さんの作った料理がほかほかと湯気をたてていました。
「どうしたの? たくさん食べていいのよ」
微笑むお母さんに男の子の目にじんわりと涙が浮かびます。
思い浮かべていたのは今までのクリスマスのことでした。同じようにお母さんの手料理が並んだクリスマスの食卓。
2つの手が取り合っていました。お兄ちゃんです。男の子はお兄ちゃんと机の上の料理を競うように取り合って、でも、最後に一つだけ残ったものはいつもお兄ちゃんがゆずってくれました。今日はいくら手を伸ばしてももう1つの手は伸びてきません。
いつだって欲しいものはいっしょでした。お兄ちゃんが好きなものは男の子も好きでした。だから、いつだって取り合って、結局、お兄ちゃんがゆずってくれて。そうして、お兄ちゃんは命までゆずってしまったのです。
夏休みのことでした。
お家でごろごろしていた男の子はお兄ちゃんがキョロキョロと周りをうかがいながらそっと家を出ていくのを見ました。
どこに行くんだろう?
不思議に思った男の子はあとをついて行くことにしました。お兄ちゃんはとても楽しそうに学校の裏山に向かって歩いて行きました。歩いて歩いて1つの場所で立ち止まりました。
ボロボロの白い車でした。ドアのない錆びだらけの車でした。お兄ちゃんはトランクを開けると嬉しそうににこにこ笑って中を眺めました。男の子は目に映る光景にワクワクが止まらなくなりました。なんて面白そうなものがあるんだろう。あふれる気持ちを止められず、それはいきおいよく口から飛び出します。
「お兄ちゃん、ずるい!」
お兄ちゃんはあわててトランクを閉めると、びっくりした顔で振り返りました。
男の子は無邪気に近付いて行くと、だんだんと地面を踏みます。
「ぼくもこの車、ほしい! ぼくにもつかわせて!」
全力で欲しがる男の子にお兄ちゃんは少し悲しそうな顔をしました。でも、それを振り払うように頭を振ると、困ったように「しかたないなあ」と笑いました。
それからその車は男の子とお兄ちゃんの共通の遊び場所になりました。
夏休みの間、男の子とお兄ちゃんはこっそりそこでドライブごっこをしました。お兄ちゃんが運転席に乗って、男の子が助手席に乗って。2人は色んな場所に出掛けたのです。
約束をしていたのにお父さんの急なお仕事で遊園地に行けなかった時には、口をとがらしながら遊園地に行きました。2人で実際にはない架空のアトラクションを創って遊びました。
テレビで見た外国の景色に感動した時には様々な知らない国に行きました。めちゃくちゃな外国語を創ってでたらめにおしゃべりをしました。
お母さんとお父さんが夫婦げんかをした時には流れ星を見に行きました。架空の流れ星に「二人が仲直りしますように」と祈りました。
車の外にある風景はいつだって山のものでした。でも、2人にはそれは時には遊園地であり、知らない国であり、流星の夜空でした。
ある日、お兄ちゃんがお友達と遊びに行ってしまった日。男の子は1人で車にやってきました。運転席に座ってハンドルを握って。でも、やっぱり1人のドライブは面白くありませんでした。
男の子は車を降りて他の遊び方を考えました。何をしたら面白いだろう。そこでふとトランクに目が行きました。
この場所を2人で使うようになった時、お兄ちゃんと男の子は1つの約束をしました。
それはトランクだけは絶対に開けないこと。
男の子は今までその約束を守ってきました。
でも――
あのトランクの中には一体何が入っているんだろう。
気になり始めるとその気持ちは止まりませんでした。お兄ちゃんと約束をした。でも、今日はお兄ちゃんはいない。見たところでばれはしない……。
男の子はトランクに近付くとそっと手をかけました。力を入れると、
カチリ。
トランクは簡単に開きました。
そこにはたくさんのものが入っていました。周りの友達があきてしまったけれど嫌いになれないヒーローの変身ベルト。算数が苦手なお母さんがせっかく教えてくれたのに良い点がとれなかったテスト。すごく嬉しかったのに恥ずかしくて「ありがとう」と言えなかった好きな子からのバレンタインのチョコレート。
お兄ちゃんの秘密にしたいもの、大切にしたいものがたくさん入っていました。それはトランクの宝箱でした。
たくさんの宝物。その中に一つだけまじった大人のものに男の子の目は止まりました。固まって。考えて。理解して。そうして、小さくこう呟いたのです。
「うそつき……」と。
雨の音が錆びた車に響いています。
外には真っ暗な夜の景色が広がっていて、男の子は助手席で膝を抱えて俯いていました。
「……今日はどこに行く?」
懐中電灯の光と共に運転席から声がしてぴくりと男の子の肩が揺れます。
「お父さんとお母さん心配してるぞ? どこでも行きたいところ連れて行ってやるから、そしたらいっしょに帰ろう?」
ハンドルを握りながら優しく笑うお兄ちゃん。その傍らには2人で差して帰る為のお父さんの大きな黒い傘がありました。
男の子は答えます。
「……じゃあ、うそつきなお兄ちゃんがいないせかいにつれていって」
「え?」
聞き返すお兄ちゃん。男の子は胸元に抱えていたものを突き出します。
「うそだったんだ。ぜんぶぜんぶうそだったんだ」
突き出されたものを見て、お兄ちゃんの瞳は悲しげに揺れました。
「……トランク、開けたのか?」
「あけたよ! こんなのかくしてるなんてずるい! ぼくもほしかったのに、どうしてお兄ちゃんがもってるの!」
それは白いセーターでした。今にもこちらに飛びかかってきそうな迫力のある口を開けたライオン。胸元にあるその刺繍が格好良くてお兄ちゃんと一緒に何度も何度もおねだりしたお父さんのセーター。でも、去年の冬から突然着なくなって尋ねるとお父さんは言っていたのです。大切な人にあげてしまったと。それを訊いてお兄ちゃんも残念がっていたはずでした。なのに。
「……去年の冬、ぼくの誕生日にお父さんがくれたんだ。誕生日プレゼントだって」
「ぼくにはそんなことぜんぜん言わなかったのに」
「言ったら怒るだろ。だから、こっそりくれたんだ」
「お兄ちゃん、ずるい!」
「ずるくない!」
車内に響く大きな声。男の子の肩がびくりと揺れます。
お兄ちゃんは涙がたまった目で男の子をにらみつけます。
「ずるくない。これは初めて「お兄ちゃん」だからもらえたものなんだ。ぼくの方が先に大きくなるからって。あげるばかりだった「お兄ちゃん」ではじめてもらえたものなんだ」
「お兄ちゃん?」
「なんで約束したのに勝手に開けちゃうんだよ。ぼくの宝箱なのに! ぼくの宝物なのに!」
こんなにもお兄ちゃんが怒る姿を見たのは初めてでした。戸惑う男の子にお兄ちゃんは言葉を吐き出します。
「もう、お兄ちゃんなんて、やだ……」
そう言うとお兄ちゃんはセーターを抱えて、車の外に駆け出しました。
「お兄ちゃん!」
懐中電灯を持って追いかける男の子。強い雨が降る夜の山。お兄ちゃんの背中が遠くなります。男の子は怖くなりました。置いて行かれる。必死で走りました。でも、どんどんとお兄ちゃんは離れて行き、闇の向こうに行ってしまうのです。男の子は思い知ります。今まで隣にいてくれたことを。本当はいつだって自分を置いて行けたことを。
呼びました。でも、止まってくれません。それはもう男の子のお兄ちゃんをやめてしまったからでしょうか。やだ。やめないで。ぼくのお兄ちゃんをやめないで。雨と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、ぬかるみ滑る地面を必死に蹴って、やっとその背中に追いつきそうになった時。
「あ!」
声と共にお兄ちゃんの身体が傾きました。雨で柔らかくなった地面がくずれ、木が立ち並ぶ急斜面に向かってぐらりと。
男の子は慌てて手を伸ばしました。その時。
どん!
強い力に肩を押され、尻餅をつきました。
男の子はびっくりしてお兄ちゃんを見ました。懐中電灯が地面に落ちます。お兄ちゃんはもっとびっくりした顔をして自分の手を見ていました。でもその後、困ったように笑いました。
トランクの宝箱を見つけられた時と同じように。
それが最後に見た表情でした。
お兄ちゃんは真っ暗な山の中を白いセーターと一緒に落ちて行きました。
お兄ちゃんが亡くなってから男の子はたくさんのしなければよかったことを思いました。
あの時、トランクを開けなければ。
あの時、わがままを言わず、素直に一緒に帰っていれば。
思い浮かぶ未来は変わらずにドライブごっこをする景色で。
思い浮かぶ未来はお父さんの大きな傘を一緒に差す帰り道の景色で。
それは今の男の子にとってあまりに幸せな景色でした。
お父さんとお母さんは悲しそうな顔で男の子を見つめています。男の子はちゃんと知っていました。自分が泣くとお父さんとお母さんはもっと悲しくなることを。だから、笑おうと思いました。おいしいものを食べてちゃんと笑おうとお母さんの料理に手を伸ばしました。
その時。
横から手が伸びてきました。
ポテトフライに向かって伸ばされた手首に空色のリボンが結ばれた右手。
男の子とお母さんとお父さんはその手の先を見ました。
そこにはぶかぶかの白いセーターを着たお兄ちゃんがいつも通り座っていました。
たくさんの感情が3人の中に現れました。驚き。喜び。悲しみ。
でも、男の子は黙って料理に手を伸ばし、ほっぺたにたくさん頬張りました。
お母さんは黙って台所に向かい、お兄ちゃんの前にほかほかのご飯を盛ったお茶碗とお箸を置きました。
お父さんは2人の姿を黙って見つめていました。
静かな静かなクリスマスの食卓でした。
そうして、料理が最後の一つになった時、お兄ちゃんはお箸を止めてにっこりと笑いました。
「食べていいよ?」
男の子はぶんぶんと横に首を振ります。
「もうなにもほしがらないからここにいて」
ぽろぽろとこぼれだす涙。今までがまんしていたものを全部あふれださせて伝えます。
「ごめんなさい。いないせかいにいきたいなんてうそだもん。いるせかいがだいすきだもん」
お兄ちゃんは微笑むと優しく男の子の頭をなでます。
「ぼくが死んでしまった日。ぼく、とっても怒ってたんだよ。すごく怒ってもうお兄ちゃんなんてやめてやるって思ってた。でもね、だめだったんだよ。あの時、ぼくにのばされた手を見てあぶないって思った。守ることばかり考えてた」
困ったように笑います。
「やめることなんてできなかったよ」
お父さんを見ます。
あまった袖、あまった肩幅。セーターのぶかぶかといっしょに許可を求めるようにじっとお父さんの目を見つめます。お父さんはせいいっぱい笑うと「いいよ」と言うようにうなずきました。お兄ちゃんは嬉しそうに笑い返すとセーターを脱いで男の子に着せます。キョトンとする男の子。肩はずり落ち、手は全く袖から出ていません。今の男の子にとってそれは明らかにお兄ちゃんより大きいものでした。
「ふふ、やっぱりぶかぶかだ。でも、これから大きくなるよ。このぶかぶかがどんどんなくなって、もしかしたらおいこしちゃうかもしれない」
袖をまくり、男の子の手を握ります。
「ケンカしてごめんね。仲なおりのしるしにぼくの「これから」をあげる。大人のぼくへの宝物をあげる」
もうなにもほしがらないって言っているのに。お兄ちゃんはちっともぼくの話を聞いていない。
怒りたいわけではありません。ただただどこまでも優しいその行為が悲しくてたまらないのです。何度もつないで一緒に歩いてくれた手があまりに冷たいことが悲しくてたまらないのです。
だから、男の子はぎゅーと握り返すと言いました。
「もらうばっか、やだ。ぼくも、なにか、あげる」
泣きじゃくりながら男の子は言います。その言葉にお兄ちゃんは泣きそうな顔になりました。そして、言いました。
「じゃあ、よんでよ」
「?」
首を傾げる男の子。
「ぼくを、よんでよ」
温かな温かな瞳でお兄ちゃんはそう言いました。男の子は本当にそれでいいのか分かりませんでした。でも、それだけでいいのなら、
「お兄ちゃん」
丁寧に丁寧に短いその言葉を紡ぎます。
お兄ちゃんは嬉しそうに笑いました。
「それだけでじゅうぶんだよ」
お兄ちゃんはお母さんを見ました。
そして、てのひらを合わせるとふかぶかとおじぎをしました。
「とってもとってもおいしかった。ごちそうさまでした」
お母さんは瞳を大きく揺らすとせいいっぱい笑います。
「もっといっぱい食べていっていいのよ」
お兄ちゃんは横に首を振ります。
「もうおなかいっぱい」
満足そうにお腹をなでながら。
そうして、お兄ちゃんは消えました。
ひとつだけの料理を残したままで。
男の子はじっとその料理を見つめるとお皿にのせて仏壇のある部屋に持って行きました。
部屋の扉を閉めるとお父さんとお母さんの泣き声が聞こえてきました。子どもたちは知っていました。自分たちの前で2人が泣けないことを。どんなに泣きたくてもがまんしてせいいっぱい笑おうとすることを。
男の子は仏壇にお供えするとぶかぶかのセーターから手を出して合わせました。
これでいいんだよね、お兄ちゃん?
あの日、架空の流星の夜空に祈ったように、いっぱいの気持ちを込めて祈りました。
お父さんとお母さんがたくさんたくさんなくことができますように、と。
3人目のお客さんは気難しそうなおじいさんでした。
「出来ておりますでしょうか?」
低く落ち着いた声が入り口から響き、おばあちゃんは「はいはい」と紺色のスーツを持って歩いて行きます。そこには作業着姿のおじいさんが緊張した表情で立っていました。
おばあちゃんはにこにこ笑っておじいさんにスーツを渡してあげます。ピカピカの買ったばかりのスーツでした。
おばあちゃんはおじいさんの右手首に空色のリボンをきゅっとちょうちょ結びしてあげます。
「このリボンはクリーニングが終わった証。リボンが消えるまでキセキは続きますよ。どうか良いクリスマスを」
おじいさんはスーツを抱きしめると「ありがとうございます」と深く深くおじぎをしました。
プルルルル。
電話が鳴っておばあさんは台所の火を止めました。パタパタと走って行き、受話器を取ります。
「あ、もしもし、母さん?」
聞こえる息子さんの声に浮かぶ微笑み。
「あら、どうしたの?」
「いや、今日、 良かったらうちで一緒にご飯どうかと思って」
「一緒に? 駄目よ、そんなの。私がいたら色々気を遣わせちゃうでしょ。家族だけで過ごしなさい」
「でも、今日、クリスマスだし」
おばあさんは「ふふふ」と笑います。
「あなたもご存知の通り、我が家ではクリスマスもご飯とお味噌汁。特別なことなんて何もないのよ」
台所を見るおばあさん。そこでは作りかけのしじみのお味噌汁と炊きたてのご飯がほかほかと湯気を立てていました。
「今日はただの12月25日だ。何も特別なことはない」
毎年毎年そう言っていた人がいたから。
子どもの頃は電話の向こうの息子さんも「ぼくの家だけサンタさんがこない」とよく泣いていたものです。その度に「男がそんなことで泣くな!」と叱られて母親としてかわいそうに思ったものでした。
「……でも、1人でさびしくない?」
気遣うようにそう言う息子さんに仏壇を見ます。作業着姿でむすっとした顔で映るおじいさんの写真。
「ちっともさびしくなんてないわ」
明るく笑いながら心の中では思っていました。
本当はとてもさびしいわ、と。
おじいさんは腕のいい大工さんでした。仕事に関しては真面目一徹。周りからの信頼も厚く、同僚からも後輩からも慕われていました。とても器用な人でしたが愛情の伝え方は不器用でした。
おじいさんのプロポーズはひどいものでした。
夜、当時付き合っていたおばあさんの部屋を訪ね、おばあさんの欄以外すべてを埋めた婚姻届を突き出して言ったのです。
「書け」と。
それがプロポーズの言葉でした。
そんなロマンチックの「ロ」の字もないようなものでしたので、おばあさんはテレビでスーツ姿でバラの花束を持ってプロポーズされている女性を見ては「うらやましいわ」とおじいさんに聞こえるように言っていたものです。
そんなおじいさんは少し前、現場の事故で亡くなりました。桜の綺麗な季節でした。昔のように体も動かなくなってきて、そろそろ引退を考えていた時に起きた落下事故でした。おばあさんが予定していたおじいさんと一緒の「これから」は全て出来なくなってしまいました。
「老後というのを一緒に過ごしてみたかったのだけれど」
お味噌汁の味見をしながら悲しげに呟くおばあさん。そうして、味に満足して「はい、できあがり」と言った時。
ピンポーン。
インターフォンが鳴りました。
誰かしら?
おばあさんは不思議に思いながら玄関に向かいました。そうして、扉を開けて――
心臓がどくんと大きく鳴りました。
そこにはスーツ姿のおじいさんが立っていたからです。
「……ただいま」
ぼそりとそう言うおじいさんにおばあさんは呆然と返します。
「……おかえりなさい」
「めし、出来てるのか」
「……今、お味噌汁が出来ました」
「頂こうか」
そっとおばあさんの横をすり抜けて、おじいさんは靴を脱いで家の中に入っていきました。おばあさんはその後ろ姿を見ながら「夢でも見ているのかしら」と思いました。でも、頬をつねっても確かに痛く、それは確かに現実なのでした。
「他にも何か作りましょうか?」
焼き魚とお味噌汁とごはんと。おじいさんの前に並べたおばあさんは気遣うようにそう言いました。よく食べるおじいさんにはこれだけでは足りないだろうと思ったのです。でも、首は横に振られます。
「いや、これで十分だ。お前も早く座りなさい」
「はい……」
おばあさんはストンとお向いに腰を下ろします。
『いただきます』
二人で声と手を合わせます。
お味噌汁をすする音がします。
ちらりと覗くと「うん……」と満足したように頷くおじいさんがいました。生きている時はそんな顔しなかったくせに。おばあさんは嬉しくなって緩む口元を隠すようにお味噌汁をすすりました。
聞こえるカチャカチャとした食べる音。動かされる右手首には明らかにおじいさんには似合っていない空色のリボンが結ばれていました。それは少しづつ少しづつ時と共に短くなっていきます。それももちろん気になりましたが、
「ねえ、あなた、何でそんな格好をしているんですか?」
おばあさんが一番疑問に思っていたのはおじいさんの格好でした。全く着慣れていない真新しいスーツ姿。こんなおじいさんは見たことがありませんでした。
おじいさんは「ああ」と言うと綺麗に食べ終わった食器を置き、「ごちそうさま」と手を合わせました。
「プロポーズをしにきた」
「プロポーズ?」
おばあさんはきょとんと首を傾げます。おじいさんは頷き立ち上がります。
「老後のプレゼントにと思っていたんだがな。結局、渡せなかったから渡しに来た」
おばあさんの前にひざまずくとその手を取ります。真剣な表情で瞳を見つめて言います。
「この人生の中であなた以上に好きになった人はいませんでした。どうか、私と結婚してください」
冷たい冷たい手。でも、そんなことも気にならないほどおばあさんはびっくりしていました。
「……こういうのがうらやましかったんじゃないのか」
固まってしまったおばあさんにおじいさんは不満そうに恥ずかしそうに口をとがらします。おばあさんは――
「!」
今度はおじいさんがびっくり。おろおろと立ち上がります。
「ちょっと待て、何で泣くんだ……」
ぽろぽろと流れる涙。おばあさんは両手で顔を覆います。
「あなたが亡くなった後、遺品を整理していたら見慣れない2つのものを見つけました。1つはサンタさんの衣装。もう1つはピカピカの買ったばかりのスーツでした。何のために買ったのかと思えば、あなたの大切な衣装はいつもいつも隠されてばかりですね」
「……悪かったな」
「本当に不器用な人。でも、そんなあなた以上に好きになれる人なんて私の人生にもきっといないわ」
覆われた手が下げられて笑顔が現れます。それは本当に本当に幸せそうな笑顔でした。
おばあさんは思い描いていた「これから」の一つを叶えます。どちらかの命が尽きる時、言いたかった言葉がありました。
「今まで一緒に生きてくれてありがとう」
一緒に過ごした月日の全てを込めて。
おじいさんは1つ瞬きをした後、顔をくしゃくしゃにして笑いました。
「こちらこそ」
そうして、おじいさんは消えました。
おばあさんはぼんやりと消えた空間を見つめました。まるで魔法のようなひとときでした。
おばあさんは立ち上がるとおじいさんの部屋に入り、洋服ダンスを開けました。そこにかかっていたはずの真新しいスーツは役目を終えたように消えていました。でも、サンタさんの衣装は残っていて。おばあさんは涙をぬぐい、クスリと小さく笑うのでした。
今度帰ってきたときにあの子にこれを見せたら、あの人は怒るかしらと。
最後のお客さんを見送ったおばあちゃんはお店を閉めようと外に出ました。すると、上からひらひらと桜の花びらが舞い降りてきました。
おばあちゃんは「あら、今日は桜ですか」と思いました。
天国はお空の上にあるので雨も雪も降ることがありません。でも、時々、神様のきまぐれで色々なものが降ります。真っ赤な紅葉であったり、ひまわりの花びらであったり。下の世界は雪が降り始めたようですが、天国では桜の花びらみたいです。
おばあちゃんは手を伸ばし、花びらをつかまえました。目をつぶって手を組んで一生懸命に祈ります。頭にたくさんの花びらを積もらせながら祈ることはあの頃と変わらず、やはり大好きなあの子の幸せなのでした。