隆之にメリウスを想う
「姫様、部屋に篭るだけでは心は沈むだけでございましょう。今より、新宮殿へと足を運ばれてみては如何にございましょう?」
シンクレアはクラリスにそう提案すると、傍に控えるイザベラに目配せをする。イザベラが黙って頷き、部屋を退出して行くのをクラリスは濁った瞳で眺めていた。
「そう……新宮殿か……何て名前付ける予定だっけ……」
「【メリウサラム】でございます。姫様……」
シンクレアの見る者を蕩かせる眩しい笑顔にクラリスの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
クラリスは少しだけ俯き、しなやかな指使いで自らの寝巻きのフリルの手触りを楽しんでいる。人間の織り成した絹織物の肌触りが指に心地良い。
「そっか……メリウスの城か……アイツの名前はタカユキなんだから、【タカユキュラム】が正解なんじゃないの?」
クラリスがクスクスと笑う。【魔王の美酒】の名を珍しい名前だと彼女は思っていたが、新宮殿の名としての響きが滑稽極まりない。
「あの者がそのように我等に命じるのであれば、そのように致しましょう。ですが、優雅さの欠片も無い陳腐な名前ですわね」
「間違いなくそんなことは気にしないんじゃない? 私達との怠惰で淫楽な日常を過ごせば、他のことはきっとどうでも良くなるわ」
クラリスの思い描く未来予想図は王と君臨する隆之と過ごす淫らな日常。
王は魔人達の奉仕を受け、贅の限りを尽くし、この世の全てを望むままに手に入れる。隆之の望む未来は平凡にして安穏とした物ではあったが、もしも、その快楽を知れば、それに抗うことは不可能であったであろう。
隆之と言う男の内面に確かに存在する残虐性や歪んだ欲望を【怠惰シンクレア】と【傲慢クラリス】の二人の魔人達は見逃さない。美しい二人の魔人達による奉仕は一人の男を狂わせるには十分過ぎると言えた。
人は知れば、それが当然と考え、更なる欲望を満たそうと求める。全てにおいて通じるそれを向上心と捉えるか、飽くなき欲望と捉えるかは人それぞれであろう。
しかし、それが人の生きる糧となり、支えと成る事は否めない事実でもある。
「クラリス様、シンクレア様、準備が整いましてございます」
樫の木で出来た扉を軽く叩く音と共にイザベラが声を掛けてきた。
「そう。じゃあ、私も支度するわ。流石にこの格好では貴女に怒られそうだもの……」
イザベラの扉越しの声を聞いたクラリスは寝巻きのままの自らの姿を自虐的に揶揄する。人間達が数年の時を掛けて作り出した一品ではあるが、外出に相応しくない格好であることには違いがない。
「私はお待ちしておりますので、姫様はどうぞ準備を整えられます様、御願い申し上げますわ。御髪を梳き、髪を結い上げ、御化粧をなされませ。【爵一位王妃】足る者は魔王の妻故に自然と相応しき装いと言う物が求められる存在なのでございます。女は己を愛する者の為に化粧す。取るに足らぬ人間の生み出した言葉ではございますが、良き物を取り入れることに抵抗する理由はございませんわ」
「ちょっと、今日のシンクレアは説教臭いね。でも、嫌いじゃあない。アイツが振り向こうが、振り向くまいが、私達が自らの望む物を手にする為にこの手を煩わすのも……意外と良い物なのかもしれないわね。済まないけど、シンクレアはもう少しだけ待っていてくれる?」
クラリスは微笑み、目を細める。彼女の無垢な少女の如き笑みは彼女の純粋な残虐性を誇示する。
先代の魔王と【怠惰シンクレア】との間に生まれ、齢十六にして【爵二位淑妃】の称号を手にした【傲慢クラリス】の心に芽生えた謙虚さは彼女の存在を高める一助と成り得るであろう。
クラリスの侍女にシンクレアの為に誂えた部屋へと案内されたシンクレアは窓辺に位置する椅子へと腰掛け、出された紅茶を嗜むことも無く静かに目を閉じている。
シンクレアはゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐く。
白磁の煌きを思わせる細き両の掌を豊かな胸に置くその姿は正しく抱心と表現すべきであった。
(姫様の心境の変化は私と致しましても嬉しい限り。私は姫様の望みを叶える為に全力を尽くすと致しましょう。タカユキ……貴方はどうして、あの時、私を拒んだのです? 貴方も男でしょうに……貴方が抱けば、普通の人間ではその精に宿る膨大な魔力で死んでしまいます。貴方への褒美のつもりで私の寝所に来る許可を出したあの時……貴方から向けられる侮蔑の視線に実を言うと堪えましたわ……どれ程、優雅に振舞おうと、私の本質は怠惰にして淫乱……高まりつつある貴方の魔力に惹かれ、この身を差し出そうと考えた私は他の魔人達と変わらぬことに貴方の視線が気付かせてくれましたわね。ならば、私も偽ること無く生きることに致しましょう。私は貴方の御子を宿したいのです。姫様と私の望みを叶える為に私は今まで築いた全てを差し出しましょう。貴方にはメリウス様の如き王となって頂きます。誇りに思いなさい。数多の魔人達を努力へと導くその力はメリウス様以来の偉業である事を……)
──今より凡そ千年前、魔人達に偉大なる王が誕生した──
王の名をメリウスと言う。その名を聞けば、全ての魔人が平伏し、その治世は五十年以上の長きに渡った。
メリウスは齢八にして覚醒した【魔王の美酒】をその手に収め、世界に恐怖と混乱を齎すことに愉悦を覚える魔人達の理想とすべき王であった。
出自は【爵六位秋士】に過ぎなかった彼ではあるが、その力は歴代の魔王の中でも群を抜いており、従えし魔人達の中にはあの【爵一位明星のスルド】も含まれる。
メリウスは【爵一位明星のスルド】が仕えた唯一の王であり、彼女が自らに匹敵すると認めた唯一人の男であった。
メリウスの娯楽は「人間達を如何にして殺さずに生かしたままで楽しむか。楽しんだ後で如何にして殺すか」であり、魔人達はメリウスを満足させる為にそれぞれに趣向を凝らした余興を提供した。
ある魔人は魔獣の餌となる兄妹を提供し、妹に兄を捌かせ、料理を作らせた。
兄を殺さぬように細心の注意が払われ、兄は自らの身体が生きながらに魔獣の腹に収められていく様子を四肢と消化器官の取り除かれた身体で見せ付けられながらゆっくりと緩慢な死が与えられる。
その姿を見たメリウスは手を叩いて喜んだと伝えられる。
兄は【明星のスルド】が【蘇生魔法】を掛けることでその肉体は直ぐ様に再生され、今度は兄が妹を捌き、料理する。
捌く者と捌かれる者が挙げる絶叫の違いがメリウスの耳には新鮮であり、メリウスは
「それらが奏でる音楽を聴かねば、晩餐は始まらぬ」
との言葉を残した。
この日以来、兄妹は【明星のスルド】の時の流れにすら干渉すると言われる【蘇生魔法】によって何度も再生され、メリウスの晩餐の前には必ず提供される余興として定着した。
その日に捌かれるのが兄であるのか、妹であるのかはメリウスが賽を投げることで決められ、その賽の目の結果を当てる余興も魔人達には好評となる。
絶大なる魔王とその王妃である【明星のスルド】が楽しんだ余興の数は実に二万近くにも上り、捌かれた回数は兄が一万一千二百五十四回、妹が八千六百九十一回となった。
確率は二分の一であったが、兄の回数が二千五百回以上も数が多いのには理由がある。
その兄は妹を捌くことを唯の一度も承諾しなかったとされる。妹の賽が出る度にメリウスに自らを捌く様にと懇願したのである。今となっては真偽の程は確かめようが無いが、これが事実であるならば、兄の持つ精神とは何であったのであろう。
狂うこと無く、妹を苦痛から救う為に自らの身を差し出す自己犠牲の精神を疑問視する者は多い。これはとても信じられる話では無い。
しかし、唯一つ言えることはメリウスの残したもう一つの言葉、
「人間は決して、侮れぬ。予は人間を恐れるが故にある決定を下そう。人間を滅ぼせ。彼奴等は魔人達の確かな脅威と成り得る存在である。この男……ヴスターヴと申す者はそれを予に決定させるだけの力を秘めし存在であった。予の治世も終わりを遂げようとしている。予は予の生きた証を残そう。そなたらには次代を担う我が子を……人間達の全てに絶望と死を……これは予と人間達との賭けである。予が人間を滅ぼすことが叶えば、予の勝ち。その前に予の寿命が尽きれば、人間達の勝ちだ。もしも、予が負けることがあれば、これだけは肝に銘じておくが良い。予は人間に破れし、愚王であったとな……」
から、ヴスターヴはメリウスにこの決定を下させる要因となった存在であったのではないであろうか。
この賭けの敗者がメリウスであったことはメリウスの治世が終わりを告げた時に証明された。
されど、メリウスの勅命に全ての魔人達が従い、人間は滅亡寸前まで追いやられたことには変わりない。
当時の人類の人口は凡そ二億人とされていたが、メリウスの治世末期の三年間で百万を下回ったとされる……
この凶行を隆之が行うかもしれなかった可能性は誰にも否定出来ない未来のことではあったのだ。
「お待たせ、シンクレア」
クラリスの言葉にシンクレアははっと意識を取り戻す。
シンクレアの前に立つクラリスはドレスではなく、動きやすい軽装をしてはいたが、彼女の魅力はその程度では色褪せない。
シンクレアの服装は胸元を大きく開いた綿を黄色く染めた服に掛かる彼女の赤い髪がアクセントとなり、見る者に爽やかな印象を与える物であった。
「では……参りましょう、姫様。私も全ての準備を整えております。後は相手がどのような手を打つか……あの者は己を知ることを知る故に侮れません。されど、あの者が持つ力は人を動かす物ではなく、飽くまでも個人の力であることが我らの勝因と成り得るかもしれませんわね……」
「何言ってるのよ? 意味が分からないわ」
シンクレアの言葉の意味する事を理解出来ず、クラリスが怪訝な表情を浮かべて問い質した。
「では、これより姫様に私が紹介することに致しましょう。この数ヶ月で【メリウサラム】がどれ程完成に近づいたのかを御覧になられれば、人間達が持つ力と言う物を御理解頂けましょう。人間を家畜と侮るだけでは高転び致しますわ。メリウス様の意思を継ぐ魔人ならば、人間の持つ力についても理解する必要はございます」
シンクレアは翡翠の瞳をクラリスに向け、クラリスに届く様に言葉を選ぶ。その言葉を理解したクラリスは
「やっぱり、説教臭いよ……母様……」
とだけ告げた。




