夫婦らしからぬ会話
彼女の純情を弄ぶ事は隆之の信義に反していた。
彼女とは【暴虐ベアトリス】、北に位置する【ルーディア】を治める極悪非道の魔人であるも、隆之を救ってくれたと言う返しても返し切れぬ恩を抱えた美しき男装の麗人だ。
ベアトリスは【怠惰シンクレア】の友人であるからして、これから起こり得る戦に対して少なくとも中立を保って欲しいのが隆之の考えだった。
隆之がベアトリスから言われた言葉は自らに仕えると言うもの。
ならば、ベアトリスは隆之の言を黙って受け入れてくれるであろう。
されど、彼女の想いに気付いている隆之は彼女を弄ぶような真似は極力したくなかった。
バゼットとベアトリスは違う。
バゼットは覚醒した隆之に欲情を抱くだけの存在で、ベアトリスは隆之自身を見てくれた女性だった。
仮にエリーナと出会わなければ、隆之の伴侶はベアトリスであったであろう。
そう予測出来る程には隆之とベアトリスの間にある絆は確かな物であった。
だから、隆之はバゼットを冷たく遇らうも、心の中でベアトリスだけは特別視する事を否定出来なかった。
仮に彼女が自分の足を舐めると言えば、隆之は苦しみを覚えるであろう。
許可等必要なく、ベアトリスならば、例えエリーナを裏切る事になったとしても、その気持ちに応える事で少しでも恩返しになるならば、迷う事なく閨を共にするかもしれない。
だが、それをベアトリスは決して望まないだろうと言う確信が隆之にはあった。
何故ならば、一線を越えるには隆之とベアトリスは近過ぎる存在であったからだ。
「バゼットさん、シンクレアとクラリスの動きを俺に逐一報告して頂けますと助かります。貴女の仰る通りに時間の経過が俺に味方するのは分かりましたが、俺はシンクレアとクラリスだけはこの手で仕留めたいんです。本当はもう一人いますけれどね」
隆之はバゼットに【ジゼルの街】で【怠惰シンクレア】と【傲慢クラリス】の動向を探るように依頼をした。
命令されなかった事にバゼットは軽く衝撃を受けたが、黙って頷いた。
その言葉を最後に隆之は【転移】で我が家に戻る。
寝台ではエリーナが小さく寝息を立てていた。
その顔を飽きる事なく隆之は見守っている。
未だ彼女のお腹は目立たないが、この村の産婆が新しい命が宿っているのは間違いないと言ってくれた。
父親になる為にも隆之は強くありたいと望む。
理想の父親像なぞ想像も出来なかったが、子育てに時間を割く余裕すら奪おうとする魔人が憎かった。
暫くして、エリーナが瞼を開ける。
「おはようございます、あなた……今日は随分と早起きなのですね。今から朝食の支度をしますから少し時間を下さいね」
「ああ……時間が欲しいのは俺も一緒だよ。エリーナ、君に話しておきたい事がある。魔人が攻めて来る。俺は逃げないと決めたけれど、戦う決心が未だに湧き立たない。だから、君に問いたいんだ。このちっぽけな手で助けられる人を助けるべきかい? 正直言って、自信は全く無い。それでも君は俺に戦う事を選んで欲しいかい?」
突然、告げられた夫の突拍子もない言葉にエリーナは何度も瞳を瞬かせた。
そして、息を大きく吸うと、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「勝算はあるのですか? ほんの少しでも勝算があるのならば、私はあなたの背中に頼らせて頂きます。この世界で生きる一人の人間として、懇願致します。どうか……魔人の脅威から人間をお救い下さいませ。あなたがそれだけの力を手に入れた事は私も少しは理解しております。あなたが好きなように振る舞う事が世界を救う手段だと身勝手にも私は思っておりますから」
エリーナの言葉を聞いて隆之は頷き、右手をそっと彼女の腹部に置いた。
「勝算はあるのかどうかは分からない。動き出した歯車が俺に魔人と戦う選択を選ばせるだろう。だが、準備は整いつつある。どう転ぶかは分からないけれど、俺は俺が出来る精一杯を貫く事を君に約束する。だけど、覚えておいて欲しい。俺は君と結ばれた当初の俺じゃない。君に見せたくない一面も持っている。それでも……信じて着いて来てくれるかい? いや、着いて来てくれ」
夫の決意を耳にしたエリーナはゆっくりと息を吐いた。
答えは決まっている。
自分は未来永劫この隆之と言う男に着いていく。
産まれて来る子供の為に必要な物は希望であり、平和だった。
それが実現された未来を残す為に夫が戦う決心をしたのならば、「自分は出来るだけこの人の枷にはなるまい」とエリーナも決意を固めた。
朝食の支度をする……
当たり前と思っている物は当たり前でも何でもない。
だから、エリーナはゆっくりと起きて着替えを済ませてから朝食の支度を始める。
それが誰にとっても当たり前の事を心の底から願いながら……
その姿を見つめながら、隆之がエリーナにこう告げる。
話の内容は【ジゼルの街】で豪奢な衣装を購入次第、北の【ルーディア】に二人で向かうと言うものだった。
ベアトリスと再会する事がどう出るかは隆之には分からないが、賽は既に投げられた後だった。




