この世界で生きる
──一ヶ月後──
隆之はスルドの僕から、この世界で暮らしていく為の知識や情報を教えて貰っていた。
スルドからは召喚された次の日に館を出て行くように言われていたが、見知らぬ土地で付け焼刃の知識・情報だけで他の魔人達から身を隠せる訳がない。よって、必要な知識を得る為に一月の滞在をスルドに願い、許可されていた。
スルドの僕である「オネット」と名乗った男性は口髭を生やした好々爺のような印象だった。彼の服装は隆之から見ても、別に可笑しい服装では無い。
羊毛か何かの毛織のスラックスとジャケット、それに絹──多分この世界に化学繊維はなさそうなので、隆之はそう判断したのシャツを身に着けている。この世界での服は思ったよりも上質なようだと隆之は思った。
「隆之様、お考えに多少の間違いがございますので、修正を言わせて頂きます」
基本的には良い人(?)なのだが、オネットもスルド同様に隆之の魔力の流れから思考を読んだ上で情報を提供してくれる。話は早いのだが、あまり気分の良いものでは無い。
「申し訳ないのですが、私の身に纏っているものは少なくとも人間の治める諸国においては男爵以上の爵位を持つ貴族の近親者であることが着用の最低条件でしょう。まあ、中には男爵のくせに伯爵以上の財産を持つ者もおりますので、一概にそうであるとは断言出来ませぬが、概ねこのように捉えておいて良いものです」
「では、庶民や賤民はどのような物を身に着けているのですか?」
「庶民では麻などの植物性の繊維を使用した貫頭衣や少し余裕がある者は綿入れや毛皮を使用しておりますな。奴隷に代表される賤民は主人の気分次第ですが、中には庶民よりも良いものを身に着けておる者もおりますな。ほぼ若い女性にに限った話ですが……これは申さずとも御理解して頂けますでしょう」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
衣食住に関する質問は最初に予め終わらせていたというのに、出発する最終日になっても未だ分からないことが出てくる。
彼がオネットに聞いた最初の質問は「シャンプーやトリートメントはあるのか? 風呂は毎日入れるのか?」と言う実に下らないものだった。
そのような内容にも関わらず、オネットは「無いことは無いのですが、非常に高価で庶民が使用することはあり得ません。庶民が風呂に貴重な燃料を使用してまで入ることは滅多に無いですね。夏場などは水浴びで済ませることが多いですし、冬場はお湯に浸した麻布で身体を拭うのが一般的ですね」と答えてくれた。
香料の入った洗髪剤があることに隆之は興奮した。無いのであるならば諦めるしかないが、非常に高価でも存在するのであれば、購入すれば良いことだった。
この一ヶ月で分かったことなのだが、スルドが彼の為に用意してくれた支度金は莫大な金額だった。庶民の年収がどんなに頑張っても金貨三枚──国により金の相場が変動する為に凡その目安しか稼げないのに、金貨六百枚を準備してくれていた。
庶民の年収の実に二百年分をスルドは隆之の為に用意していたのだ。
オネットが言うには、生活基盤が成り立たないと他の魔人の元へ走る可能性が高いのでそれをスルドは排除したかったそうだ。隆之もその可能性を否定することは出来ない。人は衣食住足りて礼節を知るものなのだから。
その金貨を月毎に三十枚ずつ、潜伏するヨルセンの村の近くにある【ジゼル】という街にある「両替商」に仕送りとして預けておくそうだ。
月に一度その商家から迎えの馬車を寄越すように手配も完了しており、必要なものはジゼルで揃えるようにとのことだった。しかも、支度金が尽きても彼が他の魔人に捕まるまでは仕送りは続けると彼は断言した。
至れり尽くせりとは正にこのことを指すのであろう。
正直、そんな王侯のような待遇であるとはスルドと初めて会った時のことを思うと予測もしていない事態だったので、隆之が多少浮かれかけたのを見透かしたかのように、
「あまり目立った行動を取りますと、貧しい村でありますが故に疑われますぞ……」
オネットが隆之に念押ししたが、住居は新築に建て替え、下働きを一名付けて彼の身の世話をさせる上にそんな金額を仕送りするという彼に対して隆之は
「今更でしょう?」
と苦笑しながら答えた。
彼の身分は庶民ではあるが、とある高貴な方の御落胤であるとの噂を既にヨルセンとジゼルの街に流布してあるとオネットは彼に告げた。
ジゼルの街の地方役人程度では関わりたくない問題だ。好奇心は時に命取りになる。放置しておくに限るだろう。
彼自身もそうして生きてきたので、気持ちは十分に分かる。
「では、隆之様そろそろ参りますぞ」
オネットが【転移魔法】を使用し、次の瞬間には二人は馬車の中にいた。隆之の正面にオネットが腰掛け、御者が馬に声を掛けて鞭打ち、馬車を走らせる。
近代西洋で使用されていた馬車の作りに似ていたが、このような馬車も身分が高くないと利用できないことは隆之は既に知っていることだった。
彼の服装はこの世界の物に変わっていたが、やはり現代日本で彼自身が身に着けていた物よりも上質な物だった。
(とある大貴族の御落胤として、仕送り生活を送るなんて典型的な駄目人間だな……)
揺れる馬車の中で隆之が考える。これからの生活を前向きに捉え、生き抜かなければならない。
要は他の魔人に捕まらなければ、それなりに楽しい生活を送ることが出来るのである。スルドには彼の平穏な生活を彼が死ぬまで見せ続けてやれば良い。
彼はここまで世話になったオネットにお礼の言葉と最後の質問を口にすることにした。
「オネットさん、この一月の間、大変お世話になりました。本当にありがとうございます。最後に一つだけ聞かせて欲しいのですが、オネットさんは魔人なのにどうして、【魔王の美酒】である俺を自分の物にしようとは考えなかったのですか?」
オネットは口髭を一撫でした後、相好を崩しながら隆之に答えてくれる。
「隆之様、礼には及びませぬ。私は主の命令に従ったまでのことですので。さて、質問に答えさせて頂きますが、私は魔人ではありません。スルド様によって仮初めの命を与えられた傀儡に過ぎぬ物なのです。主には逆らえませぬが、ある程度の自由裁量は与えられております。主は【深淵】におられることが多いので、館の管理を私に全て任せておられるのです。御納得して頂けましたかな? もう暫くで到着いたしますぞ」
オネットが隆之に馬車の窓を開けて見せた。そこに拡がる風景は現代の日本人の感覚では考えられない物だった。
痩せた土地に粗末な小屋が立っている。農耕に使用するであろう牛も年老いた上、飼料が満足に与えられずに痩せ細っている。村は閑散としており、畑仕事に使っている農具が金属製ですらない。村人も栄養が足りていないのが一目瞭然だった。
隆之が見るからに貧しいと感じたのも無理からぬ程にこの村は寂れている。
そんな村の北側に真新しい石造りのブロックで出来た白を基調とした家が建っていた。大きさは現代日本人の感覚で建坪六十坪くらいであろうか。館とまでは言えないが、このような村に似合わぬことこの上なかった。
到着して、馬車から降りるとオネットが隆之に別れの言葉を掛けてきた。
「隆之様、私自身は貴方様が他の魔人に捕まることなく、平穏無事にお過ごしになられますよう心より祈っております。どうか、御自愛下さいませ」
そう言って、オネットは帰っていく。人でないとは言え、オネットの人間味に溢れた優しさに隆之は感激していた。しかし、後ろを振り返り家を見て、
(いや……これは目立つとか言う問題じゃあ無い。ごめん、オネットさん。多分無理だと思う……)
木を隠すのに草原を選んだスルドの悪意が十二分に感じられた隆之はこれから始まる潜伏生活に絶望を早くも抱いていた。




