ベアトリスの想い
各地に放ってある斥候からモール王国王都である【エルダール】より【勇者】を擁した軍勢約十万が出立したとの報告は既に三日前に【暴虐ベアトリス】の元に届いていた。
モール王国軍は王都に少数の兵を残し、一路この【マスタナ】へと進軍しているそうだが、そんなことは彼女には予想の範疇に過ぎない。
「タカユキ、気付いておるか」
未だ夜も明けぬ内からベアトリスはベッドの中で隆之に寄り添いながら彼にだけ聞こえるようにそっと囁いている。
暖炉の火は彼らに仕える女中が火を絶やさぬように交代で見張りをしており、室内は暖かく、仄かな明るさを保っている。
「はい、ベアトリス様……」
彼女の隣で隆之がベアトリスの肩を抱きながら答える。仲睦まじい夫婦の様にしか見えないが、彼らの着衣は乱れてはおらず、唯寝所を共にするだけである。
「モールも愚かなことをするものよ。如何に我らに気付かれまいとしてもあのように明白なものを連れておっては意味もあるまいて……」
ベアトリスは隆之の胸に自らの頭を乗せて彼の奏でる心音を右耳から聞き取っている。一定のリズムを刻む音が彼女の気分を落ち着いた物にしてくれていた。
「【勇者】は魔力の隠蔽が苦手なようですね……」
隆之は自らの胸にあるベアトリスの銀髪の滑らかな手触りを楽しむかのように優しく髪をその手で梳いていた。ベアトリスはそのあまりの心地良さにその琥珀の瞳を閉じて彼のされるがままとなっている。
静かな時がこの部屋に流れ、ここが戦場であることなど忘却の彼方に置き去って行く。
「お主と一緒にしては【勇者】も哀れよ。そなたの魔力隠蔽能力の高さは正直、群を抜いていると言って良い。しかし、こうまでお粗末だと聊か拍子抜けすることも否めぬな」
「そうでしょうか?」
「そなたが魔力を行使するまでは予はそなたの存在に気付けなんだ。あの時にスフィーリアの近くでそなたの魔力を感じた時には歯痒く思ったものよ……」
(貴方に出会う為に望まぬ殺戮に手を染め、それでも尚、貴方は私の元に来てはくれなかった……)
ベアトリスは隆之が竜を撃退した丁度その時、モールで狩を行っていた。虱潰しにモールに対して侵略を行っていたが、一向に手がかりすら掴めぬ状況に苛立っていたものである。
隆之はベアトリスの言葉に自虐の表情を浮かべていた。
あの時のことを後悔していないと言えば嘘になるかもしれない。だが、目の前の救える子どもを見殺しにすることは当時の彼には出来かねることだった。
何よりも子どもが犠牲になって泣く愛しい妻の顔を決して見たくなかった。
だから、あの時に自分の取った行動は正しいと彼は信じている。結果としてあのようなことになってしまったが、妻を取り戻す手段が無い訳ではない。彼はその目標に向かって唯、純粋に力を注げば良かった。
「案の定、モール王国軍は下策を取ることになりましたね。しかし、これが罠と分かっていても彼らには唯一残された勝機に見えることも事実でしょう。彼らの立場に立って考えると無理も無いかと」
「そなたは案ずることは無い。今生の【勇者】の魔力は大した物では無い。精々が爵八位の魔人と同等であろうし、そなたの顕在魔力も既にそれに近いものがある故、後は経験が物を言うであろうな……」
ベアトリスは隆之から離れること無く言葉を続ける。この状態で彼と続ける会話が彼女にとってはどんな宝石も叶わぬ輝きを帯びていた。
彼の優しい言葉と心音が音楽を奏で、その旋律がこの静謐に華を添えている。
彼女は彼が傷つくことの無いように配慮し、戦場を演出すれば良い。例え二千の精鋭が全滅しようとも彼女一人で全てのことは片が付く。
彼女は【魔王の美酒】である隆之を全力で護りぬく決意を固めていた。




