世界の名
成人した男性が純粋な恐怖という感情を抱くことは現代社会において少ないと言える。日常生活の中で生存本能を刺激する体験はまず殆どの男性が経験したことがないであろう。
よって、隆之が現在体験していることは非常に貴重なものであったかもしれない。本人は決して望んではいなかったが、誰も味わえない極限の「非日常」を彼は確かに味わっていた。
(何で俺なんだよ。俺でなくても他の奴で良いだろ。俺が何をしたって言うんだよ……)
訳の分からない物に自らが選ばれてしまったことで、彼の涙腺が緩んで来る。じわりと霞む視界では何も見えない。
【魔人】と言う得体の知れない何かにとって、彼自身が無限に【魔力】を提供するとスルドは言った。
想像の世界でしか聞いたことの魔力なんて物があると言われても、自覚も無い物を認めることは隆之には出来ない。
スルドの言葉から彼女自身は彼を飼うつもりは無いそうだが、それならば何故に彼をこの場に連れてきたのであろうか。
その答えが【宝探し】とスルドは言う。
そんな下らない理由で浚われた自身の身が情けなく、心底不甲斐ないと隆之は思った。
疑問は際限なく彼の脳裏を過ぎていくが、スルドが隆之の行動に対してどこまでを許容してくれるのか。その判断材料が隆之には無い為に彼はいつまでも寝台で苦悩する。
(心の動きで魔力が様々に色づいて煌いている……まるで万華鏡だね)
スルドは思考と連動して動く隆之の魔力の流れに魅了され、機嫌よく彼に話し掛ける。
「【魔王の美酒】、質問はあれだけかい? 僕が人間の為に時間を割くなんて滅多にあることではないから、聞きたいことがあるなら今の内に聞いておいた方が良いよ。後悔の無いようにね」
スルドが言葉を掛けるだけで、隆之は大きく身を震わせる。顔色を蒼白にしているのは出血によるものではなく、彼女に対する恐れから来ているものだ。
震えを押さえつけようと両腕を交差させている彼の姿は彼女が久しく見ない脆弱な人間そのものと言えた。
「大丈夫だって……本気で殺すつもりなんてないんだから。でも、無礼を働いたらちょっとした躾はするからね」
スルドが【魔王の美酒】とは言え、人間如きに気遣いを見せるのは数百年ぶりのことだった。隆之は震えの止まらない身体を抱きかかえて上目遣いに怯えた瞳を彼女に向けてくる。
そんな表情を向けられたスルドは彼を嬲り殺しにしたいという欲求に駆られた。
(駄目だよ……【魔王の美酒】……そんな顔で見つめられたら、殺したくなっちゃうよ。自分に素直で、少し打算的で、必死に今の状況を乗り越えようと考えているんだね。とても可愛いよ。実に君は面白い……)
隆之の下腹部をナイフで裂いて、腸をゆっくりと巻き上げていけば、どれほど素敵な声で彼は鳴いてくれるであろうか。
スルドはその夢想を実現させることを何とか諦める。少し残念だが、致し方ない。
「うーん、どうやら今の君の状態では僕と会話を続けるのは無理かなあ? 君の魔力は思考と深く連動しているし、大まかな考えは僕にも分かるから。だから、勝手に僕の方で君の質問に答えさせて貰うことにするよ」
隆之はスルドの今の言葉に目を見開いて、驚きを顕にする。自分の感情がスルドに筒抜けだったことに気付いた彼は吐き気すら覚えた。
「【魔王の美酒】、君の感情が分かると言ったけど、少しは落ち着いてくれないと困るんだよ。複雑すぎたら流石に分からないからね。じゃあ、一つずつ疑問に答えるね」
幼い子どもに言い聞かせるかのようなスルドの口調は明らかに故意に行っているのであろう。しかし、隆之がその言葉遣いによって少しずつではあるが落ち着きを取り戻してきているのもこと実だった。
(どうしても少女にしか見えないのに、実際には違うのだろうな)
スルドは身長百四十cmに届くかどうかと言った所で、腰まで届く黒絹のような髪を伸ばし、白く透き通る肌をしている。
切れ長の瞳と整った眉こそ眉目秀麗と呼ぶに相応しく、小さな桜色の唇は可愛らしいと言うよりも妖艶と言った方が適っているのかもしれなかった。
人形のような左右対称の顔の造形は隆之に美しさと不自然さを感じさせる。右目の泣き黒子がアクセントとなり、自然とそこに彼は目を奪われる。
今、気付いたことではあったが、目の前の女性は隆之の理想とする女性像だったのかもしれない。まるで神話に登場する完全な美女だったスルドをあの時の彼は少しでも間近で見てみたかったのであろう。
彼女はベールの無いウェディングドレスのような物を身に着けている。ドレスと言っても、一概には纏めることは出来ないのであろうが、隆之の従妹が結婚式で着けていた物に雰囲気が似ていた。
「先ずは、君じゃあないといけなかったんだ。君が【魔王の美酒】であって、あの世界の他の誰かでは駄目だったんだよ。次に僕が君を飼わない理由だけど、僕は王になることに興味は無いんだ。確かに我等が王は全ての魔を統べる。しかし、その代償にその力を維持する為に【魔王の美酒】を必要とするんだ。美酒が死ねば、王もまた七日程で消滅してしまうんだよ。こんな弱点を持つ者をとても強者とは言えないでしょ。だから、君を飼わない。だって、君を飼ったらどうしても君の血が欲しくて堪らなくなってしまうからね。とても美味しくて愛しくなるよ、君は……此処までは良い?」
隆之は既にスルドの言葉を全て真実として受け入れることに決めている。疑っても、疑心暗鬼に陥るだけで何の前進も無いのであるならば、割り切ってしまう方が楽で良い。彼には変な所で割り切る癖があった。
これは彼の長所と言うよりは短所と言うべきであろう。
「うん、いいね。大分落ち着いてきたね。では、何故【宝探し】を始めるかなんだけど、【魔王の美酒】は僕以外の魔人にとっては垂涎の手が届かない存在なんだよ。世界を統べる者の証でもあるしね。誰もが欲しくて堪らない物が僕のすぐ手の届く所にあったけど、僕には必要なかった場合、君ならどうしていた? 」
今のスルドはなぞなぞを得意顔になって言ってくる隆之の甥に雰囲気が似ている。彼はこうした時には答えず、甥の問い掛けに対して分からないふりをしていた。
降参した時の甥の嬉しそうな顔が可愛く思えてならなかったからだ。
「ああっ! また僕を子供扱いしたね! でも良いや、今回も特別に許してあげるよ。答えは既に言っているけど、だから【宝探し】なんだよ。今までは絶対に手に入らなかった王の証が自分の物になるかもしれないんだ。皆、血眼になって探すと思うよ。因みに、今生の【魔王の美酒】が現れたことは他の魔人達には知らせるからね。誰かの奴隷になりたくなかったら必死に身を隠すこと、良いね! 君が簡単に見つかったら面白くも何とも無いから、ちゃんと下準備は済ませてあるから。上手く行けば、そこで平穏に暮らしていくことも可能性としては低くないから頑張ってね。ああ……それと……」
スルドは話を途中で区切り、大人の女性へと姿を変える。威圧感が増した口調で戸惑う隆之に念を押していった。
「元の日本とやらに戻してやるつもりはない。故に諦めろ。自殺など下らぬことは考えるだけ無駄だ。疑うならば、試すが良いぞ。こなたがすぐに修復してやる。そなたが他の誰かの奴隷となり、その者を王とするか、平穏無事に過ごしていくのかはこなたにも予想が出来ぬ。こなたが予知出来ぬ未来はそうは無いでな。精々、こなたを楽しませてくれるが良いぞ、愛しの【魔王の美酒】……」
悪意に満ち満ちた口調が隆之から希望を奪っていく。
(そっか、帰れないのか。父さん、母さん、ごめんな……)
視界は滲んではいたが、涙は出なかった。大人になった彼には泣くという感情は既に難しい。
「今、聞かせて欲しいことがあります……」
隆之の質問に大人の女性と化したスルドは意外だったのか、少し言葉に詰まった。
「ほう……今、そなたの方から質問してくるとは思わなかったのでな。良いぞ、申してみよ」
「この世界は何と呼ばれる世界なのですか?」
彼の質問に対して間を置いてからスルドは大きな声で笑って見せた。
美しい女性が大声で笑う姿を初めて目にした隆之は困惑し、自分の質問の意味を今一度考える。
彼女の笑い声が二人だけの空間に木霊する。
笑い終わった後、スルドは目尻に溜まった涙を拭いながら、ようやく彼の質問に答えた。
「これは済まぬ……そなたは先程、こなたのことを現実と妄想の区別がつかぬ稚児と思っておったようだが、そなたが自分のことを棚に上げておるのが可笑しくてのう……ついぞ、笑ってしもうたわ」
スルドが切れ長の瞳を細めて言葉を続ける。
「世界は世界であろうに。他にどんな呼び方が在るというのだ? 他の呼び方が無い訳では無いが、所詮は地域の言葉の違いによるものでしかない。それもそなたには【世界】としか聞こえまいがのう。言ったであろう、下準備は出来ておると。そなたがこの世界で言語に困ることは無い。全ての言語が自動的に翻訳されてそなたの脳に伝達される。『まさか、そなたが未だ現実を受け入れず、空想の話の中とでも思っておるのか?』と疑えば、可笑しいと思うのも当然であろう。此処は紛れも無い現実じゃ。もう二度は言わぬ、諦めるがよいぞ」
スルドは話し終えると隆之に近づいた。そして、腰を屈めて彼の顔覗き込みながら彼の左頬を撫でた。
愛おしい【魔王の美酒】は誰の物になるのかは彼女にも分からない。
【傲慢クラリス】、【怠惰シンクレア】、【暴虐ベアトリス】、【聖女アナスタシア】、【欺瞞イリス】の誰かが今生の【魔王の美酒】を手に入れ、魔王へと覚醒するのであろう。
「ふう……長々と話してこなたも疲れた。【魔王の美酒】、この世界の案内は僕にさせる故、寝て過ごすなり、今後のことを考えて過ごすなり、そなたの好きにするが良い。また会わぬほうがそなたの幸せであろうが、何れまた会おうぞ……」
スルドは長話に少しの疲労を覚え、隆之に告げた後に【深淵】へと姿を消して行った。彼女は久方ぶりの楽しい一時に良い夢を見られそうな気がしてならなった。
(人間を愛玩する【怠惰シンクレア】の趣味も他の者が言う程、悪くないのやも知れぬ……)
彼女が虚空に消えた後、一人残された隆之は呆然と彼女の消えた場所を見続けていた。
【深淵】の中でスルドはまた眠りに就く。そこで彼女は夢を見る。
その夢は一人の男が抗い、諦め、決意していく物……
もがき苦しんで、時の流れによって変えられていく様は煌く星の瞬きのようで、それはそれは楽しい「予知夢」であった。