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魔王の美酒  作者: 白起
魔王の美酒 奪還編
15/88

平穏との別離

(皆を見捨てて逃げるなんて俺には絶対に出来ない……エリーナを人質に取られたとしても、村の安全を買える最初の方を選ぶべきだろう。でも、エリーナを奪われるなんて無理だ! 耐えられない!)


 隆之はシンクレアに対して返答が出来ずにいた。当り前だ。彼の望みはシンクレアの望みと掛け離れているのだから……


「【】、無言を続けるのも構いませんけど、奥様をもう少し気に掛けるべきではなくて?」


 収めた日傘を配下に手渡し、扇子を取り出したシンクレアがその口元を隠して隆之に告げる。彼には彼女の言葉の意味が分からない。だが、言われるままに妻のエリーナの方を向いた。

 彼にとっての絶望が其処そこにはあった……

 彼の妻は一瞬にしてシンクレアの作り出した【魔力障壁】に包まれ、まるで透明な棺に安置されているかのようだった。穏やかな表情はまるで眠りに落ちているとしか思えない。

 その術式が展開されていることに気付けぬほどに、隆之とシンクレアの魔力行使の実力差が眼前に示されていた。


(ナニ? コレ?)


 隆之には訳が分からない。現実は何時いつも彼にとって過酷であり、時間は有限である。

 彼が逡巡しゅんじゅんする間に彼の妻であるエリーナは既に魔人の手に落ちていた。


「貴方が、選択をし易いように少し気を使ってあげました。最初から貴方には後者を選べるとは思ってはおりませんでしたから……わたくしは貴方の奥様を閉じ込める為にわたくしの持つ全魔力を今使い果たしたところです。【】、貴方に新たにわたくしたおし、わたくしの可愛い玩具おもちゃを全滅させるという選択を与えましょう。これを選択される場合には村人には危害を加えぬことをこの場で約束致しますわ……さあ、お選びなさいな!」


(エリーナ……何故……君が……そんな……ところで……寝てるの?)


 別離の言葉すら言わせぬ魔人の戯言ざれごとなど聞き飽きた。

 彼の魔力がゆっくりと、ゆっくりと顕在していく。【無限】の魔力があると言うのならば、何故なにゆえ魔人をたおせない。

 顕在が有限であるならば、そこに何の意味があると言うのだろう。

 彼の瞳は金色となり、溢れる魔力の奔流が大地を震わす。


「エリーナを返せぇぇぇ!」


 絶叫と共に隆之がシンクレアに襲い掛かる。全ての元凶である魔人を殺せば、彼女は帰って来てくれる。確かに選びやすい選択肢をシンクレアは隆之に与えたのかもしれないが、彼の刃が彼女に届くことは無かった。

 隆之の背後から忍び寄ったカーネルが彼を蹴り飛ばす。

 カーネルは倒れ込んでしまった隆之に容赦なく追撃を与えていく。攻撃への予備動作は極力削がれ、的確な攻撃のみが隆之に与えられた結果、隆之は遂に地を這うこととなる。

 隆之の虚ろな瞳に憎むべき魔人と最愛の妻の姿が見て取れた。

 隆之は必死に立ち上がろうとしても、身体の至るところが悲鳴を挙げて呼吸すらままならない。腹部を強打され、嘔吐と咳を繰り返し吐き出す。


(このままじゃ……終われない……エリーナを……みんなを助けなきゃ……)


 朦朧とする意識の中で、隆之が出来た唯一無二の方法が絶叫を挙げることだった。人はそれを犬の遠吠えと評する。


「【】、貴方は交渉と戦闘がつたな過ぎますわよ……」


 シンクレアが隆之を見下してそう告げる。

 隆之は立ち上がろうとするも、近づいてきたカーネルが懐から出したナイフで以って、その四肢を地面に縫い付けていく。

 そして、想像を絶する痛みに再び隆之が先ほどのものとは種類の異なる絶叫を挙げた。

 隆之は傷口が広がるのをいとわず、獣のような叫び声を挙げながら、必死の抵抗をしている。

 彼の流す血は自然の摂理せつりに逆らって、ゆっくりと球体を作り出していく。その球体をシンクレアは拾い上げ、ゆっくりと口に運んだ。

 枯渇したはずの魔力が一瞬で回復し、更に膨大な魔力が溢れてくる。


「ああっ……【】……遂に手に入れた……」


 夢にまで見た【おうしゅ】と言われる彼の血に酔いしれたシンクレアが隆之に近づき、彼は彼女の魔力によって捕らえていく。隆之は閉じ込められていく中で、シンクレアにすがった。


「お願いします……エリーナだけは助けて下さい……」


 隆之は恥も捨て、目の前の化物に嘆願たんがんする。彼は自分はどうなっても良かった。


(俺の望みはただ、エリーナの幸せだけだったのに……)


 シンクレアは涙を流しながら哀願する隆之の姿を見て、慈愛に溢れた言葉を掛けることに決めた。

 取るに足らぬ人間の中から数百年に一度存在するも所詮は弱く、脆い存在に過ぎないことを認識したシンクレアは隆之をより深い絶望に落とすことに愉悦ゆえつを覚えていた。


「大丈夫ですわ、【】。貴方は私の領地に戻り次第、元に戻してあげますから。奥様のことも何の心配なさらなくても宜しくてよ。老いることも無く、美しいままの彼女を何時いつまでも愛でるが良いでしょう。では、そろそろお休みなさいな……」


 シンクレアの言葉を隆之は最後まで聞くことも適わず、その場には結晶化された魔力が残されただけだった。


呆気あっけない幕切の上に人質を取るなどして後味も悪いですわね。カーネル、もう少し上手くできなかったのかしら?」


 シンクレアは再び全魔力を消費したせいか、その息が乱れている。本来なら倒れて寝込んでいる筈なのだが、部下の前でそのような恥辱は耐えられぬのか途切れそうになる意識を何とか保ち、気丈に振る舞っていた。


「私に全て任せた上はこうなることは予想されていたはずですが?」


 黒い鎧に全身を覆われたカーネルが彼女の質問に答える。彼にとっては最小のリスクで最大のリターンを得たと思っている。過程等はこの際問題ではない。

 こちらの勝利条件が「【】を捕獲した上で彼の魔力を高める為の同胞殺しの最上の理由を与えること」なのだから、戦果としてみれば十分な勝利と言える。

】の妻に掛かった【魔力障壁】はシンクレアの全魔力が込められている為、今の彼では彼女を取り戻すことは叶わない。

 彼には爵三位以上の顕在けんざい魔力まりょくを手に入れる必要が有り、その条件は同じ人間をその手に掛けて彼らの血を浴びることだ。

 己の妻を取り返す為には彼は自らの手を血に染めることも躊躇ためらわないだろう。


「結局、彼はこの村と自分の妻に愛着を持ち過ぎました。彼は自らを護る為には切り捨てる必要があったのです。それを選べないと言うことは将になれる器でないことは言うに及ばず、兵としても難しいかもしれません」


 カーネルが部下達に拘束されて運ばれる隆之を見送りながら呟く。

 その彼の姿が無性にカーネルの憐憫れんびんを誘った。約定通りに解放された村人たちは運ばれていく彼らをどのように思っているのだろうか。


「シンクレア様、彼の望みは叶うのでしょうか?」


「難しいですわね。【】の妻はわたくしの全魔力による【魔力障壁】に覆われてますから。彼が彼女を取り戻すには少なくとも【勇者】及び【英雄】の両名をたおすか、しくは爵六位以上の魔人を斃すことが最低条件でしょうね……仮に出来たとしてもその頃には彼も年老いて直ぐに寿命を迎えるでしょう」


 その現実離れした未来を語るシンクレアは実に楽しそうであり、彼女が想像するのは「自身は老いて醜くなるも、必死で美しい妻を取り戻そうと足掻き狂う隆之の姿」だった。

 例え、死ぬ間際にエリーナを開放したとしても、2人で過ごせる時間は余りにも短く、老いて醜くなった隆之をエリーナが拒絶するならばシンクレアに言うことは無いほどの愉悦を与えるであろう。


【上級魔人を斃すことは人間には不可能】


 カーネルはそのことを他の誰よりも理解している。いずれは【】の想いも時の流れと共に風化していくだろう。

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