怠惰シンクレア
隆之が竜を撃退してから一週間が経った。
隆之とエリーナは普段通りに食事を終えたのでこれから畑に行くために野良着に着替えるところだった。
彼らの準備が整ったところで、不意に戸を叩く音がした。朝の来客はとても珍しく、隆之とエリーナには誰が尋ねてきたのかは予測がつかない。
「エリーナ、良いよ。俺が出るから……」
隆之が戸を開け、客人を中に招き入れようとすると戸の前に見知らぬ女性が立っていた。
貴族と思わしき赤いドレスを身に着け、優雅に日傘をさしているその女性は煌めく金髪を腰まで伸ばし、宝石のような翡翠色の瞳で彼を見つめている。その姿は神々しいまでに美しかった。
隆之はその場を動けず、この女性を家の中に招こうともしない。彼にはこの女性の印象がある人物と非常に似ていることに警戒心が湧いた。
立ったままで何も話そうとしない隆之に代わって女性の方から彼に挨拶する。
「初めてお会いしますわね、【魔王の美酒】……私の名前はシンクレア、【爵三位貴妃シンクレア】と申します。仲間内からは【怠惰】とも呼ばれておりますわね。貴方の御想像されている通り、私は魔人の一人です。お目に掛かれて光栄に思えますわ……」
突如として告げられたこの魔人の一言が彼を奈落に突き落とすことになる。
◆◆◆
「見つけましたわよ、【魔王の美酒】! 愛しい【魔王の美酒】! まさか、一年余りで見つかるなんて思ってもいませんでしたわ……」
この屋敷の主である【爵三位怠惰シンクレア】が突然叫んだ為に、カーネルは主の為に用意していた紅茶にミルクを入れ過ぎるという普段の彼からして見れば、信じ難い失態を演じてしまうこととなった。
「今生の【魔王の美酒】は魔力制御能力に非常に秀でていると推測しておりましたが……」
執事服に身を包んだカーネルが紅茶を煎れ直し、主の前に置く。シンクレアは普段と違って彼に礼の言葉も掛けずにその紅茶を一気に飲み干した。
実に優雅さの欠片も無く、彼の主に似つかわしくない姿だと彼は思う。
「それで正解ですわ、カーネル。今生の【魔王の美酒】を見つけることは不可能だと、何の手も講じてはおりませんでしたもの。北の【暴虐ベアトリス】が虱潰しにモールを探しているようでしたが、あのような優雅さの欠片も無い行為をするだなんて私には全く持って似つかわしく無いでしょう?」
「紅茶の一気飲みも優雅さが見受けられぬと思いますが……」
カーネルはふうっと息を漏らし、主に対して呆れた表情を見せる。
「今のは見なかったことにして下さると嬉しく思いますわ、カーネル。私のお願いを勿論貴方は叶えて下さいますでしょ?」
「畏まりました、お嬢様」
カーネルがシンクレアに対して、右手を胸に当てて優雅に一礼する。洗練された動作にシンクレアもカーネルにだけはどうしても甘えた声で擦り寄ってしまう。
「お願いことはもう一つありましてよ。そちらも貴方にお任せして宜しいかしら?」
「少々策を弄することになりますが……お嬢様は本当に宜しいのですか?」
「構いませんわ。今回ばかりは無策で挑む訳にも参らないでしょう。今一度潜伏されてしまっては手の打ちようが有りませんもの。考えてもごらんなさい。人間など高々五十年しか生きられませんのよ。これは【魔王の美酒】であっても例外ではありません。【明星のスルド】様より連絡は受けましたけれど、これだけ魔力の隠蔽能力が高いと老人ではないかと疑ってしまいます。一度逃げられたら最後、私が【魔王の美酒】を手に入れる機会は二度と無いでしょうから……」
「ではヨルセンに配下の者を遣わし、準備を終わらせることとしましょう。一週間程お時間を頂きたく思いますが宜しいですね」
「貴方に全てをお任せします。勿論、貴方のやり方は十分に承知した上でのことですのでご安心なさい」
赤髪の少女と見紛うばかりの美しい青年はゆっくりと後退し、ドアの前でシンクレアに許可を取ってから退出する。部屋を出た時には既にその顔は冷徹な物に変貌していた。




