狡猾な召喚
その日、営業先への見積書をようやく完成させた毛利隆之はその書類を課長に提出した後に帰宅することにした。
残業は特に珍しいことではなかったが、腕時計の短針が十一時を指しているのを見ると自然に彼の口から溜息が漏れる。
先月納車されたばかりの愛車のエンジンを掛けると同時に彼のお気に入りのミュージシャンの曲が流れて来た。
会社から自宅までの道程は車で凡そ三十分程度掛かる。その帰宅時間に合わせて終わるように編集してあるそれは彼のちょっとした自信作でもあった。
彼は昨日に二十六歳の誕生日を迎えたが、祝いの言葉を述べてくれたのは少ない友人と両親だけであり、今現在において彼に恋人と呼べる女性はいない。それを少し寂しいとも思ったが、恋愛以外に楽しみを見付けられない訳でもないので、特に気にしてはいなかった。
(帰ったら、昨日スーパーで買っておいた鶏肉でも叩いて、白菜と椎茸で鍋にでもするか)
既に点滅をしている信号に捉まることはほぼ無く、順調に自宅のアパート周辺まで帰ってくることができた。曲の方も最後の一曲が流れ出している。
昼食は菓子パン一個とコーヒーだけだったので、彼の胃袋は先程から悲鳴を上げていた。
帰路の途中で見えるコンビニのおでんの誘惑をなんとか振り切り、やっとの思いで此処まで辿り着くことが出来たのだから、もう少しだけ我慢することを彼は決める。
隆之が左折ウインカーを出した後にハンドルを切ると、歩道の片隅で一人の女性が蹲っているのを見つけた。
彼は放置してそのままにしておくのも後味が悪いと思い、声だけは掛けることに決める。
左側の歩道際まで車を寄せて停車し、助手席側のウインドウを手元で操作する。半ばほど下げてから彼女に話し掛けた。
「大丈夫ですか」
「いえ、ヒールが折れてしまって……足を挫いたみたいで動けないです」
彼の声に反応して、女性はゆっくりとその顔を上げてから答えた。
黒い髪に隠れて良く見えなかった顔が街灯の光に照らされた瞬間、隆之は息を飲んだ。
純粋な美と表現するべきであろうか。
その相貌は彼に今まで経験したことの無い衝撃を与えた。少しずつ、少しずつ、鼓動が早くなっていくのを感じたが、無理矢理に呼吸を整えて彼は思考する。
(こんなに暗くて、人通りの少ない場所で蹲っていたら危ないだろうな。それにしても、ヒールが折れて足を挫く人なんて本当に世の中に存在したんだな……)
最後にどうでも良いことを考え、隆之は気持ちを切り替えた。
彼には今までこのような美女とは縁が無かったが、これからもきっと無いだろう。隆之は『人は身の丈にあった生活を送るべき』を信条としていた。
彼は車のエンジンを切らないままにハザードランプを点灯させてから車を降りてゆっくりと歩み寄る。
街灯が照らす薄暗さの中で彼が彼女の足を見てみると、確かに右足のヒールが折れているのが分かった。しかし、挫いたという右足には腫れが全く見受けられない。
(絶対に、金の掛け方が違うよな……)
白磁の如き彼女の足の美しさに彼は溜息すら漏れそうだ。
「痛みますか?」
隆之が背広のポケットからボールペン2本とハンカチを取り出し、彼女の患部と思わしき部分を固定してから訪ねた。
「お気遣いありがとうございます。幾分かはましになりましたが、やはり立てそうには無いです」
「救急車を呼びましょうか」
隆之は彼にとっての最善策を彼女に提案した。しかし、彼女の答えは彼の予想を悪い意味で裏切るものだった。
「病院に行く程では無いとは思います。誠に申し訳ございませんが、私の家まで送っては頂けないでしょうか」
この時、彼は彼女に声を掛けてしまった過去の自分を殴ってやりたくなった。何故、放って置かなかったのだろう。
(名前も知らない初対面の男に自宅まで送らせるなんて常識の無い女だな。今までその顔のおかげで男からさぞかしチヤホヤされて来たんだろうよ。自分のお願いを男が断るなんて夢にも思って無いのかね……)
しかし、彼がそう思っても、一度車を降りて声を掛けてしまった以上は諦めるより他は無い。彼は彼女を彼女の自宅まで送り届けることを渋々決めた。
「分かりました……じゃあ、御自宅まで送りますから、道案内をお願いできますか? すみませんが、車までは頑張って歩いて下さい。肩を貸しますから」
「お言葉に甘えさせて頂きます」
女性が隆之の肩に手を掛けて立ち上がる。すると、ふわりとした爽やかな芳香が彼の鼻をくすぐった。
(はあ……匂いも良いんですね。まあ、当然と言えば、当然かな……)
彼には香水の種類等は分からない。それに興味も全く湧かないが、綺麗な女性から良い香りがするのが自然なのだと苦笑した後に彼は納得することにした。
肩を組み合った二人はゆっくりとした歩みで車を目指した。
やっとの思いで隆之が彼女を助手席に乗せると、運転席に戻った彼は懐から名刺入れを取り出し、中に入れてあった運転免許証を彼女に手渡した。
「一応、お渡ししておきます。貴女も今日初めて会った男に自宅を知られるのは不安でしょう。お暇する際に返して頂けたら結構ですから」
「毛利隆之さん……」
ぽつりと呟く彼女は彼に名乗ることも無く、じっと運転免許証を見つめたままだ。
彼がシートベルトを締めた後にハザードランプを消す。車のエンジンを掛けると、メーターが振れた。
「では……案内を宜しくお願いしますね」
一言そう声を掛けてから隆之が車を発進させる。
彼女は時折、隆之に指示を出すだけで後は何も話さない。音楽も消してあり、車内は沈黙に包まれていた。
気まずい空気の中で、隆之は運転の途中で何度も彼女の横顔を覗き見た。ストレートの黒髪に隠されて、あまり良く確認は出来なかったが、切れ長の眼が強く彼の印象に残った。
20分程かけて彼女の自宅と思わしきマンションに到着した。コマーシャルで放送されている最大手の建設会社が分譲したタワーマンションが彼の目の前に聳え立っていた。
隆之の想像通りに彼女は彼とは住む世界の違う人だった。
悲しいかな、現実はドラマとは違う。これが切欠となって二人の間に恋などは生まれたりはしない。隆之にとって、彼女は出来る限り近づきたく無い世界の人だからだ。
自分の車を高級車ばかりが並ぶ駐車場に停車した時に感じた惨めさは彼には何とも言えなかった。
隆之には良く理解出来ないセキュリティシステムを彼女が解除する。
「どうぞ、こちらへ……」
彼女の案内の声に誘われるままに彼はエレベーターに乗り込み、あの独特の沈黙と気まずさに懸命に耐えていた。
ようやく彼女が、
「あの部屋です」
と、奥の部屋を指差した時には彼の心は開放感で一杯だった。正直、もう彼には限界だった。
「じゃあ、後は御自分で何とかして下さい。後、免許証を返して貰えますか」
今、彼女の左手の中にずっとあった運転免許証が隆之の手元に返って来た以上、此処に留まる理由は既に彼には存在しない。
「それでは、お大事になさって下さい」
彼が踵を返すと、背中から彼女が声を掛けて来る。
「お待ち下さい。ここまでして頂いて、何のお構いもしない訳には参りません。どうぞ、お茶でもお召し上がりになって下さいませ」
隆之はその声に慌てて振り返り、我が耳を疑った。
(この女、何考えているんだ。普通この状況で得体の知れない男を自分の部屋に招くか。マジかよ……)
「いや、お気持ちだけで十分ですから……」
隆之がやんわりと断ったが、彼女も譲らず、このままでは押し問答になると判断した彼は彼女の提案を受け取ることに決めた。
「分かりました……頂くことにします……」
彼女は隆之の言葉に微笑みながら、彼を自宅に招き入れる。
彼が部屋の中に入ると、自動で明かりが灯っていく。隆之は最近の技術の進歩に軽い感動を覚えながらも沈黙を保ったまま、応接室に案内されていった。
お茶の準備をすると告げた彼女が席を立ち、一人残された隆之は応接室の調度品に眼を奪われた。広々とした空間に絶妙に配置された調度品の数々は芸術に疎い彼にも名のある作品だと分かった。
柔らかい本皮のソファーに沈み込んでいくように座りながら、大人しく彼女を隆之は待ち続ける。
「お待たせいたしました」
彼女がおそらく大理石であろう材質の脚の短いテーブルに紅茶とお茶請けを置いた。
隆之には勿論、紅茶の種類等全く分からない。しかし、これも高級茶葉を使用した物であろうと適当に当たりを付けた。
「では、頂きます」
軽く会釈をしてから、彼女の淹れた紅茶に手を伸ばす。
「この度は、誠にありがとうございました」
彼女がお礼の言葉を述べてくるが、隆之の本音を言うならば、お礼の言葉よりも一刻も早く帰宅させてくれる方が有難かった。
芳醇な香りが彼の鼻腔を心地よく撫で、口を付けると自分が普段良く飲む自販機の紅茶とは比較にならない旨味が口じゅうに拡がっていった。
幾度もの選別を勝ち抜いた至極の一品を一気に飲み干すことに隆之は軽い罪悪感を覚えるも、喉を鳴らして紅茶を飲んだ。
そんな彼を彼女はじっと微笑みを湛えながら見ている。
「御馳走様でした」
隆之が紅茶を飲み干し、ティーカップを置くと、彼女は満足そうに彼に告げる。
「今に至るまで、名乗らなかった無礼をお許し下さい。申し遅れましたが、私の名はスルド、【爵一位王妃スルド】と申します。仲間内からは【明星のスルド】と言われております……」
突然の彼女の言葉に隆之は状況が良く理解出来なかった。
(何言ってんの、この女。頭がおかしいのか? 冗談か? とにかく、これ以上は関らない方が良さそうだし、さっさと帰ろう)
隆之は社交辞令だけ述べてから退散することに決める。彼は立ち上がろうとするが、突然目の前が暗くなり、彼の全ての感覚がゆっくりと失われていった。
「お迎えしますよ、【ビスケス】。我らが【魔王の美酒】であるそなたを最高の玩具として御持て成しすることに致しましょう……」
スルドと名乗った女性は隆之とは対面にあるソファーから立ち上がると、底冷えのする視線で彼を見下ろし続けた。
その瞳に慈悲は無く、冷酷な狂気を湛えていた。