前夜祭
戸山祭OBOG合同誌「ペソタグラム」に寄稿したものです。
多恵は文化祭の前日の雰囲気が好きである。掲示板や中央階段に出し物のポスターが所狭しと貼られていて華やかだ。教室が風船や色紙で飾られていく。金管楽器の音が聞こえる。真剣が入っているであろう刀袋がいくつもまとめて持ち運ばれている。どこかの学級の生徒達が演劇の大道具を運んでいる。
張りぼての岩を避けて壁にはりつき、多恵は両腕に抱えた部誌の束を抱え直した。部室と文学部区画との往復もこれで最後である。
文学部に区画として割り当てられた教室は、他の教室に比べて殺風景だ。何かで飾るでもなく、文化祭仕様に引き戸を取り外された入り口は少々寒々しい。
中では準備が進んでいた。
「これで最後だよ」
「お疲れ―」
設置された長机に部誌の束を置く多恵に声をかけた女子生徒は、机をいくつも並べた上に過去の部誌を並べていた。そこには椅子も数個添えてある。閲覧用の場所である。
長机の上には部誌がまとまった数積まれている。全ての部誌を机に積むわけにもいかないため、大半は教室の隅に在庫として置かれている。
部誌の隣には、装丁がばらばらな冊子が数種類積んであった。その数もまたまちまちである。有志の部員がめいめいで作った冊子だがこれらは内輪で「個人誌」と呼ばれる。今年は種類が多いな、と多恵は内心思う。かく言う多恵も薄い冊子を限られた数ながら作り、その中に並べてある。
「部誌、もつかな」
ぽつりとあらぬ方向から投げられた呟きに彼女は応じる。
「去年は二日目で全部なくなりましたもんね」
「今年は何冊増刷したんでしたっけ」
いつの間にか椅子に座って数年前の部誌を読みふけっていた女子生徒も口を挟む。
「五十冊。足りればいいけど」
呟きの主であり、冊数を答えた男子生徒は白墨を持って黒板に向かっていた。黒板の中央には明朝体を模した字体で大きく「文学部」と書かれている。彼はその余白に文字を書き込んでいた。「吾輩は猫である」「メロスは激怒した」「山椒魚は悲しんだ」と書いたところで手を止め、何やら考えている。
「先輩、最近の小説の書き出しは書かないんですか」
「それ俺の専門外だから誰か書いて」
「あと参加型企画とか黒板でやらないんですか」
教室の隅に追いやられているいくつもの刀袋から日本刀を取り出し、目録と照らし合わせて点検していた女子生徒が会話に入る。日本刀と並んで長い柄に装着されたなぎなたも並べられている。
「例えば?」
「しりとりとか」
「しりとりなぁ。ちゃんと続くかな」
相変わらずぼそぼそと口中で言いながら、彼は黒板に書き足した。「私はその人を常に先生と呼んでいた」。
「あれ、足りない」
「足りない?」
「目録と数が合わないんですよ」
眉間にしわを寄せた女子生徒から目録を手渡された多恵は、並べられた日本刀を眺め回して彼女と同じように顔をしかめた。日本刀にも種類がいくつかあるのだが、その種類と数が合わない。
「ほんとだ、足りない」
「漫研の方に紛れ込んでるんじゃない?」
振り返りもせずに言う男子生徒に顔を向け、多恵は口を尖らせる。
「部長、確認しに行ってくださいよ」
「俺ちょっとこっちの作業で頭いっぱいだから」
これだから文学青年は、と胸中で毒づいて多恵は目録を持ったまま教室を出た。今年の漫研区画はどこの教室だったか、と掲示板に貼られた案内を見る。三つ隣の教室だったのでそちらへ向かうと、丁度漫研の友人が同じように目録を持って出てくるのが見えた。
「志穂―、うち直刀一本足りないんだけど」
「やっぱり。うち一本余ってたから多分それだわ。あと剣二個多いんだけど」
「それ多分うちのじゃないよ。新聞部と放送部は?訊いた?」
「いや、まだ。今から訊いてくる」
ひらひらと片手を振った志穂が上階に上がっていくのを見送り、多恵は漫研に割り当てられた教室を覗き込んだ。入り口の机上には部員の絵を集めた画集が並べられている。間仕切りも教室内に立てられ、それらには単体の絵が飾られていた。教室前側の黒板には文学部と同じように「漫画研究部」と可愛らしい字体で大きく書かれている。また、隅に武器類がめいめい袋に入って鎮座している点も文学部と同じである。
そして後ろ側の黒板には大きな模造紙が貼られていた。太い筆でいささか右上がりに書かれた文言を多恵は見つめる。
自由を騙れ
その文言は文学部区画にも貼られている。同じ文言が新聞部、放送部にも残されているのを多恵は知っている。それらは全て筆跡が異なる。十五代前の先達たちが書いた言葉だ。
高校に入学、そして文学部に入部して以来二年間、度々眺めてきたその言葉を再度確認した多恵は、直刀と呼ばれる種類の日本刀を一つ貰い受けて文学部区画へ足を向ける。
現代に続く表現の規制は、児童わいせつ表現禁止法の改正に始まる。
青少年の健全な育成のためと銘打ち実在の人物だけでなく架空の人物を用いた性描写を規制することをきっかけとし、続いて暴力表現、犯罪描写、その他青少年に有害とされる表現を次々と規制。また、公共の福祉に反するとして思想の統制も開始された。
そんな状況に異を唱えたのが、十五年前の文学部、漫画研究部、新聞部、放送部の部員たちであった。
社会を変えるほどの力を持たなかった彼らは、それでもこの学校における自由を守ろうとした。そのため今でも、この学校に在籍している限り生徒たちは三年間自由に書き、描き、語ることができる。
彼らはそれでも、その自由を本当の自由とは認めなかったという。社会に出れば縛られる、それまでの猶予期間でしかないと。だから自分たちはこれを「自由」だと騙っている、自分たちを誤魔化しているのだと。
残された「自由を騙れ」の文言は、それぞれの部活の部長たちが書き残したものだ。彼らの代では、まだ「語れ」はしなかった。それは騙るものでしかなかった。だからいつか、後輩が「自由を語れ」を書き換えられる時代が来ればいい、そんな時代を作れればいいと、彼らのうち一人が話していたという。それは恐らく、その一人だけではなく、四人の部長、そして彼らとともに戦った部員たちの総意であっただろう。
しかし彼らの願いは、いまだ実現するには至っていない。逆に規制は強化される風潮にある。
九年前、規制に賛同する団体が文化祭を妨害。翌年より本格的な攻防が始まる。妨害が過激になるにつれ、前述の四部は彼らの行動に賛同する人々の支援を受け、対抗できるよう武装化した。
そして現在、文化祭前日には大規模な攻防戦が繰り広げられるのが恒例となっている。
一般生徒の下校を促す放送を、多恵は屋上で聞いていた。制服を着た生徒たちが眼下を通過していく。正門前には簡易防塁が設置されつつあった。一般生徒が完全に下校してから最後の仕上げをするのだろう。
指定の運動着姿で角材や木箱を運んでいるのは攻防に加わる生徒たちである。四部活だけでは人手が足りないため、例年運動部を中心に人員を募っているのである。
協力を仰ぐのは運動部だけではない。
「お疲れ様でーす」
しわだらけの白衣を引っ掛けた男子生徒が、大きな箱を抱えよたよたと屋上に入ってくる。弓袋に収めたままの大弓を寝かせ、矢の数を数えていた多恵は彼を振り返り、片手を上げた。
「お疲れー。ありがとね」
「いやー重かったぁ」
大儀そうに箱を運んできた男子生徒は、それでも慎重に箱を下ろした。そしてそのままへたり込む。
「情けないなぁ、男子のくせに」
「日本刀持って走り込みやってる自称文化部と比べるなよ、うちは本物の文化部だぞ」
苦言を呈する彼の横にしゃがみこみ、多恵は箱の中を覗き込んだ。ぱんぱんに膨らんだ色とりどりの水風船がぎっしりと詰まっている。
「ここで割るなよ、涙と鼻水が止まらないまま撃ち合うことになるから」
「ってことは去年と同じ催涙弾だね」
「ただし前年比、効果増し増し」
にや、と笑う彼は化学部の部員である。まだ防衛もままならなかった頃から、学校の備品でできる防衛策として薬品は使用され、同時に例年四部活は薬品に詳しい化学部にも協力を仰いでいる。
「本当は酸とか撒きたいんだけどね、水風船が溶けそうだし予算の兼ね合いもあってそれがなかなか難しくて」
「いやあんまり殺傷能力高められても困るんだけど」
「え、なんで」
「装備が劣る高校生がせめて校内での表現の自由だけでも守ろうと健気に戦う構図が一番いいんで」
笑顔が腹黒くなっていく彼に多恵は釘を刺した。男子生徒の笑顔が怪訝に曇る。
「あくどくない?」
「過剰防衛できないってこと。むしろ劣勢からの辛勝の方が娯楽性高いというか」
「娯楽性求めんの? 防衛戦に?」
「そりゃまあね」
弓を引く際にはめる手袋の一種である弓掛けを右手にはめながら、多恵は口の端を歪ませて笑った。
「文化祭の『前夜祭』が話題になれば世間も動くかもしれないから」
定刻の鐘が鳴る。日も落ち空は薄紫色に薄暗くなってきた。防塁はすっかり正門を塞ぎ、校舎までの通行を妨げる形で設置を終えていた。この時間ともなれば一般生徒も既に下校を終えているだろう。
「表現の自由を唱えて大騒ぎするのも、そうやって外部の人に宣伝するのも、目論見の一部だからね」
「じゃあ殺さないようにね」
さらりと男子生徒が言った。その言葉に少々面食らい、揺らぎそうになった表情を多恵は慌てて引き締める。薄闇に、少しは紛れただろうか。
「まさか、殺さないよ。殺傷能力は弱めてあるし」
弓の殺傷能力は弱めてある。日本刀やなぎなたも、言ってしまえば模造刀だ。本物の戦争などできるはずもない。そもそも人を殺してしまっては元も子もなくなる。世間に叩かれ、問題提起も何もなくなってしまうだろう。そしてこの学校においても何も言えなくなる。
「それならいいんだけど」
「だいたい今更言われるようなことじゃないし」
「はいはいそうでしたね」
「校内の罠の設置は終わったの?」
「うんちょっと見てくる、そんでそのまま防護室行くよ」
準備は手伝うが攻防に直接参加することのない、いわば裏方の生徒たちは例年防護室で待機している。多恵に追い立てられるようにして屋上を後にしようとした彼は、不意に扉の前で振り返り真顔で片手を上げた。
「無事でな」
「うん」
その短いやりとりの中で、多恵は改めて気を引き締めた。
屋上の準備も整いつつある。大弓の射手たちが各々の弓を手に集まっている。矢が大量に準備されている。簡易催涙弾を詰めた箱の前で先ほどの男子生徒とはまた違った化学部の部員から説明を受けているのは、球技系の運動部部員たちだ。この屋上から相手に向かって催涙弾を投擲するのである。
「水野」
姓を呼ばれた多恵が振り返ると、腰に太刀を下げた男子生徒が彼女の方へ歩いてくるところだった。
「部長」
「調子は」
「普段通りです」
「それはよかった」
相変わらず口の中で呟くように答える文学部部長は、周囲の生徒たちとは異なり制服をきっちりと着ていた。首元まで釦を留めた学生服に太刀が映える。
「これが終わればやっと代替わりだなぁ」
「そうですね」
「次期部長は決まってるの?」
「まあ、だいたい」
そう、と彼はぼんやりと相槌を打つ。
「とりあえず次期が君たちの誰であろうと心配はしないよ」
「ありがとうございます」
「俺は精々最後のお勤めを果たすとしよう」
ぼやけた笑いを浮かべる彼は頼りなさそうで、だが多恵は何も疑いはしなかった。
昨年、見たのだ。この頼りない文学青年が獅子奮迅の戦いをするのを。双眸を炯々と輝かせ、今腰に佩いている太刀を振るい。
それだから、多恵は背筋を伸ばした。
「部長、ご無事で」
「水野もね」
「はい」
会話を遮るように、拡声器がきいんと鳴る音がした。笑みを掻き消した部長が足早に屋上を去る。多恵は大弓に弦を張る作業に入った。
攻防前に行われる、勧告の合図だ。
相手が勧告する内容は例年ほぼ同じである。大人には青少年を守る義務があること、青少年に害を与える表現は取り締まる必要があるということ、野放しにされた諸々の思想は公共の福祉を妨げる恐れがあること、この学校にはまだそれらが巣食っていること、そうした表現や思想を形にした文章や絵画をここで提出するならこれ以上の妨害は加えないこと、提出しないなら文化祭自体を阻止するという意向。
それはもはや単なる儀礼だ。相手も感情的になることはなく、ただ淡々とした口調で拡声器を通じて生徒に呼びかける。生徒たちは防衛の最終準備を進めながら、次第に口数を減らしていく。
そして勧告が終わり、静まり返った頃合。
『貴重なご意見、確かに拝聴いたしました』
軽やかなソプラノの声が、学校の各所に取り付けられた拡声器から響いた。毎日の放送で、行事の式典で在校生の誰もが聞き誰もが知る有名な声。放送部部長の声だ。
『それでも私たちは譲るわけにはいきません』
渋いバスがとって代わる。恐らくこれは新聞部部長の声だろう。毎月全校生徒に配布される学校新聞の中でも、一際硬派な記事を書き続ける彼。
『表現、言論の自由を奪わせはしません』
緊張にかすかに震えるアルト。これは漫画研究部の部長だ。彼女が端正な絵柄で描く一枚絵が人気である。それは主として恋愛の絵だ、年齢差のある者、種族が違う者たちの。
『それでも社会が規制するというなら、』
かすれたバリトン。多恵のよく知る声だ。マイクを通して聞くと案外頼りがいのある声に聞こえる、と多恵は一人笑った。文学部部長。文学青年で活字中毒、純文学を基調として暗く重苦しいものを書きながら、それでも彼は、希望を書く。
『いいか、在校生諸君』
射手たちが次々と矢を手に取る。投擲手たちが水風船を構える。多恵も矢を取ってつがえた。きりきりと引き絞るのに合わせ、緊張感が急激に高まっていく。
きっと誰もが同じように感じている。日の暮れかかった紫色の夕闇の中で、物陰に身をひそめて、日本刀に手をかけ、なぎなたを引き寄せ、槍の柄を握り締め、きりりと前を向いて。
開戦の合図を待つまでは、一瞬。
四部活の長が高らかに叫ぶ。
『自由を騙れ!』
前夜祭が、始まる。