御遣いになる前の[1]
ウィルヘルム・ヴァルト
このファミリーネームだけがついていた名前が、本来の名前だった。アースガルド公国の北方にある村に住む、ただの村人。それが俺だった。
強いて特記していることといえば人より見栄えがいいことと、剣の腕が少し達者なくらい。性格は我ながら褒められたものではなく、隣に住む幼馴染みに素直に好意を示すことができないくらいには捻くれていた。
だけど本当に俺は、最初はただの村人だった。
故郷の寒村は、あまり豊かな土地ではなかった。そんなだから物心つく頃から畑に出て、土に触れ合う生活が当たり前だった。
掌に出来たマメは、もう何年も鍬を持っている証拠。マメが潰れるなんてことが日常茶飯事。
他の農村とさして変わらぬ貧しさと、田舎臭さ。代わり映えのない単調な毎日が延々と続くであろう未来しか見えない、そんな村。
俺と同世代の野郎たちのほとんどは、村を嫌っていた。つまらないだの、もっと都会の暮らしをしてみたいだの、村の外ばかりに目を向けてはいつか出て行くのだといっていた。
俺はそんな言葉に適当に返事を返しつつ、でも内心は同意なんてしていなかった。たしかに外から隔離されたような閉鎖的な村だけれど、俺はこの村が好きだった。一生この村で暮らして、俺だけの新しい家族をもって、やがて土に戻ることを疑問に思うことなどないほどに。
朝、両腕で抱えるほどの水瓶を持って、村の中央にある井戸にいくのが一日の最初の仕事だ。この仕事を始めたときは、水瓶の大きさと水が入った時の重さにずいぶん苦労したっけ。もともとは親父がやっていた仕事で、きっと俺にもできるとせがんだのがきっかけだった。
それがいつのころからか水瓶の大きさに慣れていた。水を目一杯いれた重さも、難なく持てるようになった。それで筋肉がついたのかな、と自分の成長を実感したのを覚えている。
今まで女とさほど変わらなかった子供特有の身体が、徐々に本来の作りに変わっていく不思議。あちこちついていく筋肉を、戸惑いながらも自然と受け入れた。
そして己の性別を強く意識するようになった。それと同時に、異性というものに惹きつけられる己に気がついた。
初めて意識した異性は幼馴染みだった。同い年で、生まれた時から隣に住む彼女。彼女もまた北方に住む人間の特徴のである金髪碧眼を所持していたが、平均より薄い色素なため儚さが際立っていた。
ド派手な美人ではないが、静かな性格同様澄んだ美しさを漂わせる“レイニ”という名の少女だった。
「レイニ!」
レイニの朝一番の仕事も俺と同じ、水汲みだ。本来この仕事は家の男がやるものだが、レイニの家に男手がなかった。唯一の父親が去年の春亡くなったため、家で一番若く力もあるレイニが担当している。
「おはよう、ウィル」
呟くように少し小さいレイニの声は、彼女そのものだ。俺の姿を確認するために、寄せられたレイニの視線に一瞬どきりとする。けれどすぐに外されて、ムッとする。興味なんてない、そんな風にいわれてるみたいで。
その頃には俺の容姿は村でもなかなかの評判になるほどになっていて、同世代の女のほとんどには声をかけられたくらいだった。俺は天狗になっていた。レイニだってきっと俺を好きだって思っていた。思いたかった。ずっと隣で一緒に過ごし、傍にいることが一番多かったのは他でもない彼女だけだったから。
だけどレイニが寄越す視線はいつも淡々。好きだという感情はまったくみつけられなくて、よくわからない苛立ちが増す。
俺がこんなにも好きなのに。こんなにもお前が好きなのに。
そう伝えられれば、少しは楽になったか。だけど気恥ずかしさと、女にモテるという無駄なプライドが邪魔をする。加えてレイニから気持ちを伝えてほしいという、醜い欲望も絡み付いていた。
苛々する。なのに目も離せない苦しさに胸が苦しくなる気さえした。
「相変わらずトロいのな、お前」
水を汲みいれた瓶を持ち上げようとして、レイニがふらつく。レイニが持とうとする水瓶は、俺が持っていたそれよりも2回りほど小さかった。さほど重いものでもなかろうに。
少しからかうつもりで、俺は「鈍臭いなあ、早くどけ」とレイニの肩を軽く押した。
————ガシャンッ…!
てっきり踏ん張れると思っていた。だけど実際は、レイニは瓶を落とし膝をついた。転がった瓶はあたりに水をまき散らし、ひざをついた彼女のスカートはその水を吸い上げていく。
俺は呆然と、そんな彼女を見ていた。そうしてレイニの肩を押した己の手に視線を動かす。
ここ最近、身体の成長を感じていた。俺は男で、レイニは女。少しずつお互いが変わっていくことに気がついてはいた。だけど本当の意味でなにも分かっていなかったのだと知った。
レイニの肩はびっくりするほど細かった。それでいて柔らかく、筋肉がない有様に驚愕した。押した身体も想像以上に軽く感じた。
「……ご、めん」
初めて実感した自分とレイニの違いに衝撃を受けつつ、とりあえず助け起こそうと俺は彼女の腕をとった。その腕もまた簡単に指先が食い込むほど弾力があり、筋肉で張ってばかりいる己の腕とはまったく違う構造に息を飲んだ。
そんな俺に対して、レイニはどこまでも冷静だった。立ち上がった彼女は何もなかったかのように水瓶を拾い、井戸でまた水を汲み始めた。
水をこぼす原因をつくったのは自分だと自覚していた俺はもちろん、代わりにやらせてくれといったがレイニにあっさりと突っぱねられた。食い下がろうにも彼女の声音から拒絶を感じたし、何より今しがた受けた衝撃で、俺の思考は上手く働かなかった。水を汲む彼女の、先ほど濡れたスカートから滴る水を見つめるしかなかった。
水を汲み終わったのを見計らって、俺はもう一度レイニに謝る。彼女は静かに首を振ると、水瓶を抱えて井戸を後にした。
ふらつく足取りの彼女の背中を見送る。やっぱり背中もあんな風に細くて柔らかいんだろうか、とそんなことを思いながら俺はひたすら立ち尽くしていた。