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 妻が、病に臥せった。

 元来妻は身体が弱いわけではなかった。なかったけれど、日々の精神的な圧力から妻は時間をかけて弱っていった。結婚して20年と少し、妻の身体は限界まで弱っていた。


 妻がかかった病は、風邪。北方のこの地ではそう珍しいものではなかったが、妻の身体では大病だった。治る様子もなく、それどころか肺炎を併発させてさらに弱っていく。

 どれだけ薬を投与しても、自己回復する力すらない身体では効果は少なく。回復魔法を使える神官を呼び寄せてみたけれど、それもダメだった。彼女自身に生きる活力がないと、そういわれた。


 床に臥せった妻に、何度死ぬなといったことだろう。何度俺を置いていくのかと、責め立てたことだろう。

 だけど声はいつも届かない。そう、いつもいつもいつも、だ。彼女には届かない。


 ———妻は、ただ謝り続けた。

 「ごめんなさい」とひたすら謝った。とっくにもう生きることを諦めているのだといわれているようで、とても受け入れることなんて出来なかった。謝って欲しいわけじゃない、謝るくらいなら生きる努力をしろといっても、妻はただ謝るだけだった。それが無性に腹立たしく、それ以上に悲しかった。


 妻は先週から村唯一の診療所に入院している。妻を蝕む病を薬の投与で少しでも送らせるためと、彼女が入院を強く望んだから。妻は家にいて家族に病を移したくないといっていたけれど、本心はきっと違うのだろうと知っていた。

 どうしてこんなことになってしまったのかなんて、そんなことなら何度も思った。何度も何度も思って、でも結局答えなんかでなくて考えることをやめた。

 でも本当は知っていた。答えなんかとっくに出ていた。でも己の中の執着が上手く制御出来なくて、最良である未来を選ぶことが出来なかった。こんな結果になるだなんてこと、望んだ瞬間から分かっていたことだった。


 妻はもう、長くはないだろう。また来年巡ってくるこの季節を、ともに過ごすことは出来ないだろう。

 ————妻の限界は、もうすぐそこまで迫っていた。




 白い花を手に、海のほど近くに立っている診療所に出向く。少し匂いの強いこの花は、妻が好きな花。家の花壇に植えられているほど、妻はこの花を気に入っている。

 でも俺はこの花は好きじゃない。彼女の無性の愛情をもらえる、数少ないものの一つだから。


 ハッと現実に意識が戻れば、手にしていた花束を強く握っていたことに気がついた。少し萎れた様子に、すぐさま力を緩めた。花に八つ当たりするほど、子供でもない。………たぶん。


 まもなく診療所について、真っ先に病室の扉を開ける。今は妻以外入院している患者はなく、4つ並んだベッドのうち3つはからっぼだった。

 妻はすでに起きていた。ベッドの上にいるのは変わらないが、上半身を起こして開いた窓の外を眺めていた。


「………身体、大丈夫なのか?」


 ゆらりと寄せられた妻からの視線は、彷徨うかのように頼りなく。顔色も悪く、眠れていないのか少し落窪んだ瞳の下のクマもひどかった。化粧気なんてないくせに、熱があるのか唇だけがやけに紅く目を惹いた。誰もが認める美人ではなかったが、俺にとってはやつれた姿でさえも美しく思えた。

 妻は、俺の問いかけに声を出して答えることはなかった。ただ小さく頷いただけで、また視線を窓の外に戻してしまう。

 ベッドの傍に置かれていた、来客用に椅子に腰を下ろす。妻はもう、俺には見向きもしなかった。堪らない虚しい沈黙は、俺に言葉を吐き出せた。


「食事、ちゃんととっているのか?」

「………」

「また痩せたんじゃないのか?」

「………」

「レイニ」

「………」


妻は動かない。今ではもう、名を呼んでも返事もしなくなってしまった。そんな妻が唯一吐く言葉はただ一つ。


「ごめんなさい……」


 それ外の妻の言葉を聞いたのは、いつが最後だったか。

 俺たちは本当に言葉が少ない夫婦だった。いや、俺たちは夫婦だったのだろうか。ふと、そんなことを思う。


 たしかに俺たちは20年と少し前に、教会で正式な婚儀を上げた。婚姻書だって提出した。それから一緒に暮らして、3人の息子にも恵まれた。もう息子たち全員各々に嫁をもらって、みんな別の村で暮らしている。来年には孫も生まれると、一ヶ月前に届いた一番上の息子からの手紙に書かれていた。

 誰がどう見ても、俺たちは夫婦だった。書類上の上でも完璧な、完璧な夫婦だった。今もそう、完璧な夫婦なのに。

 ————なのに、どうして……


 ときどき分からなくなる。不安になる。堪らない焦燥感にかられる。

 20年、ずっと一緒に暮らしてきた。傍にいた、隣にいた。それでも届かない。言葉も、気持ちも、何一つ。

 ……否。本当は分かっていたのに、口に出すことも確認することも怖かった。



 大きく開けられた窓から、緩やかな風が入ってくる。草木の匂いを乗せた、田舎村では当たり前の風。カーテンを揺らし、妻の髪を揺らし、サイドテーブルに捨てるように置かれていた絵本をゆるりと捲り上げていく。

 さりさりと紙が擦れる音に、何気なく絵本に視線をやる。子供向けの絵と、大きめの文字が書かれているその絵本。

 内容は知っている。この絵本が国中に発行された時、俺ももらった。そもそもこの絵本の主人公のモチーフが俺であり、話の道筋は過去に歩いた俺の人生そのものなのだから。


 ぼんやりと捲られていくページを眺める。話の最後は大団円だったはずなのにな。そんなことを思った。

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