第九十六話 残り魔
「ではすぐに、智立様を呼んで参ります。しばらくお待ちを――。本当にご無事に帰られて、よろしゅうございました」
そう言う寺男に向かい、高香も微笑むと頭を下げ見送った。
それからひとり、ため息をつく。
最前寺男に会い、この部屋に通されるまでに高香が見たものは、実にさまざまな妖魔であった。
柱の影からは、髪の長い女のような妖魔がちらちらと青い舌を出して覗き、庭の木立の暗がりには、赤い眼をした童髪の妖魔が宙を漂っていた。
――どうしたというのだ。この寺は、まるで魔物の巣窟のようではないか。
「高香、高香か! よくぞ戻った」
その時、智立が部屋へ入ってき、高香はまた深々と頭を下げた。
「は、智立老師。ただいま戻りました」
高香が顔を上げるのも待たず、智立は、「実は今朝方、丞蝉が出て行ったのじゃ」と言った。
「丞蝉殿が?」
「うぬ……。やつめ、魔と交わりおった」
――ああ、やはり。
と、高香は思う。
今またまざまざと、あの一角鬼の姿が甦った。
それに。
「老師。ではこれは、丞蝉殿の置き土産ですか? 私の目には、この寺のいたるところに魔が潜んでいるのが見えますが」
「不覚じゃった」
智立が印を組み、右手をえいっと払うと、先ほどから廊下を這っていたずるずるとした気配がとたんに消えた。
ため息をつき、心中を吐露する。
「やつが野心を持っておったのは薄々承知じゃった。だが根は悪い男ではないと思っておった。白菊丸殿という庇護すべき者も得て、末は立派な僧侶になってくれると信頼しておったのじゃが」
「老師、白菊丸殿に何があったのです? あのまま亡くなってしまわれたのですか?」
話さずとも白菊丸の死を知っている高香に、智立は驚いたようだった。
「先ほど白菊丸殿のお姿をお見受けしたのです。しかし――すぐに消えてしまわれました。それで彼はもう、この世の人ではないのだと……」
「……そうか」
腕を組み、智立は無念そうに顔を歪めた。
「白菊丸殿は、祥元に殺されたのじゃ。哀れなことをした」
そしてそのいきさつも詳細に話すと、また丞蝉のことに話を戻す。
だが智立はどうしても、最後に丞蝉が明かした法臨坊大導師の秘密については触れることが出来なかった。
一方、丞蝉は、その日まだ清滝の下にいて色々と考えていた。
――なるほど。天礼のやつ、俺に魔道を教えたは『陰陽伝』のためではなく、智立に破門させるためであったか。
まだらの赤黒い気が全身をもやもやと包んでいる。
――俺を邪魔とみたか。
そして低く笑った。
「これはぜひ礼を返さねばならぬな」
側に張り付いている何者かが、その言葉に反応したかのような気配があった。