第九十五話 いのち礼賛
一年と数ヶ月の月日は、高香をすっかり変えていた。
托鉢をしながら旅を続けることで得た、多くの人々との親交のおかげであった。
それは高香にとって、驚きとでもいうべきことである。
もともと長くは生きられないといわれ、これも御仏にお返しする命と、ただ一日一日を過ごしてきた。
他の僧侶たちとの交流も必要以上にはせず、花が咲いても散っても余計な感動は持たずにきたのだ。
それが、托鉢をしている時に癪を起こした老婆を薬草で救ったのをきっかけに、高香は人に喜んでもらえる幸せを知った。
「あのお坊様の周りに、金色の光が見える」
そう言う者も出始め、皆が高香の説法を聞きに熱心に集まってくる。
高香の声を聞いているだけで、心地が好くなり、体の痛いところが楽になるというのだ。
「きっと、大変に徳の高いお坊様に違いない」
「見ろ、あの絵のようなご尊顔を」
「ああ、ありがたや、ありがたや」
女人とは口を利くはおろか、顔を合わせてもいけないという戒律がある。
だがそれは山の上でのこと。
(実際は一度、乙女を助け話したことはあったが)
僧侶ではない人々、男も女も、老人も子供も、雑多に入り乱れる里は、最初こそ高香にとって違和感を覚える場所であったに違いない。
だがそれが楽しい場所になるのに、そう時間はかからなかった。
むしろこういう場所こそが、自分にふさわしいのではないか。
そう思えたほどである。
すると、不思議なほどに、風もきらめいて見えた。
野花の可憐さも、辺りを飛ぶ虫の健気さも、大地に根を張る木の力強さも、空を行く雲の大きさも――すべてが眩しくなった。
――自分は生きている。
こうしてたくさんのものや人たちとこの空気を共有しているのかと思うと、高香の心の奥底から初めて「愛しい」という気持ちが押し上げてきた。
それは、今までの灰色をした自分の心をいとも簡単に潰し、消し去った。
何もせぬまま御仏のもとに帰ろうと考えていた彼は、今こそ、自分に出来るだけのことをしよう、人として生きた心を残していこう、そう思うようになった。
今、仏殿を見上げ、一歩僧坊の方へ足を踏み出した高香は、ふと目の前を横切った者を見て懐かしさのあまり、弾んだ声を掛けた。
「白菊丸殿……!」
だがその刹那、我知らず背筋が冷たくなるのを覚えぞっと固まった。
そして、目の前の白菊丸が青い顔をこちらへ向けるやいなや掻き消すようにいなくなったのを見、思わず走り出していた。