第九十四話 一陣の風
やがて、ふぅぅっと智立の大きなため息が漏れた。
「だが残念でならぬ。わしはお前と天礼に、法臨坊大導師様の遺志を継がせたかったのじゃぞ……」
その時、丞蝉が声高らかに笑ったのには智立も驚かざるを得ない。
「法臨坊か。あのエセ法師が」
「な、何と申す!」
「これを見るがいい」
そう言って丞蝉が懐から投げ出したものを見て、智立は眉をひそめた。
「『陰陽伝』――?」
丞蝉が喉の奥で低く笑うと、暗い朱色の気が陽炎のように揺らめいて見え、智立は己が気を強く張った。
「坊主はすでにその秘伝に取り憑かれておったのよ。この秘伝を得ることがやつの遺志ならば、俺はすでに継いでおる」
そして丞蝉は立ち上がった。
「俺こそがその秘伝、会得してみせよう」
「丞蝉、待つのじゃ!」
強い一陣の寒風が仏殿を吹き抜け、この大男の法衣の裾を揺らした。
「丞蝉――!」
智立は今ふたたび声を絞る。
すると男は立ち止まり、眼帯をしていない方の眼を智立に向け、
「あの寺は悪鬼の巣であった。やつらはあの寺に呪縛されていたが、最初からいたわけではない。皆法臨坊に呼び出されたのだ。それはやつが陰陽の秘伝を得ようとしていたからに他ならぬ――どうやらあの秘法は"鬼"と関わりがあるらしい」
そしてそのまま仏殿を出て行った。
残された智立はただただ愕然とし、手にした『陰陽伝』の書を見た。
そして内容を読むや、おおっと声を上げその場につっ伏した。
その日の午後、丞蝉と入れ違いに寺の門をくぐった者がある。
錫杖を持ち、頭から足まで全身を修験道の白い衣に包んでいたが、その姿態はすがすがしく、すらりとした軽やかな痩身はその者の若さを十二分に語っていた。
見事な紅葉に彩られた仏殿を見上げ、彼は網代笠の下から、大人とも子供ともつかぬ笑顔を見せた。
――帰ってきたか。やはり懐かしい。智立老師はお元気だろうか?
それは、誰あろう、一年数ヶ月ぶりに戻った高香であった。