第九十三話 開眼
まだ明けぬ中、智立と天礼が急ぎ丞蝉の部屋へ向かってみると、そこには丞蝉の姿も勝之進の骸もなかった。ただおびただしい血が、床に残されているばかりである。
間もなく振鈴のあと勤行が始まり、智立はまったく気もそぞろに勤め終えると、再び丞蝉を捜した。
「やつめ、もはや逃げておるかもしれませぬ」
天礼がそう言い、智立も「これは大事になろうな」と腹をくくる。
が、わけもなかった。
どういうつもりか、丞蝉、堂々と廊下をこちらに向かって歩いてくるではないか。
右目には眼帯を当てている。
「丞蝉――!」
すると相手は智立の青筋の立った顔を見、にやりと不敵に笑った。
むらむらと、その背から気炎が上がっている。
明らかに善からぬものの気である……。
この期に及んでも、智立はまだ信じられなかった。いや、信じたくはなかった。
天礼と丞蝉。
この二人には将来、円嶽寺から独立して、それぞれ東の地と西の地に仏刹を構えて欲しいと切望していたのである。
法臨坊大道師の教えを、自分には引き継ぎ広めてゆく義務がある――そう得心していたからこその思い。
だがいまや智立は、自分の甘さに気づかねばならぬことを悟った。
そしてその刹那、はっきりと、丞蝉の周りにひしめくおぞましい彩を放つ魑魅魍魎どもを眼界に見たのであった。
今まさに智立は、丞蝉を仏殿に引き入れ対座していた。
真言を唱え身辺の邪を払った上であったが、丞蝉の背から湧き上がる暗鬱たる朱の気炎だけは、もはや抑えようもない。
ことここに至るまで、なぜ気づかなかったかと、自身を憾む思いにしぜん智立の双肩は震えた。
「丞蝉! うぬは……善からぬものと交わりおって!」
目の前の男の眼はすでに正気ではない。
師のその言葉にも、ただ薄ら笑いを浮かべている。
「ほう、ようやく気づかれましたか。だがその取り乱されようは、ご自身で気づかれたのではありませぬな。――天礼兄ですかな?」
「そうじゃ」
丞蝉の左目がきらりと光った。
憤怒と恥辱で顔を真っ赤に染めたまま、智立は続ける。
「お前が山根勝之進から身を守るためにやったことは許そう。しかし魔道の魍魎を呼び出しているとなれば別じゃ。これ以上、寺へ置くわけにはいくまい」
「結構。俺もそろそろ出て行くつもりであった。もうこんな寺に用はない」
強い紫光が智立老師の体を守るように包んでいる。
――怖いか、俺が。
丞蝉は智立の器の小ささに、「師とはこれほどのものか」とあきれる思いがした。