第九話 村祭り(六)
もう広場からは大分遠ざかっていた。それでも笛の音は聞こえてくる。
聖羅は、暗い林の道を悔しさに顔を伏せたまま走りながら、やっぱり祭りなんかに来るんじゃなかったと後悔していた。
所詮、嫌な思いをするだけなのだ。自分の居場所は、この村にはないのだ。
母はたしかにこの村の人間だった。
だが、父は。父は……。
その時、どん、と誰かにぶつかって、まだ四歳になったばかりの聖羅は激しく後ろへ転んでしまった。
真っ暗な、月明かりだけの道である。
相手にも幼い聖羅の姿が見えなかったのかも知れない。
とにかく聖羅は腕に痛みを覚えながらも目を上げ、だがその瞬間、恐怖にすくんだ。
目の前に大きな男の影があったのだ。真っ暗で顔は見えなかったが、山のような大男の影が。
男は聖羅の腕を掴み引き起こすと、ずいと顔を近づけた。
「おまえ……おまえが生まれたのは、嵐の夜か?」
その声は地の底から響いてくるような不吉な音色を伴い、聖羅は腕を掴まれたままガチガチと震え出した。息すら普通にできない。
男がもう一度聞いた。
「言え。おまえは嵐の夜に生まれた子供か?」
男の手に力が入ったのを聖羅は感じた。意識が遠くなりそうだった。
その時、「お坊様!」という婆の声がした。
婆は、聖羅を掴み上げている雲水姿の男に両手を上げて懇願するように言った。
「お坊様、その子が何か悪さをしましたか? どうぞお手をお放しくだされ!」
すると暗闇から男が問うた。
「女、ひとつ聞く。この子供が生まれたのは、嵐の夜だったか?」
「嵐の夜?! ふ、不吉なことをお言いでない! いくらお坊様とはいえ……この子が生まれたのは、爽やかな秋晴れの朝じゃ。わしが取り上げたんじゃ!」
胸を叩きながら、気丈に婆は反論する。
このときばかりは自分の愛する孫が傷つけられたように感じ、得体の知れぬ大男に容赦なく不快をぶつけた。
「そうか……ではよい」
意外にも男はあっさりと聖羅を放した。
聖羅はすぐに婆の胸にすがりつく。
泣き出してしまいそうになるのを、ぐっと唇を噛んでこらえた。
「女、この辺りで嵐の夜に生まれた子供を知らんか」
再び男が問う。婆は少し考え、
「知りませぬ」
と答えた。
男は僧侶らしく、胸の前で拝むように片手を挙げると言う。
「その子は不幸な子供なのだ。だから俺が救ってやらねばならん。もしそういう子供がいたら、円嶽寺に連れてきてほしい。俺は円嶽寺の僧、丞蝉という」
婆は深く頭を下げ、反対に聖羅は顔を上げて男の方を見た。
月明かりに男の顔が薄っすらと見えた。
眉と口ひげが濃く、鼻梁の太いいかめしい顔つきをした男だった。
だが、普通ではない……落ち着いた口調とは裏腹な、奥底に渦巻く怪しげな空気が男の身をやわやわと覆っている。
聖羅はまたぶるっと頭を震わすと、婆の胸へ顔を埋めた。
「今夜は祭りか。俺も覗かせてもらおうか」
そう言うと、男は錫杖を鳴らしてその場から立ち去っていった。
(俺は見てない、何も見なかった……)
怖いものを忘れようとするかのように、聖羅は必死で目を瞑り続けた。
耳に段々と離れていく錫杖の音が響き、恐怖が去ったと安堵した瞬間、聖羅の頭は真っ白になった。