第八十五話 峠の空
たねが草路村の妙心寺の柿の葉揺れる門前に着いたのは、夕風が吹く頃であった。
山道を急ぎ足で上がってきたたねの息はさすがに切れている。
だが、三歳のしのは、たいして息を切らしていない。
――この子は。
と思わせるものが、しのにはあった。
だがぼやぼやしていると日が暮れてしまう。
たねは道々してきた決心をもう一度思い返し、大きく深呼吸をした。
そして勢いよく寺の木戸を叩き出した。
「もし! 和尚様! 和尚様はおられませんか、和尚様!」
聞きなれぬ女の大きな声と木戸を叩く激しい音に、寺男の作造は驚いてほうきを放り出すと木戸へ飛びついた。
「どなたじゃな? 今開けるから、も少し待たれよ」
負けじと大声で呼び掛けると、木戸を開いた。
するとそこには、村人ではない女と幼子が立っているではないか。
女は作造の格好を見てすぐに寺男だと知ると、
「和尚様は? 和尚様に会わせてください」
と言った。
「和尚様は今大切なお勤め中だ。何の用事かな?」
だが作造の言葉が聞こえなかったのか、女は「和尚様を。和尚様にお取次ぎを」と言い立てた。
取り付く島もない。
結局作造は根負けし、和尚を呼びにいったん僧坊へ入っていった。
「和尚様。変な女が和尚様に会わせろと言って聞きません。いかがいたしましょう?」
「用件は何かね」
和尚は写経をしていた。
筆を置き、多少驚いた風に聞き返す。
しかし作造はため息をつくしか出来なかった。
「はあ……それが何も申さないのです。子供を一人連れております。何やら相当切羽詰った様子で」
仕方がない、会おう、と和尚は答え、そのまま外へと出て行った。
それから小半刻後、たねは峠の見える山道の中腹にいた。
初対面である和尚に一気にまくし立てたせいで息が弾んでいる。
とにかく余裕などは一切なかった。
ただ行く道で何度も頭の中で反復してきた科白を、立て板に水の如き勢いでしゃべり尽くしたのだ。
相手の唖然とした顔が今更の如く浮かび、たねは顔が火照るのを感じた。
――殺してください。
たねはそれまでも言ったのだ。
――もしも駄目とおっしゃるんなら、どうぞ殺してください。その方がこの子も幸せでしょう……。
そしてその手を無理矢理和尚の手に預けてきた。
とたんに「ううっ」と呻くと、たねはついに両手で顔を覆い、その場に屈み込み声を上げて泣き出した。
――あの小さなしのの手を、あんなふうに離すなんて。
感情が滝のように流れ出し、たねを一時翻弄した。
だがそれが鎮まった時、たねは頭を上げて手鼻をかんだ。
もう一刻もしないうちに、日は暮れるだろう。
おのれの吐く息だけを見つめながらまた足を踏み出したたねは、ふと自分を呼ぶ声を聞いた気がしてはっと空を見上げた。
そして峠の上の薄青くなった空に、志乃の笑顔が浮かんでいるのを見た時、たねは、
――これでよかったのだ。
と思った。