第八十四話 沼地の家に棲む婆
村はずれに死臭漂う広い沼がある。
その脇に一軒のあばら家が建っていて、稲という産婆が一人で住んでいた。
稲は産婆ではあるが、同時に子の間引きもする。
不用意に孕んでしまった女たちはこのあばら家を訪ね、稲に子を流してもらうのである。
水子は側の沼に簡単に捨てられた。
稲だけは、水子の悲哀を知っていた。
母親はせいせいした気持ちで帰っていく。まるで、要らないごみを捨てたかのように。
村人たちは、こんな風に稲に手を貸してもらうことはあっても、普段は「子殺し婆」とか「間引き婆」といって稲に近寄ろうとしない。
稲も、当然村人とは距離を保っていた。
たねが稲を心に掛けるようになったのは、まだ赤子だった信吾が高熱で死にかけた時、稲に命を救ってもらったからだった。
それ以来、たねは稲の唯一の友達になった。
今もたねは、隣村へ行く前に稲の家へ立ち寄ろうとしていた。
こんなどんよりした天気の日には、沼はまた格別に異臭を放っているようだった。
カラスが数羽、しわがれた鳴き声を立てながらたねの頭上を飛ぶ。
しのが歩きながら上を見上げた。
「泥に足を取られるよ、前をお向き」
たねがそう声を掛けると、しのは「うん」と素直に頷いた。
「稲さん、こんにちは」
戸口に立て掛けてあるむしろを少し横にずらし、たねは中を覗き込んだ。
老婆は熱心に何やら煮詰めていたが、その声にふと顔を上げ嬉しそうに笑うと、
「おや、たねさんかい。よく来たね」
そして、たねがしのの手を引いて部屋に入ると目を丸くし、「おやおや」と付け加えた。
「珍しいことだ、しのかえ?」
ここで初めてたねはしのの手を離し、ほうっと一息つく。
「大きくなったろう? ……実はね、ちょっと困ったことがあって、今からこの子を隣村へ一時預けようと思うんだよ」
何の草か、強い臭いが鼻を刺激する。
たねが思わず顔をしかめたのを見て、稲は歯の抜けた歯ぐきを見せながら、ひっひっと笑い声を立てた。
「すまぬの。今、薬草を煮詰めておるでの。……それで? 困ったこととは何じゃね?」
早速たねは、村へ来た怪僧のことを話し、
「だから少しの間――ほら、以前稲さんが言っていた隣村の和尚さんに預けようと思うのよ」
「ほう、妙心和尚……かね?」
たねは頷いた。
「そう。稲さんが昔寺へ泊めてもらった時、親切にしてくれたというその方なら、しのを預かってくれるだろうと思って」
稲は、奇妙なほどに小さい二つの目をしばらくしのに注いでから、また鍋の薬草に視線を戻し、そしてつぶやくように言った。
「あげてこい」
「えっ」
「しのを寺へあげてこい。しのは仁左衛門の屋敷では幸せになれんでの」
稲の意外な言葉にたねは動揺したのか、しのを抱き締めると顔を青くした。
「でも……」
もう一度、稲が言った。
「あげてこい。その僧の言うことがもし本当だとしたら、しのは寺で守ってもらうがええ。もし嘘っぱちでも、仁左衛門のところよりはええ」
稲は鍋を火から下ろし、また別の鍋を火に掛けた。
たねには稲の言ったことが正しいとわかっていた。
稲は、もうそれ以上、何も言わなかった。