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第八十三話 志乃という女

 あれは、もう年の瀬が迫った頃だった。

 どこから聞いたのか、「月ヶ瀬村に元巫女だという女がいる」と仁左衛門が言い出した。そして確かめたところ、その女が身重で、またたいそう可憐であるということがわかったのだ。

 (よわい)六十にして、まだまだ好色な仁左衛門はすぐに遣いを出し、「神女として使いたいから、腹の子供と共に引き取りたい」と伝えた。


 たねはあきれた。

 自分も半分売られた形で後妻に入っている。そして四年前、三十の歳に信吾という子を成したのだ。

 たねには仁左衛門の魂胆はわかっている。

 「神女」というのは建前で、実際は自分の妾にしようというのだろう。

 子を生ませた後は女を妾にして楽しみ、子供は使用人にしようというのが仁左衛門の腹だと読めていた。


 ところが仁左衛門にとって計算外なことが起こった。

 先方の夫婦が二人分の金銭を要求してきたのである。

 仁左衛門は顔を赤くして猛々しく怒った。

 だが彼らにしてみれば、娘を他人にただで引き渡す義理はなく、それは当然の要求だったに違いない。

 「小癪(こしゃく)な」

 仁左衛門に腹立ちはあったが、しかしかといってどうしてもこの女人を諦めきれず、ついにそれを承知し腹の子供と共に買い受けたのであった。


 かくして志乃(しの)というその女性は、男衆に連れられて屋敷へやってきた。

 かなり抵抗したということだったが結局は男の力に敵うはずもなく、目蓋を腫らし憔悴しきった様子が、障子の陰から窺うたねの目にもまことに哀れに映った。


 見れば志乃はまだ十分若い。

 たねは嫉妬どころか心から気の毒に思い、優しく接するうちに、まるで志乃が本当の妹のような気持ちになっていった。

 それでも傷心のあまり食事もろくに取れず、どんどん痩せていく志乃をどうすることも出来ない。

「志乃、ちゃんと食べなきゃだめだよ。子供を生むには体力がいるんだから。お腹の赤ちゃんだってご飯を欲しがっているよ。さあ、ほら。あんたが食べなきゃ赤ちゃん、死んじゃうよ」

 志乃はたねのその優しい言葉を聞いても、涙にくれ首を横に振るばかりである。

 たねが無理矢理粥をすすらせ、何とか命を繋いでいた。


 二月に入ったある朝、初めて志乃はたねの顔をじっと見つめ、

「たねさん、ありがとう……」

 と言った。

 そしてその日、昼過ぎから始まった陣痛のために志乃は土床の粗末な小屋に移され、そこで夜半、一人の子を生み落とし、命尽きた。

 元気な男の赤子だった。

 たねは呼びなれた「しの」という名でその子を呼ぶことにした。


 ――そのしのが生まれた夜が

 たねは再び横を歩く幼子を見た。

 ――酷い嵐の夜だった。しかも雷は、「神の地」に落ちたのだ。


 たねは、あの雷鳴と稲光の中、両手を上から縛られた志乃が悲鳴をあげ身をよじるさま、見る見る血に染まった土床と産婆のしわがれた顔や手、そして雷鳴の中でもはっきりと響いた赤子の声――その情景を、まざまざと思い返していた。

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