第八十二話 たねの決心
「おっかあ」
振り向くと、信吾が立っていた。
「おっかあ、どこか行くのか?」
鋭い子だ、と思いながら、たねは立ち上がり信吾を抱き締めた。
先ほど中庭で、子供たちがたねのことを「おっかあ」と呼んだが、本当の子はこの信吾一人である。
他の子らは、ここの地主 仁左衛門が、将来 氏子として働かせるために引き取った子供たちなのだ。
たねは仁左衛門の後妻だが、その子らを自分の乳で育ててきた。
だから子供たちにとっては、たねは「おっかあ」なのだった。
「信吾、おっかあはすぐに帰ってくるからね。もし旦那様に居所を聞かれたら、知らないと言うんだよ」
「うん、わかった」
信吾は素直に頷くと、母が幼いしのの手を握って急いで部屋を出て行くのを見送った。
まだ昼だ。
夕方までには隣村に着けるだろう。
たねは曇った空を見上げながらその思いを強くすると、杉木立の道をまた下り出した。
下りながら、さっき辻で見た奇妙な僧の言葉を頭で繰り返していた。
――この村に、嵐の夜に生まれた子供はおらぬか。その子は呪われた子ぞ。必ずや、七代祟りをなそう。
たねは歩きながら、しのの揺れる頭頂を見下ろした。
まだ三歳のしのは、たねに手を引かれながら懸命に歩いている。
何も尋ねないところがいじらしく、たねはやや速度を落とすと「しのや」と声を掛けた。
だがしのはこちらを見ない。
足元だけを見つめ、歩くことに集中しているかのようだ。
――この子は変った子だ。何でも夢中になると、周りが見えないらしい。
育てやすい子だった、とたねは思う。
滅多に泣かないし、むずがらない。
たくさんの子供の中で育ったせいで、大人の愛情を一身に受けるというようなこともなく、自然と感情をあらわにはしない性格に育ったのだろう。
実際たねは忙しかった。
子供たちに機械的に接しているということが、なくはなかった。
それでも信吾以外の子に母性が靡かなかったかと言えば、そうでもない。
皆、それぞれに可愛い。
今、たねが決心したことも、しのへの愛情からに他ならなかった。
仁左衛門は、笹無村の「神の地」を仕切っている大地主であった。
その家にあの僧侶が言う「呪われた子」がいるという噂が立ったら、情けの薄い仁左衛門のことだ、すぐにもしのを放り出すだろう。
たねはあの怪しげな僧の様子を思い出して、身震いした。
――あんな胡散臭い僧侶に、しのを渡すことは出来ない。
それからたねの心の中に、もう一人の「しの」が浮かんできた。