第七十四話 義詮の死
だいたい、秘伝書が自分の懐からなくなっていることに気づくのが遅過ぎた。
なぜ丞蝉が持っていたか――それは自分が白菊丸とまぐわった時に落とし、白菊丸がやつに渡したからだ。
そのことでは絶対に白菊丸を責めなくてはならない。なぜ自分にこっそり返さなかったか。
天礼はここ数日、ずっといらいらしていた。
そして今、白菊丸にその訳をただそうにも、彼はまるっきりの痴呆になってしまったのだ。
まさに、臍を噛む思いであった。
そして丞蝉――。
何という男だ。本当に悪鬼を呼び出す力を身につけるとは。
だがすぐに智立の耳に入れるのはどうか?
こうなった以上、ここはやつと組んでやつの力を利用した方が賢明かも知れぬ。
もちろん秘伝をやつに渡すわけにはいかぬが……。
天礼は思案しながら、そこでふと彼の奇妙な言葉を思い出していた。
「あの悪鬼、俺が呼び出したのではない。かいかぶるな」
それから幾日も経たないうちに、山根勝之進が円嶽寺に戻ってきた。
この若者は、顔中無精髭だらけにし、顔色を浅黒く染めていた。
おまけに、あろうことか右腕の肘から下がなくなっている。
勝之進は智立の前にひれ伏し、ここを飛び出してからのことを涙ながらに語り始めた。
予測どおり石ノ松城へ密告に行こうとしていた後藤田平八に追いつき、説得できぬまま斬り合いとなった。そして不覚にも右腕を斬られ、川に落ちた。
運良く一命は取り留めたものの、傷を癒し、やっと石ノ松城まで来てみると、すでに平八らは円嶽寺に向かったというではないか。
今からでは到底間に合わぬ、せめてここで待っていて出来ることをしようと腹をきめたものの、一向に誰も戻らぬ。
すると数日後の夜、この世のものとは思われぬ怪光と怪音が北西の空から走り、それは城の天守に吸い込まれるように消えていった。
そしてそのすぐ後から、人々の阿鼻叫喚の声が聞こえてきたではないか。
それは遠くからではあったが、怖気立つような凄惨さを含んだ音は勝之進の身を芯まで凍らせ、勝之進はまったく動けなかったほどである。
翌日、城門は閉鎖され、さらに三日後、「末成義詮病死」の布令が出されたのである。
ここまで一気にしゃべってから、勝之進は顔を上げ、智立の顔を見た。
智立が信じ難そうな表情でいるのを、
「お信じいただけませぬか。しかし、某は確かに怪異を見たのです。末成義詮は病死などではございませぬ」
と重ねて言い、さらに後を続けた。
詳しく聞き込んだところ、義詮のみならず、家中の者はすべて首を取られて怪死していたという話が聞こえてきた。
もちろん誰かが首級を印に取って行ったのかも知れないが、しかし、首だけでなく、上半身がほとんど消滅していた死体もあったという。
また傷口は明らかに刀傷ではない。まるで、大きな獣か何かに喰い千切られたようだったという。
「あれは、鬼でございます。鬼の仕業に相違ございませぬ」
勝之進は色のない唇を震わせた。
いずれにしろ、勝之進は自分が機を逸したことを悟った。
肝心な時に役に立てなかった我が身のふがいなさを呪い、惨めにもこの寺へまかりこしたのだった。
が、戻ってみれば白菊丸には見覚えがないという。
「残念なことじゃ……」
智立は肩を落としそうつぶやいたが、勝之進は崩れるように地面に倒れたまま動けなかった。
号泣し、「終わりでござる……」そう繰り返した。
ともあれ、裏切り者の後藤田平八が死に、末成義詮が滅したことで、白菊丸の御家騒動は落着した。
白菊丸さえ健全であったなら、即座に細田家再興の提訴をしたかも知れない。
しかし、ついにこれは叶わなかった。