第六十七話 運命の秘伝書
この頃の丞蝉ほど、周りに愚鈍であったことはなかった。
あの鬱陶しい細田の侍たちは完全に去り、この廃寺での白菊丸の頼る術は、丞蝉しかいないはずである。
そんなことを当然のように考えていた。
そしてさらに魔道書を研鑽し、悪鬼との対話を深めることに腐心した。
丞蝉不覚。
日々、白菊丸の体温が冷めていっていることになぜ頓着なかったか――。
月影が白菊丸を縁取っている。
満月を背にしこちらを向いて座っている白菊丸の表情は、だがよく見えなかった。
「ここにも慣れたようだな」
「――はい。ようやく」
「山根勝之進とやらは、まだ戻ってこないそうだ」
「はい」
「戻ると思うか?」
はっと、白菊丸が顔を上げたのがわかった。
「勝之進は……戻って参ります」
声が震えていた。
「まだ仇を討ちたいのか」
「もちろんです。なぜそう思われるのですか」
「俺が討ってやろう」
白菊丸は思わず息を止めた。
――丞蝉が? 仇を?
「だからもうやつを待つのはやめろ」
そうしてはっきりと、歯を剥き出してにやりと笑った。
「やっと一つ目と話をつけた。末成義詮という男の命もこれまで」
そこで丞蝉は思わず目を凝らした。
白菊丸の懐がほのかに光っているように見えたのだ。
「白菊よ、そこに何を持っている」
「えっ」
白菊丸はうろたえた。昼間のことを思い出し、さらに狼狽は極まった。
丞蝉はこの日、平助が届けてくれた食料が足りなくなって、調達を目的に村へと下りていた。
以前は白菊丸の警護を天礼に頼みはしたものの、今日はそれをしなかった。
いつものように桜の木の下で待っていた天礼は、白菊丸からそれを聞き及ぶなり傍若無人に庵へと上がり込み、そこで堂々と稚児とまぐわった。
ところが、まだ両者余韻に浸っているうち、平助の丞蝉の帰りを知らせる緊迫した声が聞こえてきたのだ。
慌てて僧衣をまとい、後ろも見ずに出て行った天礼のあとに、それは落ちていた。
――書?
白菊丸は、果たしてそれを手に取った。
開いてみた。
そこには墨字もいかめしく、『陰陽伝』とあった。
今、丞蝉にそれを問われ、咄嗟には言葉が出ずうろたえたのだ。
「これは天礼殿が……」
そう口走ってから、「しまった」と白菊丸は思った。
「天礼が?」
何とか誤魔化すしかない。背中に汗が流れた。
「天礼殿が……以前お越しになられた際、置いていかれたのです。あなたにお渡しするように言われていたのをすっかり忘れておりました。今日こそお渡ししようと、この懐に持っておりました」
なぜわかったのだろうかということをいぶかるよりも、動作が先に出ていた。
白菊丸は書を懐から取り出すと、それを丞蝉に手渡した。
「ふむ……。『陰陽伝』」
早速紐解いた丞蝉は、別段気もなさげにつぶやいた。