第六十五話 有情の桜
四月。
山間でも、桜が待ちかねたようにつぼみを次々とほころばせ始めていた。
そして、まるで白菊丸を慰めるかのごとく、たった一本だけ、廃寺の庭の桜が花をつけた。
白菊丸は嬉しくて、日長一日それを眺めている。
不思議なもので、その一角だけは光も差すように思われた。
そんなある日のことである。
「若、若君」
平助の声がした。
はっと振り向くと、平助が笑顔でやってくるではないか。そしてその後ろには――天礼が立っていた。
白菊丸は一瞬顔色を変え、拒む眸をし天礼を見つめる。
だが、天礼はにこにこと機嫌よく近づきながら言った。
「心配せずとも、丞蝉に頼まれたゆえ参ったのです。自分が山を下りて村まで行く間、そなたに付き添ってほしいと」
「山を?」
いつの間に寺を出て行ったのだろう。
いつものように、部屋にこもっているものだとばかり考えていた白菊丸は、唖然とした。
「若、天礼様より美味しい菓子を頂戴いたしました。今、茶など入れましょうほどに」
平助がうきうきとしている。が、それがかえって白菊丸の不安を煽っているのに平助は気づかない。
「白菊殿」
天礼の声に、白菊丸はぎくりと身をこわばらせた。
「双六をお持ちしましたぞ。一緒にやりませぬか」
やがて――。
薄淡い桜花を一本眺める庭のある庵で、双六に興じる三人の姿。
意外なほど、白菊丸はこの日、心楽しく過ごした。
それからちょくちょく、天礼と平助は訪ねてくるようになった。
丞蝉が寺にいる時の方が多かったが、その時は三人とも声を殺して話したり、近くの山道を散策したりする。
あれだけ警戒していた天礼にも、もうすっかり心許した風な白菊丸であった。
「天礼様は、智立様のお覚えことのほかめでたくあらせられます」
平助はすっかり天礼の信望者のようである。得意満面であった。
天礼は少しはにかんだように、
「老師が円嶽寺の行く末を、私に任せたいとおっしゃってくださいましてな」
と、控え目である。
その様子は温厚で、好人物そのもの。
白菊丸も、つい微笑みを見せ、
「天礼殿ならば、立派なご住職となられることでしょう」
と、言った。
「恐れながら天礼様は、多くの武家や公卿からの信頼も厚く、おそらくは智立老師以上の信望を集められるとこの爺は考えております。――若君、こう申しては何ですが、丞蝉様よりこの天礼様こそ若の御念者にふさわしいのではございませぬか?」
「平助!」
――何を差し出がましい口を。
白菊丸がそう言いかけた時、天礼が声を上げて笑った。
「丞蝉は私の可愛い弟弟子、なればその愛稚児は私にとっても愛稚児でありましょう。いつでもお慰め申し上げますぞ」
そう言って舐めるように見たその流し目は、白菊丸の体に嫌悪のみならず、法悦の火を灯したかも知れなかった。