第六十四話 白菊丸の不遇
家臣が自分を売ろうとした。
白菊丸にはそのことが非常に恐ろしく、また信じられないことであった。
よもや、勝之進まで裏切らないだろうか。小五郎を斬ろうとして怪我をした平八はどうだろうか。
考えれば考えるほど、白菊丸は混乱し、夜も眠れなくなっていた。
後藤田平八が失踪したのは、まだ春も浅い三月の頃である。
さすがに勝之進も激しく動揺し、取り乱しつつそれを白菊丸に報告した。
白菊丸は、毎夜の不安が現実となり、それこそ気を失いそうな面持ちである。
側で聞いている智立老師も顔面を険しくし、勝之進に詰問してはばからなかった。
「後藤田殿に最近変った様子は見えなかったのか。本当にお主には一言もなかったのかな? なぜ黙って寺を出られたのか、お心当たりはござろうの」
「後藤田殿は」
汗を拭き吹き、勝之進が言う。
「確かに何か思いつめておられたように存ずる。近頃では何かこう、鬼気迫るというか……ともかく、拙者が言葉を掛けても返事もござらなんだ」
「白菊丸がこの寺にいると知らせに、石ノ松城へ走ったに違いない」
あっ、と皆がその声の主を見た。
丞蝉であった。
智立が大きく頷く。
「残念だが、わしもそう思う。早く白菊丸殿をここからお逃がせした方がよいじゃろう」
「ひとまず、廃寺へ参りましょう。あそこなら人目もない」
丞蝉のその言葉を聞くや、勝之進はがばと平伏した。
「若を、お頼み申します! 拙者はこれより後藤田平八を追討いたす……では若君、御免!」
こうして結局白菊丸が頼れるのは、丞蝉きりになってしまった。
廃寺は、白菊丸にとって決して居心地の好い場所とはいえなかったであろう。
常人である白菊丸にはもちろん目にこそ見えなかったが、丞蝉に呼び出されたままの妖魔たちがうようよと辺りを這っていたし、寺自体立ち枯れた林に覆われ、あまり陽も差さず常に薄暗かった。
季節は冬で、草花を楽しむ環境にはなかったとはいえ、この寺の辺りはおそらく春夏でも花をつける木などないに違いない。
とにかく墓場のような場所であった。
「灯りは消さないでくれ、丞蝉」
夜になると、怯えるように白菊丸は哀願する。だが丞蝉はにべもない。
「だめだ。灯りを人に見られたらどうする。もっと頭を働かせるのだな、若君」
真っ暗な闇の中、物の怪の気配さえ感じ、恐ろしくて丞蝉の側から一歩も離れられず、同時に自分の不遇に涙が自然と湧いてくる。
しがみつく白菊丸を、丞蝉は組敷き当然のように犯した。
だが白菊丸にしても暗闇の恐怖を感じ続けるより、誤魔化してでも眠りにつけるのならその方がよかったろう。
こうして、昼間は相変わらず丞蝉がひとり書を読むか荒行をしているので白菊丸はすることもなく、夜になれば丞蝉と同衾する毎日が続いた。
時々、平助が身の回りの世話にやってきたが、丞蝉はこの男を嫌ってすぐに追い返してしまうので話相手もいない。
一度、智立老師から若年僧を一人やろうと言われたが、丞蝉が即座に断っていた。
――わかっている。私は今、ひっそりと隠れていなければならぬ身。だから仕方がないのだ。
それでもこんな無為な毎日に、白菊丸の元気は目に見えて衰えていった。