第三十六話 白百合の影(三)
「大丈夫だ。それより……そちらは怪我はないか?」
女はまだ青ざめた面をしていたが、はっきりと縦に頷いた。
「はい、おかげさまで。本当に助かりました」
だが女の顔を見た丞蝉は、それきり言葉に窮してしまった。
何しろ若い女と対面したのは、八歳より以降、覚えがない。寺は女人禁制ゆえ、丞蝉も高香も、入門してからは女性とは一切無縁であった。
だが、今目の前にいる女は。
女は、このような山奥では見かけぬほど美しかった。
白い花の弁のようにしっとりとした肌に、黒目がちの大きな眸がつつましく輝いている。
朱をさっと引いたような唇はふっくらと豊潤で、その身からは芳しい香りが香ってくるようだ。
代わって、まだ女性には頓着ない高香が声を掛ける。
「旅の途中とお見受けします。どちらまで行かれるのでしょう、先は長いのですか?」
すると女は伏目がちに、
「わたくしは、月ヶ瀬村という村へ参るところでございます。ところがこの山で道に迷ってしまいまして……。どなたか道案内をしてくださる方はいらっしゃいませんでしょうか?」
と、言った。
今度こそ困ったように、丞蝉と高香は顔を見合わせた。
が、次の女の言葉を聞いた時、二人とも、何とかする他はないと観念した。
「実は……わたくしのお腹には赤子がいるのです。これ以上、彷徨っている訳にはいかないのです。どうか、お慈悲を」
円嶽寺の周辺には人家はまったく存在しない。
秋の日は短く、また急激に冷え込むので、女の身を一時寺へ置くのに待ったはなかった。
丞蝉が女と物陰に潜んで待っている間に、高香が急いで寺男の一人に話をつけてきた。
寺男は仰天し、智立法師がお許しになるはずはないと青くなったが、さりとて身重の女をこのまま非情に山中に放り出す訳にもいかず、こっそりと寺へ招き入れ一夜の宿を提供したことであった。
丞蝉は、部屋に入り、高香に薬草で傷の手当てをしてもらうと、
「明日俺が月ヶ瀬村まで送って行こう」
と言った。
「あなたが?」
高香は目を丸くした。
「この傷では、途中お辛くなるのではありませんか。誰か他の者に案内させた方が……」
だが丞蝉は、己の傷を包帯できつく締めながら言った。
「いや、乗りかかった船だ。俺が行く」
そうして高香を見た。
「まだお前に礼を言っていなかったな」
「いえ……」
薬箱を片付けながら、高香が言う。
「私も偶然、薬草を採りに出ていたものですから。それにあれは真言の力ですよ、丞蝉殿」
そう言われ、この男はあからさまに顔を歪めるを禁じ得ず、つい苦笑まで洩らす。
そうだ、俺はまだまだ修行が足りておらぬ。
肝心な時にふぬけてしまうとは。
無気力のまま高香が出て行くのを見ていた丞蝉は、だが不思議なことに、いつもは感じる闘争心がまったく起こらないことに気がついた。
今自分の心は、他のことに気を取られているようだ。
ふと、目の前に、今日助けた女の姿が浮かび、体中が熱くなる。
女か……。
その夜、丞蝉の夢の中に出てきたのは、白菊丸ではなく、つつましやかに目を伏せる白百合の如き乙女であった。