第三十五話 白百合の影(二)
「早く逃げろ!」
もう一度丞蝉は叫んだ。
そして、ようやく腿から離れた山犬と組み合って地面を転げた。組み伏せた獣を拳で殴りつける。
女は四つん這いに這いながら、丞蝉に落ちていた枝を差し出した。
丞蝉の手がそれを掴み、勢いよく振り上げる。
たちまち尖った枝は、獣の腹を容赦なく貫いていた。
だが断末魔の声が木々にこだました後、息を乱した丞蝉がようやく女に声を掛けようとしたその時であった。
近くで、さらに多くの不気味な唸り声がしたのである。
ふと顔を上げると、なんと、そこここの藪の間から光る眼がいくつもこちらを睨んでいるではないか。
やつら、集まってきおったか!
そう思う丞蝉はすでに血にまみれ、右の拳にこれ以上力を込められそうにないどころか、立ち上がる気力さえない。平時の修行で獣と対峙してきた精神力も、今は完全になくなっているのが惨めであった。
山犬の群れは、少なくとも五匹。
何とするか。
その時、後方から錫杖の鈴の音が聞こえ、真言が流れてきた。振り返った丞蝉の目を、まるで目くらましのように強い黄金の光が射た。
高香だった。
片手に錫杖を持ち、もう一方の手で印を形作りつつこちらへ向かって歩んでくる。そしてその身は、大きな黄金の光に覆われていた。
高香はそのまま二人を行き過ぎ、なおも藪の中に潜む山犬に近付いてゆく。
獣の唸り声が、心なしか弱くなったようだった。
腹に力のこもった、子供とは思えぬ朗々とした声。
傷の痛みに耐えつつ、丞蝉は、高香の唱える真言が、闘争心を静め心に平穏を呼び込むそれであることを悟った。
そして真言の威力もさることながら、今改めて知る高香の気の大きさに驚いていた。
それは五年前に見た煙のような頼りないものとは違い、今やはっきりと放射状に強く煌いていたのである。
丞蝉の背中に冷たいものが流れ、いよいよ全身は重く沈んでゆく。
高香の真言が、丞蝉の闘気さえも消し去ったか。
一方、山犬たちは高香の光から遠ざかろうと徐々に後退さってゆく。
だがついに、くぅんと鼻を鳴らすと尾っぽを巻いて一目散に逃げ出していった。
ほっと息をつくと、高香は振り返り、「大丈夫ですか、丞蝉殿」と言って小走りに走り寄って来た。そして脚の噛み傷を見、
「早く寺へ帰って手当てをいたさねば。立てますか?」
と、心配そうに顔を覗き込んだ。