第三百四十話 思惑(二)
丞蝉の毒気にあてられたか、天礼はもう指一本動かせない自分を感じ、我が身を呪わざるを得ない。
その時、大きな手に持ち上げられ、担がれるのを感じた。
「岩猿。そいつを湯に放り込め」
岩猿という男は、丞蝉に負けず劣らずの巨体である。
黒く針金のようにごわついた髪に髭。手も脚も、そしておそらく体中が深い毛に覆われている、毛むくじゃらの男。
瞳だけは誠実そうなこの男は、ひとつ頷くと、肩に担いだ天礼を湯場へと運んでいった。
そして天礼を着物のまま湯に放り込むと、今までぴくりともしなかった男がじたばたと湯をかき、慌て湯面から顔を出すのを小鼻を膨らませて見ていたが、やがて丞蝉が鬼六を伴って湯場へ入ってくると大人しく脇へ引いた。
無言のまま、丞蝉は、湯の中で溺れそうになっている天礼をじっと見つめている。
天礼は叫んでいた。
「な、何をする! 私は目が見えぬのだぞ、殺す気かっ」
それでも、岩にすがりつきながらやっと湯の中に腰を下し、ほおっとため息をついた。
どうやら湯の温かさに人心地ついたらしい。
顔にも色味が戻っている。強気の愚痴も出た。
「まったく、馬鹿者めが。私を殺したら、『陰陽の秘伝』の在りかを丞蝉に教えられなくなるのだぞ――そんなことになれば、おまえの首も確実に飛ぶわ」
「すっかり口も戻ったようだな。では話してもらおうか」
ぎくりとし、思わず湯の中で身を返す様が滑稽に映ったか、鬼六がくくっと笑う。
天礼の見えない濁った瞳が大きく見開かれ、丞蝉を凝視していた。
「――『陰陽併せ持つ子』を見つけたのか」
その重々しく低い声は、湯面を伝ってまっすぐに天礼に届き、彼の心臓を震わした。
そしてこの瞬間、天礼は、丞蝉がまぎれもなく今も『陰陽伝』に取りつかれていることを悟らずにはいられなかったのである。
どころか、怨念のようなどろどろとまとわりつく執着心は、以前にもまして強くなっているのではあるまいか……。
(どうしてこんな怪物の手に、『陰陽伝』が渡ってしまったのか?)
そう悔やまれはすれ、その経緯はすっかり忘れてしまった。
ただ、今こうなった自分を、白菊丸の霊が嘲笑っているように思えてならなかった。
湯の中で、天礼はぎゅっと拳を握り締め、(だが、まだだ。まだ負けておらぬ。きっとここから――抜け出てみせる) そう自身に言い聞かせる。
天礼は、にいーっと笑い、
「そうだ。見つけたぞ、丞蝉。私の命を助け、ここから逃がしてくれると約束するなら、その子供のことを教えてやる。さもなくば、このまま秘密とともに死んでもかまわぬぞ」