第三百二十六話 小楽の時
「天礼、ほらこれ。ミョウジから借りてきた」
本当は、勝手に持ち出してきたのである。
それは説法集であった。
「読んであげるよ……ええと」
紫野は天礼の横に座るとそれを開き、声に出して読み始めた。
庵の中は、ずいぶんとこざっぱりしていた。
部屋の中心には囲炉裏もあって、今日のような雨降りの日には火を入れると少しむっとするが、古い鉄瓶にはちゃんと湯も沸いている。
こうして天礼とゆっくり時を過ごすのは、紫野にはもう当たり前のことになった。
やがて小半刻もしないうちに、説法集に飽いた紫野はそれを放りだし、二人の話はまたいつものような雑談に戻る。
時々二人は声を立てて笑い合い、またひそやかに話すのだった。
「……で、疾風はいいやつなんだけど、お節介なんだ。俺のこと、まだ村の子供と同じように思ってる。俺だって、ちゃんと自分で考えてできるのに。いつも見張られているようで、時々嫌になる」
「ほうほう。なるほど」
天礼は否定もせず、ただにこにこと聞いている。
紫野は続けた。
「聖羅といる方が、最近は気が楽だ。聖羅は普段すっごく偉そうにするんだけど、でも時々笑っちゃうんだ。それに、聖羅は――すっごく怖がりなんだ」
他に誰も聞いている者はいないのに、紫野は「怖がりなんだ」というところを天礼の耳元で囁くように言った。
「怖がり、かね?」
天礼の見えない目がぐるりと紫野の方を向く。
「前に峠で物の怪を見た話をしたよね。あの時も、聖羅の方が幽霊みたいに真っ青でさ、ガタガタ震えてるんだ。俺も怖かったけど、震えるほどじゃなかったな。だって側に疾風もいたし」
そこで紫野は、思い出したようにくくっと肩を揺らせるのだった。
「朝起きた時の、あのにやけた顔――聖羅ったら夜中に怖くなって、俺の布団にもぐり込んできたんだ。まったく信じられない」
「楽しいかね、紫野」
「うん」
天礼は紫野の手をポンポンと叩くと、頷きながらしわがれた優しい声で、
「いいことだ。いい友達は何にも勝る財産になる。大切にな」
と言った。
「天礼、天礼には友達は?」
「いたとも、昔は大勢な――しかし皆行ってしまった。今はおまえが私の友達だ」
こんなふうに他愛もない話をしながら、(いつか天礼になら体の秘密を話せるかも知れない)と、紫野はきらりと黒い瞳を輝かせた。