第三百二十二話 春
あの後、疾風や聖羅に「気にするな」と励まされた紫野は、だがすでに「何のことだろう?」と思ったほど、心の中は天礼という僧のことで占められていた。
「紫野が気にしていなくてよかった」
疾風が胸をなでおろす一方で、聖羅はまたもいらついていた。
「やっぱり心配するだけ損だ。あいつ、ほんとはぜんぜん弱くなんかないんだ」
何でもない振り、微笑んだ振り――
紫野は、やっとそんな振りをしなくてもいい相手を見つけたのである。
天礼は目が見えない。
俺の体も、俺の表情も、俺の仕草も、何もかも見えない。
だから俺は監視されずにすむ。
相手の目を気にせずにすむのだ――
それから紫野は、ちょくちょくこの破れ庵に顔を出すようになった。
まずは、傷んだ床を直し、壁の泥を払い、できるだけ清潔に生活ができるように心を込めて掃除をした。
それから天礼の髪を梳き、切りそろえて一つに結う。
体を拭いて寺から持ち出した和尚の古い着物に着替えさせると、天礼には、風格といおうか不思議な気品が漂い始めた。
「天礼、すごい。やっぱり立派なお坊様だったんだね」
嬉しそうに紫野が言うと、天礼はぐっと上を仰ぎ、
「ああ、生き返ったようだ……ありがたい」
そう言って、涙を流した。
天礼の実年齢は見た目よりずっと若く、色々と苦難をくぐり抜けてきたふうであった。
そのせいか、始終穏やかな態度で紫野に接し、そのしわがれた深みのある声は、不思議と紫野を安心させてくれるのだ。
天礼の側なら、平気で転寝さえできる自分に、紫野は満足していた。
「おい、転ぶなよ」
菜の花が煙る緩い土手の斜面を行きながら、疾風が子供たちに声をかける。
「まったく、餓鬼はいいよな。こんな力仕事しなくていいんだから」
疾風の横を歩いていた紫野の後ろで聖羅がぶつぶつとぼやき、ついでに背中に負った山仕事の道具が入った籠をよいしょと背負い直した。
と、疾風が振り返り、口元に皮肉っぽい笑みを浮かべ、
「ほお。いつまでも餓鬼でいたいってか、聖羅。よし、わかった。なら霞組は俺と紫野でやっていく。そら、走ってゆかねば置いていかれるぞ……おおい、ちょっと待ってくれ。聖羅もすぐに行くから」
前を行く子供たちが一斉に立ち止まって、不思議そうにこちらを見ている。
「ちぇっ。勝手にしろ」
聖羅のこの上なく情けない顔が可笑しくて、紫野は疾風と目を合わせて笑った。
本物の笑顔である。
天礼の存在が、完全に紫野を変えていたのだった。