第三百二十一話 盲目の男
紫野はどこまでもハナカゲを走らせていった。
初春の山には霞がかかり、まだ冷たい空気が容赦なく胸の中に流れ込む。
それでもいくらか気持ちがすっきりしてきた紫野は、馬の速度を落とすと周りの景色に目をやった。
すると右手の方に、高い木立に囲まれた庵があるのが目に入ったのだった。
何の変哲もない庵である。
しかし紫野は、吸い寄せられるようにそちらへ馬を進めていた。
人々から忘れ去られたようなその庵は、すでに屋根の半分は崩れ落ち、怖々覗いてみると、暗い庵の中には泥臭さが満ちて床には大きな穴が開いている。
それでも紫野は、ふと、高香がそこに立ち寄っているのではないかという気になった。
「高香……こう、か」
ひっそりと声に出して呼んでみる。
だが中はまったく人の気配がしない。
(やっぱりこんなところに高香がいるわけない。高香は行ってしまったのに)
暗い部屋に背を向けると、表で日を浴びて白く輝いているハナカゲがヒヒンと鳴いた。
その時、
「そこにいるのは誰だ。泥棒か」
というしわがれた声がしたのだった。
驚いた紫野はふたたび身を返すと、まだ姿の見えない相手に即座に謝る。
「どなたかおいででしたか。知らずに入り、申し訳ありません。俺は草路村の紫野と申す者、怪しい者ではありません」
すると暗い闇の奥から出てきたのは、意外にも盲目で杖をついた初老の男であった。
かれの身なりは誰も世話する者がないのか、白髪は伸び放題、衣服は薄汚く粗末としかいいようがない。
「さようか、草路村の……。声から察してまだお若い方のようだな」
「すぐに立ち去ります。お邪魔をして……」
ところが男は手を振った。
「いやいや、よければ少し話をしていってくれぬか、お若い方。私は天礼と申す。流れ者の僧だが、今は嘉平次殿の慈悲により、この庵に住まわせてもらっている」
――流れ者の僧。ああ、だから高香と同じ気配がしたのだろうか。
急速にこの男に興味を持った紫野は、瞳を輝かせた。